しあわせとは、慈しむべき温もりがあるということ
「…っ!」
やっとの思いで目をこじ開けた琴子は、そのまま勢いで跳ね起きた。心臓が、痛いくらい早く動いている。
額や首筋にはじっとりと汗を感じた。水中から何とか空気のある場所へ顔を出した時のような感じで、一瞬、自分がどこにいるのか判別がつかない程の息苦しさと疲労。
(怖かった…)
それは、とても怖い夢だった。琴子はたった独りで、誰かに追いかけ回されていたのだ。捕まったらいけない、と思い込んで走りまわっていて(だから、こんなにも息が上がっているのかもしれない)、でもそれが「夢」なのだとわかっていた。もう一人の自分は、目を覚ませばこの悪夢から逃れられるとわかっているのに、目は開けられないし、指一本も動かせなかった。
金縛りみたいに体が動かない中もがいて、追手はすぐそばまで迫っていて「もう駄目」と思った時に突然目が覚めたのだ。
最後に大きく深呼吸をしてから、そろそろと辺りを見回す。いつものように、琴子は独りだった。温められていた部屋も今はしんと冷えていて、ひっそりと静かだ。
ことり、と小さな音が聞こえて、琴子は「ひっ」と首を竦ませた。風で、窓が鳴っただけと震える体を自分で抱きしめながら自分に言い聞かせる。けれど、月明かりで薄ぼんやりと明るい窓辺には、もしや夢の中の追手が部屋を覗き込んでいたらと馬鹿な妄想をしてしまって、とてもそちら側を見る事が出来ない。
起き上った体を、また寝台に横たえて眠る気にはなれなかった。眠ったら、さっきの悪夢が再開しそうな気がする。…というよりも、今だって夢の中かもしれない。そう思えるほど、生々しい夢だった。怖い夢なんていくらでも見た事はあるけれど、今日ほど恐ろしい夢は初めてだった。
(…大地さん)
琴子には兄弟はいない。だからこういう時、藤津川の家では両親に甘えていたのだけれど、ここではそういうわけにはいかない。怖い夢を見たからと言って、すぐに誰かに泣きつけるような「子供」ではない。きっと大地は仕事をしているだろうし、例えもう休んでいたのだとしても明日は出張で朝が早いと言っていた。つまらない事で眠っているのを邪魔したくはない。…邪魔をしてはいけないのだ。
汗をかいた体が、ひんやりと冷たくなっていくのがわかる。このままじゃ風邪をひいちゃう、と動かないまま考えた。大丈夫、まずは灯りを点けて、それから着替えて、その頃にはもう忘れている。怖くなんてなくなってる。明日、大地さんは寝ていてもいいと仰ったけれど、きちんとお見送りしたいんだもの。だから、早く寝なくちゃ。…あと十数えたら灯りを点けに行こう。
「ひーぃ、ふーぅ、みー…」
「ぃ」と言い終えたところで、ぎしり、とさっきとは別の音が聞こえた気がした。…外ではなく、この部屋のどこかで。
忘れようとしていた恐怖が、また一瞬で心の中に広がっていく。もう、ばかみたいに数を数えている場合ではない。…とても独りではいられない。
それまで頭の中で練り上げた計画も雲散霧消して、琴子は寝台から飛び降り、勢いよく部屋を飛び出した。扉を閉めた時に派手な音を立ててしまったけれど、音を立てずに扉を閉める配慮など、している余裕はなかった。
「……」
「…どうした?」
「いえ、…今、何か音がしたような気がして」
「音?こんな夜更けに?」
「…気のせいかもしれません、一瞬だったので」
「今日は少し風があるから、そのせいかもしれないね」
失礼しましたと秘書が向き直ると、主である赤城大地は、特に気分を害した様子もなく、作業に戻る。こんな時間にまで主の家に居る事など普段は無い事だが、今日中に何とかしなければいけない書類があったので仕方が無かった。
「悪いね、こんな時間まで付き合わせてしまって」
「それは、お互い様ですのでご心配なく。明日の出発時間が遅くなったのが、せめてもの救いです」
「そうだね、お互いに」
「…嬉しそうですね」
「…そりゃあ、その分ゆっくり寝られるんだから、嬉しいに決まってるよ」
(…この人は変わられた)
結婚するまでの大地は、どんなに喜ばしい出来事があっても今のような優しい表情を見せる事はなかった。今回の出張の予定が遅くなった事だって、相手先の都合で突然に変更されたものだ。以前の大地なら「寝られて嬉しい」と言うよりは、その後の予定の狂いを心配しただろう。
…仕事が出来なくなったというわけでは決してない。例え結婚したとして、彼の仕事ぶりは相変わらずの隙の無い仕事ぶりであったし、その多忙さが緩む事はなかった。
実のところ、大地と藤津川嬢の結婚は、一部の人間からは嘆かれていた事だったし、秘書である自分もまた、そのように感じていた。大地は元々結婚には何の希望も夢も持ってはいなかった。ただ家の決定に従い、定められた花嫁と添い遂げる。それは、赤城家の未来を考えれば仕方のないことだったし、大地が当然受け入れなければいけない事であるのも周知の事実だ。…しかし、だからこそせめて、少しでも気が合いそうな…つまり形ばかりではない、本当の意味での「結婚」が出来ればと周りは願っていたというのに、蓋をあけてみれば、名家とは名ばかりの貧乏伯爵家の一人娘、しかも、とても大地と釣り合うようには見えない子供が相手だったのだ。誰も口にはしなかったが、「あまりに酷い話だ」と、心の中ではそう思った者もいるだろう。
それは、大地だけではない。藤津川嬢にとっても同じことだ。女学校に入ったばかりだった少女が、何も知らないまま一回り程も年の離れた男に嫁がされるなど、どうして幸せだと言えるだろう。「身売りされた」と親と周囲を呪い、孤独な結婚生活に一生を縛られる。そういった図は容易に想像できた。
だが、実際にはそれほど嘆かわしい結婚でもなかったようだ。実際大地の変わりようは、顕著だった。何が、とは、上手く説明できない。だけど、やはり何か変わったのだ、良い事か悪い事かはともかくとして。
(あの方が、変えたというのだろうか)
式の時に見た、幼い花嫁。あの時は衣装や化粧で多少は誤魔化されていたが、実際は、ただの少女だ。…良からぬ噂を立てられても否定し難い、痩せて華奢な、本当にただの子供だった。
そんな彼女が、大地の心を変えてしまったとでも言うのだろうか。
ぼんやりとそんな事を考えていると、突然、何の前触れもなく部屋の扉が開けられる。何事かと身構えたが、そのまま秘書は目を見開き、固まってしまった。そこには思わぬ人物が息を弾ませて立っており、秘書の後ろにいた大地は、驚いたように彼女の名を呼ぶ。
「琴子!?」
重い扉を力いっぱい押し開いたらしい彼女に、近付いて手を貸していいものかどうか、迷う。何故なら、彼女は寝間着姿そのままだったのだ。丈の長い、薄い絹の洋物の寝間着姿で、足は何も履かず裸足だ。髪だってそのまま下ろされていて、何なら少し寝ぐせが見えるくらいだった。
「…大地さん」
鼻にかかったような声で、彼女は彼の名を呼んだ。本当ならそのまま部屋の中に飛び込んでくるつもりだったのだろうが、自分の姿を見つけ、さすがにそれは躊躇ったらしい。扉に縋るように立ってただ大地だけをまっすぐに見ていた。どちらも動かないし、話さない。…間に立つ自分にとっては非常に居辛い空気だ。
「…そんなとこにいらしたら、風邪をひかれますよ」
仕方がないので、扉に張り付いていた琴子を中に招き入れる。その間も、大地は何も言わなかった。赤の他人にですら「どうぞ」と気を遣える人だというのに、こんな事は珍しい。
支えるように背に手をやると、ひやりと冷たい。大地が何も言わないせいなのか、彼女はおどおどと大地と自分を見比べてどうしていいかわからない、という顔をした。
「あ、あの…もしかして、まだお仕事を…」
「いえ、書類の確認をお願いしていただけですから。…終わり次第、私はすぐに失礼致します」
大地の作業がほぼ終わっていた事は、確認済みだ。…今の自分が最優先ですべきことは、ここから早く立ち去ることだろう。そう思って、机にある書類を揃え、カバンに仕舞いこんでいたのだが。
「…琴子」
一瞬、動きを止めてしまうほどの固い声が、部屋に響く。…この自分でさえもそうなのだから、呼ばれた本人は心中穏やかではないだろう、と見てみれば、やはり琴子嬢は顔色を失い、凍りついたように突っ立っていた。大地は、そんな琴子に向かってただ重く息を吐く。…苛立っている時の彼の癖だ。
「ここには家族以外の者もいるんです。今は仕事中だったし、伺いも立てずに部屋に入るだなんて。…あなたは赤城家の人間になったのだから、その事をもう少し自覚しないと。…そんな恰好でうろうろするだなんて、どうかしてる」
「……は、ぃ」
しょんぼりと項垂れてしまった琴子は、叱られた子犬のようだ。大きな目には今にも零れそうに涙が溜まっている。…正直、とても見ていられるものではない。しかし、口を挟める雰囲気でもなければ立場でもない。
琴子嬢の涙には気付かないふりをして、秘書は書類だけはきちんと受け取り、そのまま一礼して部屋を出た。明日の事は打ち合わせ済みなので、何も問題はない。
(しかし…)
玄関までの道のりを歩きながら、ふと思う。あの大地が、ああまで苛立ちを露わにするのは、相当珍しいことだ。大抵の事は事無かれ主義で流してしまうのに。
ああいうところが、やはり昔とは変わった。
けれども、叱られた琴子嬢には悪いが、不思議と悪い気はしない。いつも本心を見せない、取り繕ったような笑顔しか見せなかった彼が、ああして彼女には本音を露わに出来るのなら。
やはり、間違ってはいなかったのだ。
(見られた)
ただその思いだけが、大地の胸の内を黒く焦がしていた。赤城家の人間としての自覚の話など、琴子はとうに理解している。…それを証拠に、彼女は今まで不満一つ零すことなくあの部屋で毎夜一人で眠っていたではないか。だが、それでも、責めずにはいられなかった。
(見られたくなかった)
頼りない素足で、寝間着一枚の姿で泣きそうな顔をしている琴子を、…他の男には見せたくなかった。常識云々の話ではない。単に、大地の独占欲の話だ。この部屋に自分しかいなかったなら、こんな風に取り乱したりはしなかった。
(…取り乱す?)
不意に出た結論に、大地は自分自身に愕然とする。これくらいの事ですぐに冷静でいられなくなるというのは、どういう事なのだろう。仮にも、将来一企業を背負う立場である人間が、こんな小さな女の子一人に取り乱すだなんて。
ひっく、と、しゃくりあげる声が聞こえる。秘書が出て行くまで堪えていたのか、一度しゃくりあげるとどんどん止まらずに琴子は声を上げて泣き始めた。涙に濡れる目元を擦りながら、小さな子供のように。
「…っ、ゆめ、を見てっ…こわく、てっ…っく、そ、それで…」
「…夢」
きっと、怖い夢を見て、夜中に目が覚めたんだ。たった独りきりの部屋で、けれど眠れずにここまで来た。きっと迷った挙句、やっぱりどうしようもなくてここに来たに違いない。
それなのに、僕は、何故来たのだと彼女を責めた。
「…琴子」
後悔で、胸が潰れそうになる。ここに来たばかりなのに、どう接していいからわからない事を理由に、慣れない生活の中で一人にして。怖い夢を見たからと言って、彼女は慰められることもない。
…大切にするだなんて、良くも言えたものだ。
膝を折って、琴子と目線を同じにする。彼女は気付かないままただ泣きじゃくっていた。目元まで持ち上げられた細い腕に触れると、びくりと震え、離れるのがわかる。
「こと…」
「どうしたら、いいの?」
途切れ途切れになる涙声が、大地の言葉を遮った。涙に濡れた黒曜の瞳が、大地をまっすぐに見る。
「た…たいちさんに…っ、会いたいときは、どうしたら、いいの…?」
「…僕に」
「わ、わたし…おしごとなのは、わかっているけどっ…でも、大地さんと、もっと、お話したり…もっと、い、一緒に、いたい」
「…っ」
(何してるんだ、僕は)
こんな風に泣かれるまで、気付かないなんて。
いや、本当はどこかで気付いていた。けれど、見ないフリをしていただけだ。強がって笑顔でいたのも気付いていたし、何か言いたそうにしている時だって、わかっていた。
本当は、怖かったんだ。年の離れた自分の事を、…やっぱりここに来なければ良かったと、後悔していると、そう言われてしまうのじゃないかって。そう言われたとしても仕方のない立場なのはわかっている。けれど、琴子には、そう言われたくなかった。
「ごめんね。…淋しい思いをさせてしまった」
「…わたし、広いお部屋じゃなくてもいい。…大地さんと一緒がいい」
「…うん、そうだね」
抱きしめた体は、小さくて細くて折れてしまいそうだ。こんな風に抱きしめたのは初めてだった。…たぶん、今まで誰も、こんな風に抱きしめたことはない。
こんな風に全身で「一緒にいたい」と願われ、そしてそれに応えたいと思った事は、なかった。
結局、琴子は元の部屋に戻るのは嫌がったので、大地の寝室で眠る事になった。元々が一人寝る為の寝台なので、いかに琴子が子供であっても広々と二人で寝られる程の大きさはない。狭くてごめんね、と言うと、その方がいい、と、琴子は嬉しそうに言った。だって、その方が大地さんのすぐ近くだもの、と、ぴったりと子猫のように自分に寄り添う。窓から入り込む月の光はやけに白く、部屋の中はぼんやりと浮かび上がるように見えた。
「すごく、怖かった。目が覚めてもお部屋は真っ暗だし、まだ夢の中にいるような気がして」
「…うん」
「追いかけてくるの。でも、誰かはわからなくて…絶対捕まったらだめ、って、そう思って走ってた」
「…そうか。それなのに、さっきはごめんね」
「うぅん…、私の方こそ、ごめんなさい。だって、大地さんはお仕事だったのに…叱られて、当然だと思います」
「いや、さっきのはね、違うんだ。…だって、怖い時に一々着替えてなんていられないでしょう?」
さらさらと黒く細い髪を撫でながら話す。そうして欲しいと頼まれたわけではない。ただ、触れていたかっただけなのだと思う。
「…誰かわかったら、逃げたりなんてしなかったのに」
「…おや、勇ましい事を言うね。正体がわかっても、やっぱり怖いかもしれないよ?」
「そうかしら?正体がわかっても怖いって、誰かしら…あ!女学校の先生かなぁ…しょっちゅう怒られたもの」
「…っく。ははっ、琴子の怖いものって…!」
「え!?だ、だって、本当に怖かったの!『藤津川さん!廊下を走ってはいけません!はしたない!』って、あの先生も追いかけて怒ってきたから、やっぱり先生だったのかも」
「あははは!」
「そっ、そんな笑わなくても…!」
「ははは、ごめんごめん」
何だ、思っていたほど難しいことじゃなかった。
笑いを堪えながら、大地は琴子をもう一度抱きしめる。年が離れているとか、周りがどう思っているだとか…そうだ、そんな事は全然怖くなかった。
「ね、もしかしたら、それは僕だったかもしれませんよ?」
「え?」
「琴子さんを追い掛け回して怖がらせていた正体は、僕だったかもしれない」
実際、追い詰めて泣かせてしまったのだから、あながち嘘でもないだろう。
けれども、腕の中の琴子は大地を見上げて笑った。大地さんじゃないです、と、はっきりと言う。
「だって、もし大地さんだったら、私はきっとわかるし、逃げたりしないもの」
「…そっか」
もしかしたら自分は少し変わっているのかもしれない。こんな女の子と、ままごとみたいな結婚生活を送っているのだから。他から見れば不幸だと誤解されるかもしれない。
でも、それは違うとはっきり言える。どう思われようと構いはしない。僕はこの子と出会って、それは単なる偶然だったのかもしれないけれど、やっぱり間違いなんかじゃなかった。
「…おやすみなさい、大地さん」
「おやすみ、琴子」
いま感じる温もりは決して体温だけじゃなく、幸せの証拠なのだとわかるから。
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