叶わない約束でも、あなたなら信じられる
赤城家、藤津川家が嫡男の結婚を機に親類の関係となったのは、さるところでは有名な話であった。
赤城家はここ数年で勢いと実力をつけている新興企業の家、そして藤津川家は言うまでもなく由緒正しい家である。
藤津川家の娘をもらったことにより、赤城家は単なる成り金の家ではなく、その名に箔をを付け、上流階級に与する事になった。
もちろん、この話の裏には藤津川家の経済的困窮というものもあり、実質、赤城家は爵位も何も金で買ったのだと、陰口を言われる事もまた少なくはなかったが、大地自身は予想していた事だから特にそれについては何の感想もなかったし、琴子に関しては、周りが話を入れなかった。そもそも、言われなくても自分の家の事は琴子はわかっている。それで何故噂が出回るのか、世間をあまり知らない琴子には良く分からない話だったし、ここに来たことを恥じた事など一度もない。むしろ誰より幸運だと思っていた。
それに、そんなことはどうでも良かった。そんなどころではなかった。大地の妻となったことで、琴子の生活環境は一変してしまったのだから。
まず、琴子は女学校をやめることになった。琴子が「お嫁入り」したことでやめることになったのは既に有名になっており、「またお会いしましょうね」と学友たちとは約束し合って学校を後にした。
平気だと思っていたのに、実際、最後の日は少し寂しかったのを憶えている。
それから一番大きな変化は、当然の事だが琴子は藤津川家を出て、両親と離れ、赤城家で暮らすようになったことだ。琴子の荷物はそれほど多くはなかったが、それでも引っ越しをするというのはそれなりに大変な事だった。そして、両親と離れるのはやはり寂しい。大地は「いつでも、好きな時に帰ればいいよ」と言ってくれたけれど、実際そんな事ができるわけがないのは、いくら琴子でも弁えているつもりだ。送り出してくれた両親もそんなわがままを許してはくれないだろう。
「…琴子さま?どうなさいましたか?」
女中の声に、琴子は考えるのを一旦止める。いいえ、と琴子は答える。いいえ、何でもないの。
「少し、お疲れですか?最近、元気がないように思われますが」
「…いいえ、大丈夫。平気よ」
「琴子さまは我慢強くていらっしゃるので、心配ですわ。何かありましたら何でも仰ってくださいね」
年の近い女中は、そう言いながら琴子の髪を梳かしていた。彼女は赤城家にいる使用人の中では一番若く(とはいえ琴子より年は上だが)、琴子がここに来てからずっと世話をしてくれている。
ありがとう、と口では言いながら、それでも琴子は心にわだかまる想いを口にすることは出来ないと、思っていた。だって、言ってもどうしようもない事なのだ、こればかりは。
それでも、やっぱり我慢できなくてつい、零れ出してしまうこともある。
「…ねぇ、大地さんは今、何をされているかしら」
ぴくりと、ほんの一瞬、髪を梳かしていた手が止まる。けれど、次の瞬間には何もなかったかのようにそれはまた動きだした。
「大地さまはきっとお仕事だと思いますよ。…私のようなものが詳しくは存じ上げませんが」
「…そう、そうよね」
きゅうっと胸が痛むのを感じたくなくて、琴子はわざと足をぶらぶらとさせた。足には、ふかふかとした起毛があたたかな履物を履いている。その履物も、今着ている洋装の絹の寝間着も、全ては大地が用意してくれたものだった。それだけではない、この広い、そして常に暖かな空気で満たされた寝室も、寝心地のいい広い寝台も、毎日部屋に生けられる花も何もかも。
大地が選んで、与えたくれたもので溢れているのに、その大地だけが、ここにはいない。
「…さぁ、できましたよ」
あぁ、と、琴子は半ば絶望的な気持ちになる。ここに来てからというもの、琴子は夜が嫌いになった。彼女は琴子が床に就いたのを確認すれば、灯りを消して部屋から出て行ってしまう。
真っ暗な部屋の中、この立派な広い寝台に独りで寝るのは、琴子を憂鬱にさせた。
琴子は嫁いできてから今日まで、大地と一緒に夜を過ごした事はない。そもそも、寝室が別なのだ。大地は夜遅くまで仕事をしている事が多い。だから、「子供」の琴子をうっかり夜遅くに「起こしてしまう」のは良くないだろうと、大地が琴子に一室作ってくれたのだった。
もちろん、大地の寝室はすぐ隣だ。けれどもその部屋に、少なくとも琴子が起きていられる間に大地が帰ってきた事はない。いつも、少し離れた書斎兼仕事部屋に夜遅くまで籠っている。
(…さびしい)
お休みなさいませ、と、部屋の灯りは消される。軽く柔らかな羽根布団に包まれながら、琴子は膝を丸めて目を閉じて、そのうちに眠りが訪れるのを待つ。息をころして、夜が過ぎるのをただひたすらに。
結婚をする、というのは、実際には琴子の想像とは全く違っていた。それとも、大地と結婚するということ自体が、他とは違うことなのだろうか。本来なら一番一緒にいられるはずの――そして、琴子が一番一緒にいたい――人と、少しも時間を共有出来ないということはどういう事なのだろう。
赤城の家の人々は優しい。琴子が若すぎる幼い妻であるからかもしれないが、義理の両親も義弟も、そしてお世話をしてくれる人たちも皆、琴子に何かと声を掛けてくれて気にかけてくれている。
けれど、だからといって琴子の寂しさは消えない。どんなに親切で優しくても、ついこの間までは名前も知らなかった会った事もなかった人たちなのだ。絶対に誰にも言えないけれど、藤津川の家に帰りたいとさえ、琴子は思ってしまう。実家にはこんなに立派な寝台も上等な寝間着もないけれど、それでもここよりはずっとずっと心安らかでいられる気がする。
(…だめよ、琴子)
ふわふわの枕を抱きしめて、琴子は自分自身を叱りつける。とんでもないわがままだわ、と、自分に呆れる。もう私は大地さんの奥さんなんだから、子供みたいなわがままは言えないの。大地さんはいずれ社長になる偉い方なんだから、忙しくても仕方がないのよ、だから寂しいだなんて言って大地さんを困らせてはだめなの。
それでも、心とは裏腹にうっかり涙が出そうになって、琴子は慌てて開きかけた目をぎゅっと瞑った。早く寝てしまおう、いつまでもこんな事を考えてるのが良くない。
部屋は暖かく、ちっとも寒くない。けれど、足先が少し冷えたような気がした。
琴子の朝は早い。まず大地の起床時間が早いので、必然的に琴子の起きる時間も早くなる。
でも、その事を苦に感じた事はない。だって、朝は大地と会えるのだから。…本当は、早起きは苦手なのだけれど、それでも一人きりの夜よりずっといい。
顔を洗って、歯を磨いて、服を着る。髪を整えてもらう(これだけは中々一人ではできない)。その間中、琴子はずっと大地と会った時のことを考える。今のところ、一日のうち唯一大地と話ができるのは朝食の時間だけだ。休日は大地が忙しかったり、あるいは琴子の方にお稽古ごとがあったりで、時間が合わない事も多い。
うきうきと浮き立ちながら、琴子は食事をする部屋へ向かう。今日はあっさりとした形のワンピースを着ている。これも大地が選んでくれたもの。今まで知らなかったけれど、琴子は洋装が似合うらしい。
だから、大地も赤城の母も、琴子には外国の子女のような格好をさせたがるのだ。(もちろんお稽古の時はその時によって着物に着替えることになるけれど)
そして、この服装を琴子自身も気に入っていた。着物が嫌いなわけではないけれど、こっちの方が着替えも着心地も断然楽だ。それに、大地がこれを琴子に着せたいというなら、琴子はそれを着ていたい。大地の選んでくれたもの、与えてくれるもので満たされていることが嬉しかったし、そうすることで安心できた。会えなくても、私は大地さんと一緒にいる。そんな気になれる。
「おはようございます、大地さん」
「おはよう、琴子さん」
大地が部屋に入ってきて、琴子に挨拶を返す。それから食卓につく。琴子は妻なので大地を待つのは当然なわけだが、それでも大地はいちいち「お待たせしました」と琴子に笑いかける。
これくらいの事で胸がいっぱいになってしまうって、私はどこかおかしいのかもしれないわ、と琴子は大地にはわからないように小さく息をつく。
「昨晩は少し冷えましたね。寒くはなかった?」
「はい、大丈夫です」
「今日は、琴子さんは何をするの?」
「お茶と…それから、お作法と…」
「そう。がんばってね」
「はい。わたし、頑張ります」
うん、と、大地はにっこりと微笑む。そうして琴子が返事をすることに、大地も安心するみたいに。
本当はもっとお話したい、と琴子は思う。思うけれども中々言葉が出てこない。言いたい事や聞きたい事がたくさんありすぎて迷ううちに、結局いつも大地の質問に答えるばかりになってしまう。
「…それ、似合っているね」
「え?…このお洋服ですか?」
「うん。やっぱり琴子さんはそういうの、似合うんだね」
「ぇ…と、あ、ありがとうございます。大地さんが、選んでくださったから…」
「僕の見立ても、早々悪いものではないようですね」
大地さんのお見立てが間違っているわけありません、それに、どんなお洋服だって、わたし、大地さんが選んでくれるなら何だって嬉しいんです。
言葉が喉元まで出かかったが、結局琴子は「そうですね」と返事をしただけだった。間違っているわけない、なんて、いかにも偉そうで、もしかしたら大地は生意気だと思うかもしれない。
「…あぁ、そうだ。忘れないうちに。琴子さん?」
「はい」
「僕は、明日から出張なんです。朝も早いけど、琴子さんは気にせずゆっくり寝ているといいですよ」
「…しゅっちょう、ですか…」
出張。琴子にとっては忌まわしい響きでしかない言葉だ。いつも琴子から大地を遠ざけてしまう嫌な単語。
現在、大地は父親の部下のような立場にいるらしい(詳しい事は琴子にはわからない)。赤城の父は、何かというと大地に出張を命じてあちこちに行かせるのだった。有能に違いない大地が、それでも家に仕事を持ちこんで遅くまで起きていたり、家をしょっちゅう空けることになったり、結果、琴子とろくに話す事も会う事もなくなる事の原因は、全部「出張」のせいだ、と琴子は踏んでいる。
「…ごめんね。今週末は休みがあるから、その時ゆっくり話せるかな?」
「…は、はい!あの、違うんです、わたし、大丈夫です。ちゃんとお留守番できますから」
「ありがとう。…琴子さんが良い子なので、助かります」
ほんの少し眉を下げた大地に、琴子は慌てて背筋を伸ばした。背中が丸くなったら、がっかりしているのが大地にわかってしまう。
ふわりと琴子の頭を撫でて、大地は部屋を出る。もちろん、琴子は玄関まで送って行く為に大地の後ろについて歩いた。
(…良い子、だなんて)
褒められるのは嬉しいことのはずなのに、それでも少しだけ悲しくなってしまう。
私は、大地さんの「つま」で、「こども」じゃないのに。
「……ふぅ」
「お疲れですか?」
ほんの少し溜息を漏らした途端にこれだ。まるで授業中の居眠りを言い当てられたかのようなバツの悪さを感じつつ、大地は「そりゃあそうだよ」と、せめて皮肉を込めて秘書に言葉を返す。
「お陰で、結婚したばかりの新妻を家にほったらかしだ。僕は世間で言われるような、名ばかりの結婚をした憶えはないのだけど」
「世間の声など、捨て置かれるがよろしい。…赤城の者は、皆、存じております」
藤津川さまとて、同じことでしょう、と、秘書の全く感情の揺れが見られない平坦な言葉に、大地は今度こそ隠さずに溜息をつく。車内の窓から見る風景はいつもと変わり映えなく流れていた。
「…しかし、琴子さまをご同伴されるのは、しばらくお待ちになるが良いかと」
「それは、そのつもりでいる」
実のところ、思った以上の「評判」だった。しかも、出所は赤城家と同じような新興企業を抱える――いわゆる成り金の家ばかりからだ。それに比べ、やんごとなき方々からの印象は概ね悪くない。それは普段の「営業努力」の賜物でもあるし、そもそも赤城家がどうなろうとそんな小さなことでは眉の一つも動かさない人たちなのだろう。
どちらにしろ、だからといって困る事は特にない。ただ、あまり気分の良いもので無い事は確かだ。そして何よりも、そんな心ない言葉が琴子の耳に届いたりしたら。
(…いや、違うな)
溜息の原因は、そんな事とは違う。その辺りの事は上手くやる自信があるし、万が一、琴子の耳に届いたとして、あの子はそんな事で塞いでしまうような弱い子じゃない。
もっと、自分自身の根本的なところに原因がある。
「…どうしたらいいかな」
「何がですか?」
耳聡い秘書がこちらを見る。大地は慌てて、今日の会議のことだよと誤魔化した。
琴子と結婚してからも、大地の生活にはさほど変化はなかった。相変わらず仕事に追われる毎日で、同じ家に住みながら、琴子が普段どういう生活をしているのかは、本人から聞くよりも母からの報告で把握しているのが現状だ。
それは、どことなく寂しいことではあったが、一方でどこか安心している自分もいる。あの年の離れたかわいらしいお嬢さんと、大地はどうやって接していいかまるでわからないのだ。
もちろん、琴子は大切にする。それは男としては当然の事だし、その決意はあのお見合いの日から揺るぐことはない。
『赤城家の長男は年若い娘を娶り、家に押し込めておいて、他では遊んでいるに違いない』、などと誤解もいいところだ。
大地は、特別に女性が苦手という意識はない。その扱いも、決して手慣れているわけではないが、相手を不快にさせる程未熟でもない。もっと言えば男でも女でも、付き合い方で迷う事など、幸か不幸か今までに無かった。
けれども、それは他人が相手だったからだ。もう会う事もない他人か、あるいは少なからずも利害関係が発生する「仕事」の相手か。琴子とは違う。
(…年も離れてるしなぁ)
弟よりも更に若い女の子だなんて、もうそれは自分とは生物としての種が違うのではないかというくらいの歴然とした違いを感じる。いっそうんと子供ならまだ対処のしようもあっただろうが(そんな子供とはそもそも婚姻が成り立たないという現実はここでは不問として)、彼女は子供というには大人で、けれども女性というには幼い。
彼女の黒目がちな瞳は、いつもあまりにも真っ直ぐに大地を見詰めてくるので、時々苦しくなるくらいだ。きちんと向き合えないのはむしろ自分の方なのだという自覚はある。
(…逃げているのか)
あんな小さな存在から、僕は目を逸らしているのか。年が離れているから、受け流すような事をして逃げているのか。
今まで、何事もうまく「こなして」きた自信はある。諦めることも知っているし、周りと衝突することもかない。そうまでして主張するのは時間の浪費じゃないだろうかと、冷めた気持ちでいたくらいだ。だから「結婚すること」だって、それほど難しいことだとは思えなかった。ある年齢になれば誰もが経験すること、その程度の認識だった。
だが、琴子については違う。何が違うって、どう違うのかはうまく説明できないけれども、とにかく違うのだ。今まで自分の周りを取り巻いていた事柄と彼女の事は全く異質で、そして同じようには扱いたくない。まるで不器用な学生みたいな言い草が、大地の心の中を占める。
まさか、と、大地は自嘲気味に笑う。前々から危惧していたが、これはいよいよ笑えない事態になってきた。
まさか、今頃になって。結構な仕事も抱えて、夢が色褪せるような現実だって幾つも見て、少々の事では感動も何もない鈍い心になってしまった、この年になって。
「…大地さん。もしも本当に体調が優れないのでしたら、仰ってください。日程の方は調整します」
「へぇ?珍しくお優しい事を言ってくれる」
もちろんですよ、と、しかし相変わらず抑揚の少ない言葉で秘書は大地に話す。
「貴方に倒れられては、困るのは我々、そして社員全員ですから」
「大丈夫だよ。今のところ体調はすこぶる良いんだ、疲れがないとは言わないけれど」
「異常を感じられたら、お早めにお願いします。病というのは、発見が早ければ早いほど治りやすいものなのですから」
「…はは、なるほどね」
「…私は、何かおかしな事を言いましたか」
「いや違うよ、ありがとう。気を付ける」
怪訝そうに眉をひそめる秘書に、大地は笑って返す。なるほど、病とはそういうものだ。逆に言えば、発見が遅く、時間がかかればかかるほど、それは治り辛く、厄介なものだというこどた。
「……困ったな」
だとするならば、もうこの病は一生治らないのかもしれない。本当に、困ったことだ。
この年になって「恋煩い」だなんて誰もが笑うような話を、大地は秘書にまともに話す事は、もちろんなかった。
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