君という運命に堕ちた日
「やっぱり琴子さんも女の子ね。そんな風におなりだなんて」
満足げに微笑む母親に内心「違うわ」と反論しながらも、けれども今日まで実際食事は喉を通らなかったので言い返す言葉もなく琴子はただむっつりと黙りこくっているだけだった。傍から見れば緊張している風に見えるのだろう。
違う。周りが思っているような理由とは断じて違うと琴子は出来れば言いたかったが、それを母に逐一説明する必要はない。
だって、これは秘密だから。琴子の心にだけ留めておくことだから。一生誰にも話さない大切な大切な思い出。
琴子はとりあえず結婚相手に会うという話を承諾した。それは、両親からすればそれまでの抵抗から考えれば驚くほどあっさりと折れた態度だった。
『一番大切なのは君の気持ちだから』
あの言葉が、今の琴子を支えている。
彼は彼で、相手に誠実に向き合うのだと言っていた。それなら琴子もそうでありたいと思ったのだ。相手がどうであれ、きちんと知るためには背を向けて嫌がるだけではダメだ。
それでもしも「いいひと」なら、琴子も覚悟を決めなければならない。
(でも…)
「お支度整いました」と声がかかる。その声に、情けないけれど肩がびくりと震えた。
どうして会うのがここなんだろう。よりにもよって、先日あの人に連れてこられたこのホテルなのだろう。
(…あの人がよかった)
名前も知らないけれど。少ししか一緒にはいなかったけれど。
これからずっと一緒にいるのなら、好きになった人がよかった。
琴子は立ち上がり、ゆっくりと息を吸って吐いた。頭の中の想いを追い出すように。
「…はぁ」
「あら、なぁに大ちゃん。あなたでも緊張するの?」
「あーいや…その」
「まだ気にしてらっしゃるの?琴子さんと年が離れていること」
「…それもあるけど、それだけじゃなくてですね」
複雑な表情をする大地に、母はおっとりと微笑む。
「きっとかわいらしいお嬢さまよ?私、とても楽しみにしてましたの。雪ちゃんだって詳しく話を聞かせてくれって言ってたわ」
「…あいつは笑いたいだけだよ。ったく、ヒトゴトだと思って…」
「ま、そんな言い方してはだめよ?雪ちゃんは雪ちゃんで大ちゃんの事心配しているんですから」
「いつからそんな殊勝な弟になったんだか。まぁありがたい事だと思っておくよ」
きっちりと準備された和室で、大地はもう一度息を吐いた。今後弟に何を言われるかを考えると苦い気持ちになったが、この際弟の事はどうでもいい。
これから起こる出来事を、大地はぼんやりと考える。もうすぐここに彼女が来るだろう。両親も一緒だろうから(こちらは仕事の都合で父は来ていないが)その後は形式ばった挨拶が繰り返されるはずだ。
…いや、問題はそこではなくて。
『琴子です。藤津川琴子といいます』
(…何だかなぁ)
こういうのを、何というのだろう。単なる偶然か、それとも間抜けな笑い話か。
けれども、ただの笑い話だと大地は言う気になれなかった。あの時の彼女は、何と言うかひたむきで、冗談めかして笑えるものではなかったから。
「…藤津川様、いらっしゃいました」
声と共に、音も無く戸が開く。
その時の気持ちを、何と説明すればいいかわからない。
夢を見ているのかもしれないと本気で思った。「ご挨拶なさい」と言われた言葉も、琴子の耳には届かない。
だって、そんなはず、ない。
「…えぇと。気持ちはわかるけれど。…大丈夫ですか?」
「…な、だ、…え?…ゆめ?」
「いや、これは現実だよ。君もちゃんと起きています、僕の見る限り」
「う、うそ…!そんなわけ…うそだ…!」
がくりと、視界が揺れる。だめだ、足に全然力が入らない。
だって、どうしよう。どうしてあの人がここにいるんだろう。これが夢でなくて現実ってどういうことなんだろう、わからない。
「ぅ…ふぇ…っ、うえぇぇん…」
「え!?ちょ、ちょっと…!」
ざわめく周りも、驚いて戸惑う声も、琴子には全部が遠い。ちゃんと立ってご挨拶しなければと思うのに、ちっとも出来ない。涙がどんどん出てきて悲しくないのに泣くのを止められない。
「…ちょっとすみません。いきなりで申し訳ないのですが二人にしてもらえますか?…事情は後から僕が説明しますから」
「まぁ…大ちゃんに会ってこんなに喜んで下さるなんて…!これはきっと恋ね。感激だわぁ…」
「琴子ったら、本当は嬉しかったのね、もう、素直じゃないんだから…!」
「ちょっと母さん、藤津川さまも。好き勝手言わないでください…」
「あらあら、そんな張り切らなくったってどうぞ行って下さいな。若い二人にお任せしますとも」
「…それじゃ、失礼します」
別に張り切っているわけではなかったが弁明するのも面倒だ。泣き崩れる琴子を支えて、別室に移る。
大地にしてみれば、驚きの再会はともかく、こんなにも泣かれるとは予想外だった。年上の男とケッコンさせられるなんて嫌なのだと事前に聞いてはいたが、ここまで嫌がられているとは。
(さて、どうしたもんかな)
ぐすぐすと泣きべそをかく琴子を見下ろし、大地はまた一つため息をついた。
彼――赤城大地が連れ出してくれたのは庭園だった。今は秋なので季節柄花はついていないが、春になれば綺麗なのだという。
「…ごめんね、こんなところまで」
「…いえ」
「寒くない?やっぱり部屋の中の方が良かったかな」
「大丈夫です」
その中の東屋にある椅子に座らされ、琴子はようやく状況が見えてきた。見えてはきたが、そう簡単に受け入れられそうにない。
否、これが喜ばしい事なのだというのは充分理解している。
無理やり親が決めてきた結婚相手は、あの時助けてくれた、そして琴子が初めて好きになった彼なのだ。
神様に何度お礼を言っても足りないくらいの幸運だ。それを、素直に喜べばいいのだし、実際琴子は嬉しかった。
(それなのに)
さっきから、琴子は大地の顔も見られなかった。それどころかどこを見ても彼の存在を意識してしまうので、結局ずっと下を向いていることしかできない。
場も弁えずに泣きだした琴子を、きっと大地は困った子だと思っているに違いない。行儀の悪い子だと、嫌われてしまうかもしれない。
そんなのは嫌だから、本当はさっきの失礼を謝らなければならないし、何よりこんな態度のままでいいわけがない。そして、ちゃんとお話したい。
どうにかしたい、と思ってもどうにもできないまま、琴子は結局ぐすぐす鼻を鳴らしながら下を向いていることしか出来なかった。
二人きりになったはいいものの、しかし余計に不味かったかもしれない、と赤城大地は自分の行動に早速後悔していた。
彼女が泣きだしたのは恐らく見知っている自分(彼女が憶えていたのなら、という話だが)に会い、そしてその相手が無理やり結婚しろと言われた男だという二重の驚きのせいなのだろう。
あるいは、その事実に泣ける程拒絶反応が出たか。…これも充分考えられるが、何となく大地はそうであってほしくなかった。そこまで嫌われるのは人としてさすがに悲しい。
広い庭園は二人以外人影はないし、静かだ。風は、やはり少し冷たい。
枯れたような色の混じる庭園の中で、淡黄の彼女の着物はよく映えた。
「…良い色だね」
「…え?」
「着物。綺麗な色だなって。よく似合ってる」
初めて顔を上げてくれた彼女の顔には、まだ拭いきれていない涙が残っていた。大地は手を伸ばそうとして、けれどそれを引っ込める。それはあまりに馴れ馴れしすぎる気がした。
「驚かせてしまって、ごめんね」
「…あの、知ってたんですか?私が…」
「いや、君が名前を教えてくれるまでは気付かなかったよ。…すごい偶然があるもんだと思ったけど」
「あ、あの、ごめんなさい。泣いたりして…挨拶もしないで、失礼でした」
「…ああそうか。挨拶もまだしていないんだった」
そんな事すら忘れていた自分に、大地は呆れた。泣いていた彼女のほうが余程冷静だ。
襟元を正して赤城大地ですと言えば、小さな声で藤津川琴子ですと返ってきた。そしてまた下を向かれてしまう。
いよいよ本格的に困ったことになってきたと大地は頭を抱えたい気持ちになった。こんな気持ちはいつぶりだろう。
大地は今まで人間関係で悩んだことはほとんどない。もちろん女の子と話すのに慣れているというわけではないが、仕事にしろそうでないにしろ、大地は今までうまくやってきた。「調子がいいんだよ、大地は」と弟からは嫌みを言われた事があるくらいだ。
けれども、今回は今までのどの状況とも違う。婚約相手と話すのは初めてだし、しかもその相手は弟よりも年の離れたお嬢さんだ。大地から見れば子供としか見れないような年齢の。
子供のようだけれども、子供相手に誤魔化すような言葉は使えない。そんな言葉は彼女には届かない気がした。
(いやいや。ちょっと落ち着け)
話したい事は、ちゃんと考えてきた。きちんと向き合うのだと決めた時から。彼女が自分の婚約者になるかもしれないのだと知った時から。自分にしか出来ないことだ、これは。
大地はこの話は断るつもりでいた。ここに来るまでに決めた事だ。
それなのに、中々言い出せないのは何故なのだろう。まさか、未練があるとでもいうのだろうか。
名前を告げられた時か、それとも「好きになれるわけがない」と顔を覆われた時か、色とりどりのお菓子に目を輝かせている時か。
決めた瞬間に、けれど同時に迷っていた。本当のところは。
「…あーぁ。どうしようもないな」
「……何がですか?」
「せめて少しカッコつけようかと思ったけれど…ダメみたいだ」
「だ、大丈夫ですか!?」
琴子嬢の前でしゃがみこんだ大地に、彼女は慌てて声をかける。それを片手を上げて遮って、大地は彼女の顔を見上げた。琴子は心配そうに大地の顔を見るだけだ。
彼女は笑うだろうか。それとも怒るだろうか。
「琴子さん」
「は、はい!」
何がそうさせるのかは、自分でもわからない。
けれども、あの時出会ったのはやっぱりただの間抜けな笑い話などではないのだ。そう信じたい。
「…僕は、この話はお断りするつもりだった。お互いの為に、それがいいんだと思っていたから」
「…そ、それは」
「でもね」
ああきっと。一雪あたりには大笑いされるんだろうな。まぁ元々面白がっていたけれど。
でも構わない。笑いたきゃ、笑えばいい。
「やっぱり、というか…本当のところ、僕はこのまま話を進めたいと思ってる。…君が、よければ」
しゃがみこんでいたのを立ち上がり、手を差し出す。さすがに座り込んだままは決まりが悪い。
「僕を、選んでもらえますか」
彼女は黙ったままだったし、目も合わせてはくれなかった。
けれども重なった小さな手が強く自分の手を握りしめてくれたので、大地はやっと少し笑えた。
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