桜色フール
今日はエイプリルフールですね。
歩きながら、彼女がそんな事を言った。彼女が歩く度、柔らかそうな髪が揺れて、光が跳ねる。今日は、天気が良かった。絶好のお花見日和だ。
「エイプリルフール?…あぁ、そうか」
「先輩、何か嘘つきました?」
「ううん、考えたこともなかったな。…君は?」
「私も、考えたんですけど…結局、良い嘘が思い付かなくて」
言われてみれば、今日は確かに四月一日だ。彼女と会う日を、僕はここに来るまでに何度も確かめたはずなのに、エイプリルフールである事自体は全く思い出さなかった。
それはそうだ、僕にとって、今日は「彼女と会う」という以外に重要なことは何もない。
「そうか。…いつのまにか四月になってたんだなぁ」
「ふふ、先輩、もうすぐ入学式ですね」
「うん、まぁね」
朗らかな笑顔で言う彼女に対し、僕の表情は幾分ぎこちなくなった。もちろん、彼女は純粋に僕の大学進学を祝福してくれているに違いない。結局、それを素直に受け止められないのは、僕が狭量であるからだろう。このお花見が、「予行演習」であることを、素直に受け止められないのと同じに。
彼女に曖昧な笑みを返し、僕は晴れて水色の空を見上げる。視界の両脇に咲き誇る桜の木があり、そこからはちらほら花びらも舞っていた。水色と桜色のコントラストはひどく優しく、だがかえって僕を憂鬱にさせる。本来、ここに望まれるべきは、僕ではないのだ。
「…先輩?」
「…あぁ、ごめん。桜が綺麗で、つい」
きょとんとした表情で僕を見上げる彼女に、僕はのらくらとはぐらかした。いかにも言い訳じみた、凡庸な言い草だ。彼女といると、自分はどうしようもなく卑屈な人間であるように思えてくる。
決して、今の立場に満足しているわけではなかった。彼女は無邪気で、頼りない。そして時に残酷でさえあるのに、僕はどうしたって彼女の傍から離れることは出来ない。潔く決着をつけることもできない。彼女の恋を、応援してあげたいと思う一方で、冗談じゃないと怒りに似た感情もどこかにあって。そして、どちらが真実かは、僕はもうとっくの昔に知っているのに。
「…あ、先輩見て下さい。あっちの木、すごい」
「本当だ。行ってみようか」
白々しくも「良い先輩」の皮を張り付かせて、僕は笑う。そうして演じることが彼女の為だと、心の中で必死に弁解しながら。
見に行った先の桜の木は、花は満開に咲いていて、本当に美しかった。緩く風が吹いて空気が揺れる度、桜の花がはらはらと落ちてくる。それを、僕たちは二人して同じように見上げていた。
「桜って不思議ですね」
ため息にも似たような声で、彼女はぽつりと呟いた。
「そこに咲いているだけで、惹き込まれちゃう気がする。まるで魔法みたい」
「…そう、だね」
確かに、桜の花とは華麗なだけではないのかもしれない、現に今、僕たちは桜に魅せられてこの場に立ち尽しているわけだから。
(まるで、君みたいだ)
目が離せないというのなら、それは、僕にとっては君のことだ。今、桜を見ている――それはあいつを見る目に似ている気がする――君。
その姿の方が余程うつくしくて、そして尚のこと心を痛ませた。桜を見る彼女の心には、僕でなく別の男がいる。むしろそのせいで彼女はうつくしいのだということに、余計に。
ざわりと、風が花の付いた枝を揺らす。目の前の桜色の光景に、頭がくらくらした。何もかもが夢みたいだ。うつくしい悪夢。
「…先輩…?」
「…日野さん」
僕は、そっと、彼女の手を取った。細くて華奢な、少し力を込めたら壊してしまいそうな手を。
「…ずっと、言えなかったけど。本当は」
僕を見上げる彼女の目が、軽く見開かれるのがわかった。瞬間、するりと抜けそうになる彼女の手を、僕は逃がさないように力を込めて握り直す。
今だけは、誰でもない、僕を見て欲しかった。どうしても、そう思ってしまった。
呼吸が息苦しい。掴んだままの彼女の手を、僕は自分の胸元に引き寄せた。
「…本当は、僕は、君のことが」
すきなんだ。
一際強く風が吹いて、桜の花が辺り一面に舞った。
帰り道はさすがに気まずかった。普段なら海岸の方で彼女の恋愛相談を受けるのがいつものパターンだけれど、今日はお互いに黙りこんで彼女の家に向かっている。
「じゃあ、ここで」
「はい。…送ってもらって、ありがとうございました」
「…うん。またね」
また、なんてあるのかな。そんな風に思いながらも、僕はあくまで笑顔で別れを告げ、踵を返す。日が暮れても温度がそれほど下がらないことに、春になったのだなとぼんやり思った。
「紺野先輩」
背中に、声がかかる。振り向くと、彼女は真面目な顔つきでまだこっちを見ていた。
「…ダメですよ、ああいうのは」
「え?」
「ああいう嘘は、ダメです」
「あぁ…」
彼女の言うのは、僕のお花見の間の「悪ふざけ」についてだった。エイプリルフールに乗っかった、悪趣味な嘘。
怒ったような、或いは泣き出しそうな顔をして、彼女は僕を真っ直ぐに見つめていた。
「ああいうのは…、ちゃんと、すきな人に、言わなくちゃダメです」
(…ごめんね)
応援するって言ったのは、僕の方なのに。結局、最後まで親友ではいられなかった。本当に自分勝手だ。僕は、君にちっとも疑われないことに、苦しくて耐えられなくなった。
酷い事をしている、そう自覚はあったのに、どういうわけか心は穏やかだった。『人の良い生徒会長』だなんて聞いて呆れる。こんな自分勝手な奴、僕だったらゆるせない。彼女の懇願にも似た声を――実際、それは「懇願」なのだろう、きっと――無視して、自分の気持ちを押し付けようというのだから。
ゆるしてくれなくていい、ずっと、そうして忘れずにいてくれるなら。
「…わかってるよ」
だから、笑みすら浮かべて、僕は言ったのだった。
「だから、言ったんだ」
2011/04/06 up
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