「赤ちゃん見に行こうよ!」
それは、あいつからの突然の誘いだった。
ムクなるボクらに祝福を
「ええっとね、確か場所はここ…って、もう佐伯くん。まだそんな顔してるの?」
「だってさ、どうして俺が一緒に来るんだよ、ここに」
「来るって言ったじゃない、佐伯くん」
「そりゃそうだけど……」
「入院病棟入口」の案内板の前で、俺は何度目かのため息をつく。空を見上げればすっきりと晴れていて、皮肉なくらい健やかな秋晴れだった。
「赤ちゃんを見に行こう」と言ったあかりの口調は、何だか動物園のライオンの赤ちゃんを見に行こうというのと同じようなノリに聞こえたので、つい承諾してしまった。
そりゃ、店とかぶらない限り、俺はこいつからの誘いを断ったりはしないんだけど。それにしてもよくよく考えればそれが普段のデート(と主張したい、俺は)と同じなわけはない。
何でも、あかりの母方の親戚なる女性がはばたき市の病院で出産したらしい。生まれた赤ん坊もそうだけれど、その女性に会う事自体も久しぶりらしく、あかりは今日はずっと浮かれっぱなしだ。
その隣で、俺は何となく浮かない顔をして歩く。あかりはふと俺の顔を覗き込む。
「な、なんだよ?」
「もしかして佐伯くん、緊張してる?」
「ばっ……緊張なんか、するわけないだろ!」
慌てて言い返したが、実のところ図星だった。
そもそも、俺は生まれたばっかりの赤ん坊って実際には見た事が無い。そりゃテレビとか新聞とか写真では見た事あるし、どういうものか大体想像だってつくけれど、とにかくリアルに見たり、触れたりするのは今日が初めてになる。
だって俺には妹も弟もいないし、親戚の中でも子供が生まれそうな人はいない。大体、親戚付き合いというものがあまりなかった、気がする。
だから、カッコ悪くてあかりには絶対言えないけど、緊張もしてるし何となく億劫だ。あかりは親戚かもしれないけど、俺は赤の他人だ。そんな奴がイキナリ赤ちゃん見に来ましたー、なんておかしい気がする。
それにしても、病院って何度来ても何時来ても落ち着かない場所だ。つんと匂う消毒液の匂いとか、やけに白い天井とか、壁かけのテレビから聞こえるニュースを読む無機質な声とか。
本当に落ち着かない、帰りたい。「珊瑚礁」のコーヒーの香りが懐かしい。
「今日だけは、お前の気楽さが羨ましいよ」
「何それ?…大丈夫だよ。おねえちゃんには、友達も連れて行きますって言ってあるし、そんなの気にする人じゃないから」
「…………トモダチ、ね」
「え、なに?何か言った?」
「いーや何にも」
こいつの能天気さはいつもの事だ。とにかく、ここまで来たらいい加減腹をくくろう。俺の内心の葛藤はともかく、子供が生まれた夫婦にしてみれば笑顔で祝福されたいだろうし、そうであるべきだと俺だってわきまえている。それに、出来れば好印象の方がいいし。例え「お友達カテゴリー」だったとしても、だ。
病室は、当然だろうが清潔で、明るかった。出迎えてくれた夫婦は、これまた「人が良い」のを判で押したみたいな二人で、ああ確かにあかりの親戚だろうなと思わせる。
あかりが「おねえちゃん」と呼ぶベッドにいる女の人は、想像していたよりも元気そうだった。出産したばかりって、もっと疲れた感じかと思っていたのに。俺を見て「はじめまして」と言った笑顔は穏やかで、何故かほっとする。
笑った時の雰囲気がどことなくあかりに似ているからかもしれない。
「おねえちゃん、おめでとう!元気そうだね」
「ふふ、ありがとう。お陰さまで母子ともに元気です」
そう言ってから、その人は少しいたずらっぽく目を細める。
「それにしてもあかりちゃん。お友達って聞いてたけど、こんなカッコイイ男の子を連れてくるなんて聞いてないわよ?本当にオトモダチ?」
「ち、違うよ!ええっと、こちらは佐伯瑛くんっていって…バイト先でも一緒でお世話になってて…」
「初めまして、佐伯です。おめでとうございます」
なんで思いっきり否定するかな、と思いつつも俺はにこやかに挨拶した。いや別に、こんな所でまで猫かぶるつもりはないけど、つい癖で。でも、ちゃんと言葉には気持ちは込めて言った。うん。
「ねえ、赤ちゃんは?ここにはいないの?」
「もうすぐ看護師さんが連れて来てくれるわ」
言ってる傍から病室のドアが開いて、看護師さんが割と大きめなベッドを押して入ってきた。それと同時に旦那さんは、電話するついでに何か買ってくると言って出て行った。人が良さそうなうえに気遣いできる人らしい。
ゆったりしたベッドの中に、赤ん坊は眠っていた。かわいい!と隣であかりが歓声を上げる。
「かわいい〜、ちっちゃい〜。ね、男の子?女の子?」
「女の子よ」
へぇ、そうなんだぁと相槌打ちながら、あかりが赤ん坊に手を伸ばすのを見て、俺はぎょっとなった。
「ちょ、お前、何してるんだよ!」
「何って、さわろうと思って」
「そんな、触ったりしていいのかよ」
「あら、大丈夫よ。佐伯くんもどうぞ」
こんな素敵な男の子に触ってもらえるなんて幸せな子よねぇ、なんて若いお母さんは暢気に笑っている。
「うわぁ…手とか小さくて…、まだちょっとしわしわだね」
「あぁ……そうだな」
「ほら、佐伯くんも触らせてもらいなよ」
「わかってるってば」
何だってこいつはこんなにもあっさり赤ん坊に触れられるんだろう。かわいいかわいいって言うけれど、俺としては何だか妙な感じだ。こんな小さな生き物が自分と同じ人間だなんてちょっと信じられない。
頭も手も足もみんな小さくてふにゃふにゃしてそうで、何だか触れただけで形変わりそうだ。
それでも触ってみたい好奇心はやっぱりあって。俺は恐々と、慎重に手を伸ばす。触れた小さな手は柔らかくて、少しつめたい。
ホントにちっちゃいんだなと、当たり前すぎてバカみたいな感想しか浮かんでこなかった。ああでも、生きてるんだなって思う。
指とか、どうなってんのかなって、手の平に指を持って行くと、不意に赤ん坊がそれを握り締めてきた。きゅっと握ってくる小さな小さな手。
あ。ヤバい。カワイイかもしんない。
「あっ、いいないいなー佐伯くんばっかりズルい!」
「ウルサイ。静かにしろってば、お前、声大きい!」
「あらまぁ。赤ちゃんでもカッコイイ男の子はわかるのね〜、さすが私の子。ねぇ佐伯くん、うちの子に気に入られたついでに抱っこしてみない?」
「ええっ!」
横ではあかりが、「私も抱っこしたいー」などと暢気に言っている。
ていうか、冗談じゃない。こいつの家ってみんなこうなのか?この能天気さは海野家の遺伝か?
こんな生まれたばっかりの子供を抱っこなんか出来るわけないだろ。かわいいけれど、怖くてしょうがない。
けれどそんな俺の思いは余所に、女の人はベッドから起き上がり、ひょいと赤ん坊を抱き上げる。そして、俺の前に立った。
「ほら、こうして首のところ支えてね」
「いや、あの…本当にいいですから」
「大丈夫だってば。……ほら」
半ば無理やりに押し付けられた赤ん坊を、俺はとにかく必死になっていわれたとおりに抱いた。腕にかかるあたたかな重み、頼りないくせに、でも、ちゃんとずっしりと存在感はあって。
なんか、わからないけれどこっちまでじんわりあったかくなる。怖いけれど、でももう少し抱いていたいような不思議な感覚。
腕の中でもぞもぞと動く赤ん坊を見て、やっと俺はその子に笑いかける事が出来た。
「あ〜…ホントにかわいかったねぇ……また会いたいなぁ」
「俺はもういい。なんか疲れた……かわいかったけど」
「えへへ、赤ちゃんと触れ合ってる佐伯くんもかわいかったなーそういえば」
「……なんだよ、それ」
むっとして言い返せば、楽しそうにあかりは笑う。
「だって佐伯くんてばすっごいビクビクしてるし。ちっちゃい子みたいな顔してた」
「仕方ないだろ!下手なことして、取り返しつかないことになったりするかもしれないんだから!」
「あははは!でも、抱っこしてる時は優しい顔してたね」
「そ、そんなこと、別に」
「良いお父さんになるんだろうなー」
そこまで言って、あかりは「よしっ」と小さくガッツポーズをした。
「私もいつかかわいい赤ちゃん産もうっと」
「はあぁっ!?」
思わず声を上げる。いきなり何言い出すんだ、こいつは。
「どうしてそんなびっくりするの」
「お前がいきなり変なこと言うからだろ」
「変じゃないよ。そりゃ佐伯くんが産むって言ったら変だけど」
「当たり前だろ!って、そうじゃなくて、お前わかってんのか?子供って、一人で産めるわけじゃないんだぞ?」
「?うん。まぁ、それはそうだね。どうして佐伯くん、そんな赤くなってるの?」
「なってない!お前みたいなコドモには早すぎ。無理」
「いたっ、何でいきなりチョップ……だからいつか、って言ったじゃない!って、ちょっと待ってよ佐伯くん!」
「待たない!」
ぼやぼやしてるあかりを置いて、俺はさっさと歩いた。待てるわけない。自分でもわかるくらい、今、顔が熱いから。
お前が変な事言うから、さっきの夫婦の光景に自分とあかりを重ねてしまったせいだっていうのは絶対に言えない。
手の平には、さっきの赤ん坊のぬくもりがまだ残ってる気がした。