この、美しい世界を (2)
「それになる為には、コーヒーの知識だけじゃダメで…だからその子…佐伯くんって言うんですけど、ケーキとか焼くのも本当に上手で、まるでプロみたいなんです」
どこか誇らしげにさえ言う彼女に、私はうまく笑えているかどうかが気になった。
(じゃあ、この子がバイトしているのは「珊瑚礁」…)
言ってしまおうかと、一瞬思った。自分がその「佐伯くん」の母親ですと。だからあの子の話を聞きたいのだと、私は店に行く事が出来ないからと。そうしたら彼女はどうするだろう。
気の良さそうな子だから、言ってしまっても問題無いかもしれない。何でも話してくれるかもしれない。うまくいけば、この子を通してあの子に会えるかもしれない。
けれども、ぎりぎりのところでそれは出来ないと私の理性が叫ぶ。万が一そうなったとして、あの子はどう思うだろう。拗れた関係が、きっと修復出来ないところまで壊れるに違いない。
その覚悟が、私にはなかった。
「…その子は、どんな感じの子なの?」
「へ?佐伯くんですか?」
「え、ええ…バリスタ、なんてなりたいって、どういう感じの子が言うのかしらって、ちょっと興味があっただけ、なんだけど」
心臓の音が体中でドクドクいっているのがわかる。声を震わせないようにするので必死だった。けれど彼女はこちらの動揺にはまったく気が付くことなく「そうですねぇ」と首を傾げている。
「学校では、羽学のプリンス、なんて呼ばれてて、成績も良いし女の子にモテモテだし…でも、店の時はぜんっぜん違うんです。すぐ怒るしチョップするし、まぁ私がドジなのも悪いんですけど」
「チョップ…」
何だか信じられないような話だ。話の前半はともかく、後半は本当にあの子の話だろうか。女の子にチョップするなんて、そんな事する子に育てた覚えはないのだけれど。
「でも…どうして?学校では、その、王子様みたいなんでしょう?」
「問題を起こしたくないからって、猫かぶってるんです」
「猫…」
「もし問題を起こしたら両親に連れ戻されるからって、だから学校では優等生でいなくちゃならないんだって」
あまりの答えに、返す言葉もなかった。海野さんの前でなければ、泣きだしてしまったと思う。テーブルの下で、手をぎゅうっと握り締めた。
やっぱり私はそんな風に追い詰めることしか出来ないんだろうか。
「…よっぽど、ご両親のこと、嫌いなのね、彼は」
「うーん…。嫌いっていうか、わかってもらえないって思ってるみたいで。でも、私は佐伯くんのご両親ってきっと良い人だろうなって思うし」
思わぬ言葉に、私は無遠慮に彼女の顔を見つめてしまった。この子は一体、何を言うのだろう。
「だって、息子にもそんなに嫌われて…しかも貴女にチョップ、するような男の子の親よ?……母親失格だわ」
「そんな事ないですよ!佐伯くんは確かにぶっきらぼうな所あるけど、でも、本当は優しいんです。おじいさんの事もお店の事もすごく大事に思ってるし、それに、何だかんだ言っても最後は助けてくれて…頼りになるんです」
「……」
「そんな佐伯くんのご両親だから、きっと良い人だって、私は思ってるんです。たとえ今は、うまくいっていないとしても」
曇りのない、真っ直ぐな目を向けられて、けれど、私はやっぱり何も言えないままだった。
言いようのない、不思議な気持ちだった。嬉しいようなほっとしたような、そして少しだけ悔しいような。
それでも、私は笑う事が出来た。あの子が笑っているところが想像できたから。それは、とても久しぶりだった。そうして、ほんの少しだけ肩の力が抜けた気がした。
「その子は幸せね」
「……え?」
「貴女みたいな、お友達がいるんだもの。…きっと、ご両親も安心されると思うわ」
そう、貴女みたいな子が傍にいてくれるから、あの子はきっとここでもやっていける。うまくいかない事がたくさんあっても、笑ってやっていける。
きっとあの子だけじゃなくて、私も。
店を出たところで、「海野さん」と私は彼女を呼び止めた。彼女は、今から「珊瑚礁」でバイトらしい。
空は、垂れ込めていたいた雲が少し晴れて、茜色の光が差し込んでいる。
不思議そうな顔をする彼女の目の前に、私はそれほど大きくはない紙袋を差し出した。ここに来る時はいつも持ってきて、そして、そのまま持って帰るもの。
「あの、これは…?」
「これはね、焼き菓子なんだけど、割と美味しくて。そのバイト先のイジワルな男の子とどうぞ」
「ええっ!でも、ケーキもご馳走してもらったのに」
「いいのよ、どうせ持って帰っても誰も食べないのだし…味にうるさい彼が気に入るかどうかはわからないけれど」
半分は、嘘だ。これは、あの子が小さい時からのお気に入りのお菓子だから。彼女はしばらく考えてから、やがておずおずとその紙袋を受け取ってくれた。
「えっと……じゃあ、佐伯くんにお土産にします。あの、手帳拾っただけなのに…、本当にありがとうございます」
「いいえ、こちらこそ楽しかったから。本当にありがとう…それと、その佐伯くんと仲良くね?」
「……?はい、それじゃあ失礼します」
「ええ、気を付けて。……また、ね」
丁寧にお辞儀をしてから弾むように歩く彼女の背中を見送りながら、「またいつか」と、もう一度小さく呟いた。そして、帰る前にもう一度海を見て行こうと決めて歩き始めた。少しだけ疲れていたけれど、足取りは軽い。
もうしばらく、ここに来ることはないだろうから。
「こんにちはーっ」
挨拶をしながら扉を開けると、いつものようにマスターはにこやかで、佐伯は相変わらず不遜な顔つきだ。けれど、今日は少しだけ目を丸くしていた。
「何だよ、今日は早いんだな」
「あれ?まだこんな時間だったんだ、気付かなかった」
「お前は…何の為に時計してるんだかって、あれ?なぁ、お前、コレどうしたんだよ?」
そう言って、彼が指さすのは、さっきもらった例の紙袋だ。上品な茶色の紙袋が、かさりと揺れる。佐伯にしては珍しく、物欲しそうにまじまじとそれを見つめる。
「あ、これはね、もらったの。美味しいんだって、焼き菓子」
「もらったって……誰にだよ?」
「えっと……知らない人」
「はあっ!?お前、知らない人から物もらっちゃいけませんってあれ程言ってるだろ!誘拐されたらどうするんだ!!」
「だ、だって!お礼だって言ってくれたから……!良い人だったし」
「……ったくボンヤリ娘め。今度から気を付けろよ?……でも、ここの焼き菓子、俺、昔っから好きなんだよな…この辺には売ってないはずなんだけど。誰だか知らないけどセンスあるよな、その人」
「うん、すごくきれいな人だった。…そういえば佐伯くんに少し似てたかなぁ?」
「お前な、きれいだからって誰でも俺に似てるとか言うなよ」
「何ソレ。佐伯くん、自意識過剰」
「……ウルサイ。じゃ、これは仕事終わってからな」
嬉しそうに孫が抱える紙袋を見て、祖父であるマスターはほんの少しだけ目を見開いたのだが、何も言わず、窓の外を見た。昼間の雲も、今ではすっかりどこかに消え、海は鮮やかなオレンジに染まっている。
探した人影は、けれどそこから見える砂浜には見つける事が出来なかった。