無邪気なライオン、臆病な狩人
『志波くんと、別れると思う』
「……は?」
あまりにもあっさりと、事もなげに言われたので、意味を理解するのに若干の時間を必要とした。発言した本人は、さして表情の変化もなく学食のカフェオレを啜っている。
「…なんだって?」
「だから、志波くんと別れるって」
「どういう事だよ、それ」
苛立ちすら感じながら、佐伯は眉をひそめた。言いながら、何故、当事者のあかりでなく、俺が焦っているのだろうと思う。
「どういう事って、そういう事だよ。そのまま、言葉のまんまの意味」
以前からヘンな奴だと思っていたが、こうなると笑って許せる範囲を超えてるぞ、と、佐伯は頭を抱えたい気持ちになった。ついこの間まで、世界の中心に彼がいて彼女がいて、周りなんて何も見えない、といった具合に相思相愛だった恋人同士が「別れる」。それを決めた瞬間とは、こんなにもあっけらかんとしたものだろうか。もっと、悲愴感というか、重々しさというか、そういうものがあってもいいんじゃないだろうか。
「…やめとけ」
「…理由も聞かないの?」
「理由?」
聞くまでもないね、と、佐伯は鼻を鳴らして肘をついた。顎を乗せ、わざとらしく溜息をつく。
「どうせお前が、訳のわからない事言ってるだけだろ。今ならまだ間に合う。さっさと志波に謝って、元の鞘に収まってこい」
「………訳のわからない事なんかじゃ、ないもん」
何でもないような顔をしていたあかりが、初めて神妙な顔つきになる。そして、こういう顔をされては、佐伯は見過ごすことが出来なくなるのだった。
同時に、事の深刻さをも感じ取る。これは、簡単にはいかないかもしれない。
そもそも、あかりが志波と別れるだなんて口にする事自体、佐伯には信じられない。二人の事は高校の時から知っていた。話に聞くのは彼女からなので、あまり正確な情報ではないかもしれないが、少なくとも彼女の気持ちは知っていた。…たぶん、彼女の恋人である志波よりも、だ。
あかりは、もう一度こくりとカフェオレと飲んだ。大して美味くもない、その薄甘い飲み物を、あかりは割と気に入っているらしい。
「…志波くん、私が他の男の子と友達なのは、嫌なんだって」
「…へぇ」
「特に、佐伯くんは…嫌、なんだって。不安なんだって、言ってた」
「だろうな」
全く、真っ当な意見だ。どこの世界に、自分の恋人が他の男と仲良くするのを是として見ていられるだろう。
(だけど)
それは、あかりには言うべきじゃなかった。佐伯は、僅かに目を細める。真正面ではなく、横の、学食の窓の方に視線を移した。
「どうして?どうして私が佐伯くんと会うと、志波くんが不安になるの?」
「そりゃ、もしかしたら、お前が志波よりも、俺の方に気がいくかもって思うからだろ」
真面目に答えるのもバカバカしいが、佐伯は懇切丁寧に答えてやった。時折、こいつは物凄く頭が悪いんじゃないだろうかと思う時がある。
佐伯の答えを聞いて、あかりは目が覚めたような顔をして、それから、はっきりと「ありえないよ」と言った。ほんの一瞬も、迷わずに。
「だって、佐伯くんは私の友達でしょう?どうしてそんな事になるの?」
そうじゃないんだよ、と、佐伯は心の内で苦々しく思ったが、黙っていた。言ったところで彼女には到底理解できない。
佐伯はむしろ、彼女の心を量りかねている(であろう)志波の気持ちのほうが、ずっと理解できた。自分だって同じ立場なら、彼と同じ不安に取り憑かれるだろう。友情だと思い込んでいた気持ちが、いつ恋愛の情に転じるか、切っ掛けなんて誰にもわからない。ましてや、それが「ありえない」だなんて、はっきり言い切れるはずがない。志波は自分たちとは別の大学に在籍している。不安になっても、それがおかしいだなんて事はない。
けれども、そんな誰でも理解できる理屈が、彼女には何故だか通用しないというのも、佐伯は知っていた。だからこそ、自分の今の立場が確立していると言ってもいい。実際、「親友」という立場は佐伯にとっては都合の良いものだった。都合が良く、そして居心地が良い。
「…お前は、何もわかっちゃいないんだよ」
裏を返せば、志波の方もあかりを理解していない事になる。「友達は友達、恋人は恋人」などという、いっそ滑稽とも言える理屈を、堂々と言い放ち、あまつさえ実行する女なのだ。「自分以外の男とどうして仲良くするんだ」と問い質す事なんて無意味だ。そんなの、ライオンに「どうして肉しか食べないのか」と聞くようなものじゃないか。
「もう少し考えろ。もし、俺のせいでややこしくなってるって言うなら、俺が直接志波に会って話してやってもいい」
もちろん、それは彼女を思っての(そして、不憫な志波に対しての)提案だったが、あかりはきっと断るだろうと予測もしていた。普段は優柔不断な一面があったとしても、本当に大事な場面では、彼女は恐ろしく潔くなる。それを「無邪気」と取るか、「残酷」と取るかは周囲の判断だ。
「そんなの…悪いよ。大丈夫、私、ちゃんと一人で話せるから」
ごめんね、ありがとう、と申し訳なさそうに笑うあかりの目に、けれども迷いはない。結局のところ、この日、一日中重苦しく、沈鬱な気持ちで過ごしたのは佐伯の方だった。
数日後、あかりからメールがきた。その日は授業もなかったから部屋でだらだらと寝過ごしていて、ふと時計に目をやれば、もう夕刻だった。薄い藍色の空が寒々しいなと、佐伯は部屋の中から見上げる。
『志波くんとは、お別れしました』
簡潔な文章だった。その一文をしばらく眺め、それから携帯電話をスタンドに直す。返信しようかと迷ったが、やめた。うまい文章が思い浮かばなかった。
(…どうしろってんだ)
苦い、煮え切らないような気持ちが苛つく。今となっては志波の事はどうでもいい。だが、志波とあかりが「付き合っている」という事実が、佐伯には重要だった。
――どうして私が佐伯くんと会うと、志波くんが不安になるの?
「理解する」ことよりも、「好きである」ことの方が、ずっとずっと強くいられるのかもしれない。傷付いても、前に進めるのかもしれない。…前にも後ろにも動けない、『親友』という枠から動きだせない自分が、一番どうにもならないのかもしれない。
空の色は、どんどんと闇が濃くなっていく。それを見て、背中が勝手にぞわりと震える。少し考えて、佐伯はもう一度、携帯電話を手にした。
『今度、美味い珈琲淹れてやるよ』
それだけ打って、送信のボタンを押す。これ以外、思い浮かばなかった。こうするしか、出来なかった。
(…このままでいい)
『親友』であれば「捨てられる」ことはない。近付くことはなくても離れることもないだろう。痛みを感じないわけではなかった。それは、いっそ切実だったけれど、それでも佐伯は何も変わらなくていいと、強く念じる。あかりが変わること(友達は友達のままであると信じて疑わない愚かな純粋さ)もないし、自分が変わること(本当はずっと好きだったなんてバカバカしい事を言い出す野蛮さ)もない。幸いなことに、誤魔化すことは得意だ。胸の痛みに気付かないフリをするのなんて、容易いことだ。
(俺は、「変わる」ことなんて、これっぽっちも望んじゃいないんだ)
固く目を閉じて、強く強く言い聞かせる。そしてそれは、ひどく惨めな気分になった。
『別れた』という文字を見た時から、早くなった鼓動が、今でもおさまらない。
|