この、美しい世界を
その日は曇り空だった。低く垂れこめる分厚い雲。頭の奥に鈍い痛みを感じてこめかみを押さえる。
海は少し波が高かった。白い飛沫が泡のように波を縁どる。こういう波を見ると自分は不安や畏怖しか感じないのだけれど、「あの子」が見ればきっと波に乗れると喜ぶのだろう。
あの子は海を恐れない。昔からそう、どんなに言って聞かせても「大丈夫」と言ってどんどん遠くへ行ってしまう。
海風が強く吹き付ける。塩っぽい風が髪を吹上げていちいち手で押さえなければいけないのが鬱陶しい。髪が長いことにはあまり機能性は感じられない。何をするにも邪魔だし、この年になって別に長い髪に憧れも何もない。
けれど、それでも切れないのは「母さんは長い髪が似合うね」といつだったかあの子が言ってくれたからだ。それは、本当に遠い、笑ってしまうくらい昔の話だけれど。
それでも、そんな昔の話を今でも未練がましく大切に思っているとあの子に伝えることが出来たのなら、もう少し状況は変わっていたのだろうか。
(私は…)
一体、どこで何を間違ってしまったのだろう。
あの子が羽ヶ崎学園に行くと言い出したのは全く突然の事で、青天の霹靂とは正にこの事だと思ったものだ。けれど、突然だと思っていたのは私たちだけでで、あの子の中ではずっと前から計画的に考えていた事らしい。
もちろん、私は反対した。到底賛成できる話ではなかった。家を出て、彼にとっては祖父であり、私にとっては舅である人の下で店を手伝いながら学校へ行く。そんな馬鹿馬鹿しい話、どうして許せるだろう。たった十五年ほどしか生きてない子供にそんな事出来るわけがないし、させられるわけもない。
反対をしながらも、私はどこかで高を括っていた。そんな事を言っても、出て行くわけないと思っていた。出来るわけがないと思っていた。あの子は子供で、だから私の傍からは離れないのだと。
けれど、彼は着々と一人で準備を進めて、とうとう受験も羽ヶ崎を受けて、そちらの入学手続きも勝手に一人でしてしまった。あの時期の事は今考えても辟易する。私が泣いても怒ってもあの子は頑として譲らなかったし、主人は私の責任だと責めるし、肝心の舅は「やりたいようにやらせてみなさい」と言うばかりだった。
今も、あの子はこの街で暮らしている。彼の大好きな海と「珊瑚礁」がある街で、私から離れて。
「珊瑚礁」に、けれど、あの子が住み始めてからは私は一度も立ち寄ったことがない。そもそも忙しいというのも理由にあるが、どんな顔をして会えばいいかもわからなくて、いつも遠くから眺めることしか出来ない。大体、行ったところであの子が会ってくれるとも思えない。
電話では、口煩く勉強の事を言うばかりだった。けれど、今となってはもう喧嘩にもならない。あの子は私(あるいは私達)にはとっくに失望していて、何を言っても彼の冷ややかな声音が変わることはなかった。
それが悲しくて腹立たしくて、けれど私にはどうにも出来ないのだ。自分の無力さばかりを思い知らされるようで、最近ではこちらから電話をする事も滅多になかった。
灰色の雲が覆う空の下の街は、まるで色のないモノクロ映画の背景のようだ。ハイヒールを履いている足で地面を踏み締める度感じる痛みだけが、かろうじて現実味を残している。
店の近くまで、もう一度行こうか。それとも今日はもう帰ろうか。
迷いながら歩いているところに、「すみません」と、ソプラノの声が背中に掛かる。初めは自分に掛けられたものとは気付かなかったが、もう一度呼ばれて、振り返った。
目の前には、制服姿の小柄な女の子が息を弾ませて立っていた。顔の雰囲気は少し幼いけれど、たぶん高校生だろう。その子が大切そうに手に持っているのは、見慣れた赤い皮の手帳――私のものだ。
「これ…あなたのですよね?」
「え、えぇ……」
思わず鞄の中を手で探ると、やはり手帳は無い。どうやら鞄の開き口が開いたままだったらしい。自分の不注意に、何だか居たたまれないような気持ちになる。
目の前の女の子は「良かったぁ」とにっこりと笑い、すい、と丁寧に両手でそれを差し出してくれた。受け取ると、皮の感触がしっとりと手に馴染む。
「落ちてるの見つけて、でも、随分先を歩いていらっしゃったから、もし違ってたらどうしようって思ってて。でも良かったです」
「私ったら、うっかりしてて…これは大事な物だったから本当に助かりました、ありがとう。わざわざ追いかけて来てくれたのね」
そう言うと、女の子は嬉しそうにほんのり頬を染めて微笑んだ。女の子独特の、柔らかな雰囲気。そして、何気なく視線を移した彼女の制服の袖を見て、ある事に気が付く。
「あら……ここ、ほつれちゃってるわね」
「えっ!…あ、ホントだ。帰ったらお母さんに直してもらわなきゃ…」
「ねぇ、もし良ければ…私が直してあげましょうか」
えっ、と、彼女は驚いたように私を見たけれど、実際は私自身も驚いていた。自分でも、こんな事を言うつもりはなかった。
ただ、よくわからないけれど少し話がしたかったのかもしれない。誰でもいいから。
「で、でも悪いですそんな…」
「そんな事ないわ。手帳を拾ってくれたお礼もしたいし…そうね、あのお店でお茶でもいかが?」
指差したのは可愛らしい感じの洋菓子店。看板には「アナスタシア」とあった。
その子は「海野あかりと言います、羽ヶ崎学園の2年生です」と丁寧に自己紹介してくれた。本来ならば私も名乗るべきだろうが、「羽ヶ崎学園」という言葉に思わず言葉を引っ込める。しかも、2年生というと、あの子と同学年だ。でもこんな子が通っているなんて、案外あの学校も悪い学校ではないらしい。
そんな事を思いながら、私は曖昧に笑って言葉を濁した。不自然に思われるかと思ったが、彼女は何も気付いていない。
頼んだケーキセットが来る前に、海野さんの制服のほつれを直してあげた。そこから伸びる腕は白くて細い。あの子のものとも、私のものとも違う華奢な腕。
ありがとうございますと満面の笑みで言われ、思わずつられて笑ってしまう。何と言うか、良く笑う子だ。表情がくるくる変わって、それは落ち着きがないと言えばそこまでだろうけど、私にとっては微笑ましいものだった。
これくらいの年の子と、しかも女の子と話すなんて初めてかもしれない。彼女の持つ色鮮やかな空気は、心なしか私の心も軽くしてくれた。彼女は運ばれてきたケーキにも目を輝かせて喜んで、その様子はまるで小さな子供だ。
「ケーキ、好き?私のも良かったら半分どうぞ」
「えっ、そんな…それは、出来ません。さすがに」
「いいの。きっと、貴女に食べてもらったほうがケーキも幸せでしょうから…もちろん無理にとは言わないけれど」
「ええっと…じゃあ、お言葉に甘えて…、頂きます」
「こういうところ、お友達と良く来たりするの?」
「…うーん。良くっていうか…、期間限定メニューが出た時はチェックしますね、敵情視察も兼ねて」
「敵情視察?」
こんなかわいらしい子から、また随分と物々しい言葉が出てくるものだ。何気なく聞き返すと、彼女はこっそりと内緒話をするかのように声を潜めて「私、バイトしているんです」と言った。
「バイト先が喫茶店で…ケーキとかデザートも出すから、他の店でどういうの出してるかって、たまに見に来るんです」
「それはまた…随分と熱心なのね」
将来、パティシエになりたいとかそういうのかしらと気楽に思っていたが、彼女は肩を竦ませて困ったように笑う。
「私がっていうより、一緒にバイトをしてる友達が、ですけど。あ、でもその子は私なんかと違って本当に真剣で、色々研究してるんです!ええっと、なんだっけ……あ、そうだバリスタ!」
バリスタ。その単語に、私はケーキに差し込んでいたフォークを止めてしまった。バリスタ。散々聞かされた、私にとっては呪いの呪文のような単語。
「それになる為には、コーヒーの知識だけじゃダメで…だからその子…佐伯くんって言うんですけど、ケーキとか焼くのも本当に上手で、まるでプロみたいなんです」
(2)に続きます。