「あの、貴文さん」
「はいはい、なんでしょう?」
「さっきから、わたしの顔ずっと見てますけど、何かついてます?」
「ええ、もちろん。バッチリついてます」
僕の言葉に、君は慌てて顔をさすり出す。
「ええ? なんですか! ついてるなら、見てないで取ってください」
「ああ、そんなに慌てないで。ついてるのは可愛い目と鼻と口です。そんなことをしても、とれやしませんよ」
「……」
「ちょっとね、考え事をしていたんだ」
僕の部屋。
大学の講義を終えた後、夕方買い出しをして寄ってくれた君。
狭くて簡素な台所で、君が苦心して作ってくれた食事を美味しくいただいて、のんびりまったり中。
そして、2人、ごくごく間近で、隣合わせで座っていたら、ふと、君の瞳の中に僕を見つけた。
実際には、僕の姿が、その虹彩に映り込んでいるだけなんだけれども。
まるで、閉じ込められているみたいだ。
そして「閉じ込められている」という言葉で、昔を連想する。
あの頃。
閉鎖された空間で、与えられた役割を黙々とこなす毎日。
モノトーンかつフラットでドライ。
身体を動かさないと、筋力が落ちて肉体が退化するのと同様に。
日々少しずつ劣化していく、感情の発生源である、心と言う名前の装置(デバイス)。
その様子を他人事のように眺める自分と、消えそうになるものを必死で守ろうとする自分。
その拮抗だけが、いつしか僕の存在の証となった。
そしてコンピュータのスリープモードのように。
僕は失われて行くものを内にとどめるために、それを表に出す事をやめた。
それが、ますます大事なものを摩耗する行為だと言う事を、半ば認識しつつ。
だから、今となっては。
僕を本当に閉じ込めていたのは、他ならぬ僕自身だったのではないか。
自分の不遇を環境のせいにするくらいには、僕も年相応の子供らしさを持っていたのだろう。
そんなふうに、思ったりもするんだ。
……それに比べて今の僕ときたら。
呆れるほどの解放感を味わう毎日。
長い長いリハビリテーションの最後の仕上げに、君が現れてくれたその時から、ずっとね。
だけど、そう感じるのとは裏腹に。
僕を縛る拘束力は、今の方が断然強い。
比べものにならないくらい、囚われてる。
今この時だって、君のその瞳に閉じ込められて、到底出られそうもない。
僕を抱く腕はしなやかな檻。
体温は見えない鎖。
声は呪(まじな)いのように僕の動きを操り。
香りは媚薬のごとく僕を酔わせる。
逃げられない。
逃げたくもない。
生の終わりを願うほどに、あんなにも魂の自由を渇望したというのに。
これは、大いなる矛盾じゃないだろうか?
「貴文さん?」
心配そうな君の、その瞳に映る僕が微笑(わら)う。
「うん。キスをしよう」
「……いつにもまして、脈絡がないですね」
そう言いながらも、素直に閉じられる瞳。
それを見ると、僕は自分が、魔法使いになったみたいに感じられるんだ。
「閉じろ、ゴマ、です」
「? なにか言いまし…!…んっ……」
紡がれる言葉を攫うようにしてその唇を塞ぎながら、今は質疑応答は無しだ、と僕は心の中だけで答える。
あの頃の僕と今の僕の違い。
本当のところそれは、君にキスできるかできないか、くらいの、些細なものなのかもしれない。
けれども。
その些末さが、僕にどれだけの幸せをもたらしたか。
それを君に教えてあげよう、と僕は思う。
一度は捨てようとも考えた、僕に与えられた時間。
その限り在る、すべてを使って。
END