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それは、神様の悪戯のようなもの
 
 
 
 
  
(冗談じゃないわ) 
 
 
学校帰りの道をとぼとぼと歩きながら、琴子は昨日家で言われたことを頭の中で反芻していた。人生で最も悲劇的な、そして絶望的決定が下された日だった。憤懣やるかたない、どころでは済まない怒りと悲しみが琴子の体の中で渦巻いている。 
琴子は今春女学校に入学したばかりだった。学校にだって、そして「制服」であるこの洋装にもやっと慣れたところだというのに。 
 
人生は、これからだと思っていたのに。 
 
「冗談じゃ、ないわ」 
 
もちろん琴子だって心得ているつもりだった。自分は女だし、女に生まれたからにはそのうちどこか他所の家へ嫁ぐのだ。結婚をして、子供を産んで、家を守っていくのだ。そんなの当たり前の話だ。 
 
けれどもこんな簡単に、そして理不尽にそれが決まるとは思いもよらなかった。 
 
琴子はもちろん嫌だと言った。寝耳に水とはこのことだ。昨日突然「お前の結婚相手がきまりましたので結婚なさい」と言われ、どうして「はい、結婚します」などと言えよう。 
けれども、琴子の抵抗は無駄だった。それどころか「わがままを言うな」と怒られた。お前は幸せよ、だってお相手はあの――。 
 
「あーもう!嫌なものは嫌!!絶対嫌っ!!」 
 
全ては貧乏のせいだ。琴子は自分の生まれを恨めしく思う。琴子の家は貧乏だった。貧乏とはいえ、着るもの食べるものに困るわけではないが、学校へは徒歩だ。他所の家のように迎えの馬車などありはしない。 
家名を守るため、要らぬ見栄を張って来た結果がこれだ。そしてその上、自分は家の為に無理やり結婚させられようとしている。全く冗談じゃない。こんなの身売りと変わらないではないか。 
 
帰り道の橋の下の川面に琴子は目をやった。冷たそうな水面に自分の沈みきった顔が映っていた。 
 
上級生のお姉さま方の中には、もう許嫁が決まっている方もいる。そういう方たちは皆、幸せそうだった。琴子だっていつかはそんな幸せがくるのだと信じていたのに。 
なのに、こんな不幸な結婚を押しつけられるだなんて。 
 
「もうイヤ。…家に帰りたくない」 
 
橋の欄干に手をかける。もういっそ、帰らないでおこうかと息をのむ。 
震える手を誤魔化すために、琴子は強くそれを握りしめた。 
 
 
 
  
  
 
 
  
「…はぁ」 
 
車の中で窓の外を見ながら、赤城大地はため息をつく。運転手がおかしそうに笑った。 
 
「…奥さまは朝から御機嫌でいらっしゃいましたよ?」 
「そりゃあそうでしょうね。不肖の息子の一人は片付いたわけですから」 
「おめでとうございます。これで赤城家も安泰ですねぇ」 
「……まぁ、一応はそういうことになりますか」 
 
我々にとっても喜ばしい事ですと朗らかに言われてしまっては返す言葉も無い。大地はもう一度出かかったため息を呑み込んだ。 
そりゃあ、嬉しいに決まっているだろう。何せ相手は侯爵家の立派な家だ。赤城家念願の「権威」が手に入るというわけだ。 
 
藤津川家は元華族らしいが、現当主が病弱な上にあまり商才がなかったのか、手がけた事業は次々に失敗し今や状況は火の車、らしい。 
どういう経緯で赤城の事を知ったかは不明だが、ともかくも縁談の話を持ち込んできたのは向こうだ。爵位持ちの家がこんな新興成金の家に縁談を申し込むなど魂胆は見え透いている。しかし、赤城家にしてみても願ったりかなったりなわけでこれを断る理由などあるはすがない。 
 
大地は話自体に不満があるわけではなかった。そもそも結婚というものに多大な期待など持ってはいないし、自分は長男で家を継がなければいけないのだから、ある程度両親の意向で決まるものだと、とうの昔に覚悟は決まっている。 
いずれかは来る話が今来たというだけだ。特に驚きも、感慨もない。 
 
(とは言ってもなぁ…) 
 
渋る大地に、母は「大地さんは真面目すぎますのよ」とにこやかに言ったのだった。結婚するからといって、何も今すぐに夫婦のように生活しなくたってかまわないのよ、向こうのご都合もお有りでしょうし――。 
 
「…ん?」 
 
車は川の傍を走っていた。窓に映る景色に、大地は微かに目を見張る。 
 
「すいません、ちょっと、止めて下さい」 
「え?ここでですか?」 
「いいから、早く!」 
 
無理やり道の脇に止めてもらった車から、大地は飛び出して走る。橋の欄干を乗り越えようとする女学生の腕を掴んだ。 
 
「ちょっと!何してるんだ、君!」 
「な、なに…?は、離して!私はここで、と、飛び降りて死ぬんだからっ!」 
「何、バカなことを…!冗談はよせよ!」 
「いやあぁぁぁぁ!はなしてえぇぇ!!!死んでやるうううう!!!」 
「あのね、こんな浅いところで飛び降りたって濡れて風邪ひくだけだろ!本当に死ぬならもっと深くなきゃ無理だ。だから一旦やめよう。ね、ほら、手を離して」 
「やだやだ!離して!!もう放っておいて!!」 
 
じたばたと暴れる女の子を何とか欄干から引き離し、一息つく。念のため走り出さないように手は離さないでいた。 
見れば、まだ子供だ。女学校の制服を着ているけれど、きっと下級生だろう。 
 
「やれやれ。僕が通りかかったから良かったものの、こんなところで飛び降りたって濡れて風邪をひくだけだぜ?そんなの、バカみたいだろ?」 
「…じゃあ、もっと深いところに行けっておっしゃるの?」 
「違うよ。どっちにしてもバカバカしいんだから、とりあえずお家に帰りなさいって言ってるの。送ってあげるよ、家はどこ?」 
 
多少乱れた制服を直してやりながらそう聞くと、女の子はびくりと体をこわばらせた。ひどく傷ついた顔をしたまま、何も言わない。 
川に飛び込もうとしたくらいだ。それ相当の事情は抱えているらしい。内心困ったなと思ったが、かといってこのまま放っておくわけにもいかない。 
 
「…わかった。じゃあ家じゃなくてとりあえず君の行きたいところに行こう。話はそれからだ。どこに行きたい?」 
「………く…い」 
「え?」 
 
聞き返すと、少女は大きな、意志の強そうな目で大地を見返して、今度ははっきりと言った。 
 
 
「わたし、家にかえりたくない」 
 
 
 
  
 
 
 
  
「…これは赤城様、いらっしゃいませ」 
「すみません、急で申し訳ないんですが応接室は空いていますか?」 
「今からでございますか?はい、ご用意できます」 
「それは助かった。…お願いします」 
 
お荷物を、と言われ上着とカバンを渡した。このホテルは普段から商談や会議で良く使っているので融通がきく。 
まさか女学生を仕事場に連れて行くわけにもいかないし、かといって家に戻ればそれはそれでややこしい。大体、これから婚約、結婚をしようという男が年端もいかない女学生を家に連れ帰ったりなんてしたら事だ。 
荷物を受け取ったコンシェルジュは、当然大地の後ろにいる連れの荷物も預かろうとしたが、一瞬その動きを止めた。ほんの一瞬。 
少女はきょろきょろとあちこちに目をやっていたが、彼の存在に気付くと「あ!私は大丈夫です!」と慌てたように答えた。 
 
「…親戚の子ですよ。でも、仕事の合間に来てるので父には内緒にしておいてください」 
「…かしこまりました。後で何かお持ちしましょうか」 
「ああいや…えっと、いややっぱりお願いします」 
 
…我ながら苦しい言い訳だと思ったが、さすがに相手はプロだ。何事もなかったかのように「ではご案内いたします」と大地達の前を歩いた。 
 
 
 
 
「…さてと。少しは落ち着いた?」 
「あ、はい。…あの、ここ…それにお茶とかケーキとか…」 
「いいよ、気にしないで。それくらいはどうとでも出来る大人ですから、僕は」 
 
少女は、華奢なカップを持ち上げてこくりと紅茶を一口飲んだ。 
 
「…おいしい」 
「あそこで飛び込んでたら食べれないところだ。全身濡れ鼠で風邪ひいて終わりだったね」 
「わ、わたしは本気で…!」 
「ああ、ごめん。でもそんな滅多な事言うものじゃないよ。月並みな事しか言えなくて悪いけど、ご両親だってきっと君を心配してる。そして君がそんな不幸な死に方をしてしまったらきっと悲しむと思う」 
 
そう言うと、彼女の表情がさっと曇った。小さな口がへの字に曲がっている。 
そのいかにも子供っぽい表情から、まぁ子供の悩みなんて十中八九そんなものだろうと大地は嘆息する。親とケンカしたとか、学校の友達とケンカしたとか、そんなものだ。…もちろん本人にとっては重大なことだろうけど。 
 
「…心配なんて、していないと思うわ」 
「え?」 
「だって、わたしの事を無理やりお嫁にやろうっていうんだもの。このまま死んで悲しんだとしても、それはきっと家の役に立たなくなるからよ。わたしの事を心配して悲しむんじゃないわ」 
「お嫁にやる?君は結婚するの?」 
 
驚いて聞くと、彼女は怒ったようにがちゃりとカップを置き、そのままフォークに持ち替えてためらいなくケーキにそれを刺した。 
 
「ウチは、貧乏で…んぐんぐ…だから、私、お金持ちのお家にお嫁に行くんです…あ、コレ美味しい」 
「へぇ…」 
 
どこかで聞いたような話だ。 
もぐもぐとケーキを頬張る彼女の言葉を、大地は待った。 
 
「わたしだって…わたしだって、わかってます。家が大変なのだって何となくわかるし…それに、両親はわたしが苦労しないようにと思って、早くに決めてくれたんだってこと…それは、わかってるんです」 
「……」 
「でも!いくらなんでも早すぎるし…。わ、わたし、ちゃんと好きになれる人と結婚したい…」 
「その相手の事は好きになれないの?」 
「なれるわけないじゃないですかっ!」 
 
ケーキを食べ終わりフォークを置いてから、彼女は大地に信じられないとでも言いたげに声を上げた。 
 
「だって、だって…そのひと、わたしよりすごぉく年上の人で…成金だって言ってたし、きっと脂でテカテカしてそうなおじさんだもの…!絶対そうに決まってるもの…!」 
 
言いながら、耐えられないとでもいった風に、少女は顔を手で覆った。大地としては何とも言葉のかけようがない。本人の言うとおりならば確かにそれは不幸な気がする。 
だがそれよりも、やはりそうなのか、と大地は思う。金銭的には恵まれたとしても、意に沿わない結婚というのはやはり不幸で、そしてそれを誰より感じているのは彼女のような女性側なのだ。 
 
「…とりあえず、涙を拭いて」 
「泣いてません、別に」 
「あっそう。…あのね、実は僕も近々結婚するんだ」 
「…え」 
 
少女は、呆けたように大地の方を見上げる。 
 
「あまり詳しくは話せないけど…まぁ君と似たような話なんだ。まだ会ってもいないから何とも言えないけど」 
「あなたも無理やりケッコンさせられるの?」 
「いや、無理やりというか…でも、僕の気持ちが悉く無視されているのは確かだ。でもね、そういうものだって僕はとっくに諦めていたし、興味もなかったんだ。面倒事を押しつけられたとすら思っていた。でも、君の話を聞いて気持ちが変わったよ。…うまくいくかはわからないけど、とにかく僕はその人に誠意を持って向き合わなきゃいけないんだって」 
 
言いながら、うまくいくはずはないだろうなと、大地は心の中で苦笑する。 
藤津川琴子嬢は、聞けば今年女学校に入学したばかりらしい。そんな年の離れた娘と自分がどうしてうまく夫婦になれるだろう。 
大地の話を真面目な顔で聞くこの少女と同じく、琴子嬢も嘆いているに違いない。「年の離れたオジサン」とケッコンさせられる不幸な決定に。 
 
「家の事もご両親の気持ちも、確かに大事だけれど…一番大切なのは君の気持ちだから。どうしても嫌なら断ればいい。まずは会ってみて、誠実な人なら君の心も変わるかもしれないし。そうでないなら断りなさい。君のご両親だって、お金も大事だろうけど一番大事なのは君の幸せだからね」 
 
何の励ましにもならない言葉だというのは百も承知だった。恐らくは彼女は結婚するのだろう。自分の気持ちが大切だと言っても、それを本当に優先できるかといえばそれは難しい。今回断っても、また同じような話がくるだけなのだから。 
 
それでも、目の前の少女がやっと少し笑ってくれたことで大地は満足することにする。何の力にもなれないけれど、彼女には幸せであってほしいと、ついさっき会ったばかりだけれどそう思わずにはいられなかった。 
 
 
 
  
  
 
  
(なんだか、変な感じがする) 
 
さっきから落ち着かない。何だか足元がふわふわする。ホテルの床が絨毯張りだから、ではない。 
少し前を歩く彼を、ちらりと見上げてみる。琴子の父親よりも背が高い。 
車から降りる時も、段差があるところでも手を差し出してくれた。お茶もケーキもごちそうしてくれた。 
それと。 
 
『一番大切なのは君の気持ちだから。嫌なら断ればいい』 
 
そんな風に言ってくれた人は初めてだった。ただの慰めでも、琴子の気持ちに気付いてくれたのはこの人が初めてだ。 
落ち着いていて、優しくて、男の人で、でもお父様や親戚のおじ様たちとは全然違う。 
 
(どうしよう) 
 
全然知らない人なのに。そして、きっともう二度と会うことはないのに。 
 
ホテルのロビーで荷物と上着を受け取って、そこで別れる事になった。彼は仕事場へは歩いていくのだという。車には琴子だけ乗って、家まで送ってくれるんだそうだ。 
「少し、考えたい事もあるから」と、彼は何故か困ったように笑う。 
突然に切りだされた別れに、琴子は心底がっかりした。まだ離れたくなかった。 
 
「それじゃあ、ちゃんと正しい行き先を告げてお家に帰るんだよ?」 
「…はい。ありがとうございます」 
「どういたしまして。…じゃあ、僕はここで」 
「あ、あの!」 
 
運転手さんに話をして、その場を離れようとする彼に、琴子は声をかけた。もう車に乗り込んでいたけれど、窓から身を乗り出した。行儀が悪い事はわかりきっている。 
初めは名前を知りたいと思っていた。けれど、やっぱりそれはやめることにした。 
だって、この人とはもう会えないし、ケッコンも出来ない。変に名前なんて知ってしまったら後が辛すぎる。 
 
「わたし…あの、わたしの名前」 
「え?あぁ…」 
「琴子です。藤津川琴子といいます。今日は…ありがとうございました!今日の事は絶対絶対忘れません」 
「………え?」 
「さようならっ!!」 
 
それだけ言って、琴子は車内にひっこむ。それと同時に車も動き出した。 
憶えていてほしい、わたしのこと。わたしも絶対に忘れないから。 
 
 
 
泣きたくなるのを必死でこらえながら、けれど琴子は最後彼がどんな顔をしていたか見ていなかった。 
 
 
  
  
 
 
 
 
 
 
  
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