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幸福な、やわらかな夜
 
 
 
 
  
「…大地さん、ちょっとよろしいかしら?」 
「何ですか、母さん。こんな遅くに」 
 
改まって「大地さん」と呼ぶのは何かあった時だと大地は経験上知っている。この母は結婚した息子にも普段はまだ「大ちゃん」呼びを慣行していたのだから。 
まさか琴子に何かあったのだろうかと思い、けれども母と琴子の仲はすこぶる良かったはずだから何か問題があるとは考えられない。ああだけど、問題とはそういう問題だけではないわけだし…と思いめぐらせている間にも母はずかずかと書斎に入って来た。 
 
「あの、見ての通り僕は仕事中なのですが」 
「ええ、わかっていますとも。あなたがとってもお仕事熱心なのはお父様からも琴子さんからも伺っています。お邪魔をしていること、謝りますわ」 
 
謝っているという雰囲気では全然ない。そもそも母が自分の都合を考慮してくれることは稀なので、大地は今更不機嫌にもならないが。 
母は、ひとつため息をついた。 
 
「大地さん、貴方って人は本当に…こんな時間までお仕事してるだなんて」 
「そうは言われても…僕に仕事をさせるのは父さんですよ?」 
「そう、そうなのよ。…でもね、さすがにあんまりだと思って私、お父様にお願いしましたの」 
「は?…え?何をですか?」 
「本当は一週間程と言ったのだけれど、それはさすがに無理みたいで…でも二日は大丈夫だそうよ?」 
「だから、何がですか?」 
「大地さんは明日から二日間お休みです」 
 
にっこりと笑って、母はそう言った。 
 
「…は、えぇっ?休み?だってまだ平日…!」 
「でも、先週末は出張でしたでしょ?」 
「そうだけど、無理ですよ!色々と進めなきゃならない話が山ほどあるっていうのに…!」 
「ちょっと、大ちゃん?せっかくお母さまがお休みできるようにお願いしたのに、嬉しくないの?」 
「そういう、意味じゃなくてですね…!」 
 
年がいもなく拗ねたような顔を見せる母に、大地は戸惑う。もちろん休みはありがたいが、現実、仕事の進行状況を考えるとほとんど不可能な話だ。 
しかし、自分が不可能と思える事も可能にするのがこの人でもある。 
 
「別に、大ちゃんが喜んで下さらなくってもいいわ。だって、これは琴子さんの為のお休みですもの」 
「…琴子?」 
「見ていられなかったのよ?大地さんが帰ってこられない日はそれはもう沈み込んでしまって…家の皆があまりにもお可哀そうです、って直談判にもくるし」 
「…そんなに」 
「ええ。…だから大地さん?明日から二日間、しっかり琴子さんを可愛がってあげて下さいね」 
「ちょ、ちょっと…!」 
 
手元を照らしていた灯りを母は早々に消してしまい、大地を「ほら早く」と自室(つまり、琴子との部屋だ)に戻るように急かした。 
 
「大地さんの今日最後のお仕事は、琴子さんにお休みになった事を伝える事よ?しっかりなさいね?」 
「……はぁ」 
「あ、ついでに琴子さんの明日のお花のお稽古ももちろんお休みですから。伝えておいてね?」 
「…わかりました」 
 
 
 
 
廊下を歩きつつ、大地は自室にいる琴子の事を思う。まだ起きているだろうか、いや、この時間なら先に眠っているかもしれない。遅くなったら先に休むように言ってある。 
けれども、母がそこまで心配させるほど寂しい思いをさせていたのか。痛いほど感じてはいたが、実際周りにこうして気を使われると自分の不甲斐無さが浮き彫りになる。…とはいえ、だからといってこんな風に休んでしまっていいものかとも思うが。仕事の方は何せ上司は父親だし、他の役員も昔からの見知った顔ばかりだから実際融通は利く。だが、大地はそれは敢えてしたくなかった。身内だからといって甘えるのは考え違いだと思っていたし、きちんと責任と義務は果たさなければいけない。 
けれども、もう休みは確定してしまった。 
 
部屋はまだ灯りがついていた。ソファに座って眠そうに本を広げていた琴子は大地に気付くとぱっと顔を上げた。 
 
「大地さん!…お仕事終わったんですか?」 
「あぁ…まぁ終わったっていうか無理やり終わらされたというか…」 
「?」 
 
はっきりしない大地の物言いに首をかしげる琴子の髪を撫でた。「何を読んでいたの?」と隣に座る。 
さらさらと流れる感触はまるで絹糸のようだ。 
 
「外国のお城です。…一雪さんが下さったの」 
「…一雪が?」 
「前に、大地さんが外国のお伽噺をしてくれたでしょう?その話を一雪さんにしたんです。外国のお城なんて見たことないって話をしたら、この本を下さったんです」 
 
嬉しそうに琴子が見せてくれたのは外国の城の写真や絵が載っている本だった。写真もだが、設計図やら、ただの風景画やら、色々だ。 
珍しい事があるもんだ、そして何か妙な事を吹き込んでやいないだろうなと不安になる。 
琴子に関して、一雪は割と気に入りながらも節度ある態度を今のところ守っているようなのでそれは無いと思うが。 
 
ふと、体温が寄り添う。預けられる暖かさも重みも大地には心地良い。 
 
「あ、でも。大地さんには内緒って言われたの忘れてた。…でも、どうして内緒なのかしら?」 
「さぁね。…僕としては琴子さんに隠しごとをされるのはとても悲しいのだけど?」 
 
冗談混じりでそう言ったのに、琴子は驚いたように表情を変える。 
 
「ち、違います!わたし…そんなつもりじゃ」 
「あはは、ごめん。知ってるよ、琴子がそんなつもりじゃないってこと。一雪にも君が話したっていうのは言わないから」 
「うぅ…」 
「それより、ちょっと話があります。琴子さん」 
「…?なぁに?」 
 
傍に見える、黒目の大きな瞳がまっすぐに見上げてくる。こんなにまっすぐ、大地を少しも疑わずに見上げてくる人間は世界中できっとこの子だけだ。 
 
「実はね、明日から僕は特別な仕事があってね」 
「とくべつなしごと?…また、お家に帰ってこられないの?」 
 
途端にしゅんとなる琴子に、大地は少し後悔した。こんな顔させるなら普通に休みになったと言えばよかった。 
ごめんね。いつもそんな顔をさせてるんだな、僕は。 
隣に座っている琴子を抱き上げて、自分の膝元まで引き上げる。 
ふわりと、清潔で、いかにも子供っぽい石鹸の匂いがした。それすら甘く愛おしく感じる自分はちょっとおかしいかもなと大地は笑う。 
いや、おかしくはないか。僕らは夫婦なわけだから。 
 
「違うよ。…明日からの僕の仕事は、丸二日琴子さんと一緒に過ごすことです」 
「……ほんとぅ?」 
「本当。一時も離れずに傍にいるよ」 
「ほんとにほんと?ずっと一緒にいられるの?二日間も?」 
「うん。…琴子さんが途中で嫌になっちゃったら話は別だけど」 
「大地さんっ!」 
「ぉわっ!…ちょ、いきなりは危な…」 
 
突然にがばりと抱きつかれ、けれども後からちゃんと大地も抱きしめ直す。小さな、けれど一番に僕を愛してくれる子。 
 
「…嫌になんて、なるわけないもん」 
「…そう。それはよかった」 
「大地さんは?…嫌になっちゃわない?」 
「なるわけありませんよ、お姫さま?」 
 
くっついていた体が、琴子の腕の長さ分ふわりと離れた。 
さっきまでとは違う、期待に満ちた表情で、琴子は興奮気味に話す。 
 
「…あのねっ、私、行きたいところがあって…!」 
「どこでもお伴しますとも」 
「あ、でも…そうしたら大地さんは疲れる?お家でゆっくりするのがいいのかなぁ…」 
「あのね、そんな年じゃないよ。いくらなんでも」 
「ごはんも一緒だから…あのね、お料理も少しは出来るようになったから、私が作れるか聞いてみなきゃ」 
「へぇ、それは楽しみだなぁ」 
「…あっ!で、でも、私、明日お花のお稽古が…!!どうしよう…!!」 
「はいはい、ちょっと落ち着いて、ね?ちなみにそっちもお休みになったから大丈夫」 
 
いきなり休みなんて取って大丈夫だろうかとさっきまでは思っていたけれど。 
こんなに喜んだ顔が見れるなら、このまま母の策に嵌まってしまおう、有り難く。 
 
何より、喜んでいるのは彼女だけじゃない。 
 
「…せいぜい一人占めさせてもらうよ。心行くまで」 
 
悪いけど、離すつもりはないから。 
 
 
 
 
 
そう言って、やわらかなほっぺたにキスを一つ。 
 
 
  
  
 
 
 
 
 
 
  
 
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