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風邪ひき琴子ちゃん
 
 
 
 
  
ふかふか、ふわふわの大きな寝台。 
 初めてここに横になったとき、寝返りを打つたびにゆらゆらと湖に浮かぶ小船のように揺れるのが少し怖かった。 
 広くて、大きな二人用の寝台に一人で眠るのも、大きな家にお嫁に来たばかりの琴子には不安にしか感じられなかった。 
 ようやく一人寝と、寝台の揺れるのに慣れてからは、今度は、琴子がすっかり眠ってから夜遅くに、大地がそぉっと横にもぐりこんでくる時に起こるふぅわりとした揺れでぼんやりと目を覚ますのが、少し楽しみになった。
  
 琴子の旦那様の赤城大地は、大きな企業の重役を務めていて、平日も休日も、昼も夜も問わず忙しく働いている。 
 嫁に迎えたばかりの琴子が待つ家に帰ってくるのも、週に何度かあるかないかというほどだ。 
 久しぶりに大地が戻ってくると、琴子は嬉しくて嬉しくて、きっと仕事で疲れているはずの大地をゆっくり休ませて差し上げようと、待っているときは思っているのにいつもそんなことはすぐに忘れて甘えてしまう。
  
 広い寝台は、二人で眠るために、お義母さまがわざわざ選んでくださったって聞いているものだから。  
 今日はきっと、正しい使い方をしているわ。
  
 お布団はいつもふかふかで暖かいけれど、今日はそれよりももっと暖かいものが琴子の隣にある。 
 琴子はふわふわとした気持ちに包まれながら、寝巻き姿で隣にいる大地の事をじっと見ていた。
  
(お仕事のときの洋装も似合うけれど、和服姿もとっても立派……)
  
 琴子はこの年上の旦那様が好きで好きでたまらない。本来ならば、実業家の夫を支える、しとやかで賢い――つまりこの赤城大地の母親(琴子にとっては姑)のような――妻にならなければいけないのだけれど。
  
「今晩は、一段と冷えるね。……少し寒いよ。もっとくっつこうか」
  
 大地が、甘やかすからいけない。これでは、お正月の食卓に上がっていた甘酒(琴子は舐めるように味見をしただけだったけれど)や、名のある職人さんが作ったという色鮮やかなお菓子なんかよりももっともっと甘い。 
 まだ子どものような年齢の、しかも恋を知ったばかりの琴子には逆らいがたい誘惑だ。
  
「た、大地さん、くすぐったいです」 
「あははっ、だって、琴子さんがあったかいからいけない」 
「わぁん、大地さんの手、冷たいっ」 
「琴子は懐炉みたいにあったかいから、ついくっつきたくなる」
  
 そんな風に真顔で言われたら、どんな風に答えを返したらいいのか分からない。 
 でも、こうしてぎゅっと抱きしめられると、琴子だって離れたくない、って心から思うのだ。 
 琴子の小さな身体を包み込むようにしながら、大地はため息混じりにぼやいた。
  
「あぁ、出張なんて行きたくないな」 
「……そんなこと、言ってはダメですよ」 
「おや。それじゃあ、琴子は僕が明日から一週間も西に出張するのが嬉しいって言うのかな」 
「そんなこと言ってないです! ……大地さんの、いじわる」 
「あはは。冗談だよ、ごめんごめん」 
「わたしは、大丈夫だから、大地さんはお仕事頑張ってきてね?」 
「はーい。がんばります。……それじゃあ、明日からしばらく会えない分、今晩はずっと琴子のことを離さないでおこう」
  
 エネルギーのチャージをしておかないとね。と大地は言ったけれど、琴子には「えねるぎー」も「ちゃーじ」も意味が分からなかった。 
 けれども、優しく、それでいて力強く抱きしめられて、なんだか体中が熱くなっていくような気がした。
  
「ゆっくりおやすみ、僕のお姫ぃさん」
  
 眠りに落ちる前に聞いた声はとても優しくて、わたしがおひぃさんだったら大地さんはわかさまっていうのかなぁ、などと考えているうちに夢の中に連れて行かれてしまった。
 
 
 
 
  
 目が覚めると、横で一緒に眠っていたはずの大地はもう姿が見えなかった。 
 きっと、朝早くから仕事に出かけていったのだろう。大きな寝台が揺れて、琴子のことを起こさないようにそっと抜け出していく大地の姿を想像して、琴子は少しだけ寂しく思った。 
 気を使ってくれたのは、きっと大地の優しさで。琴子は大地のそういうところが大好きだったけれど、今日から一週間も会えないのに、見送りすらさせてもらえなかったことは少しどころではなく淋しい。
  
 寝台から起き上がり、琴子はふわふわとした絨毯の上に素足を下ろした。 
 それから立ち上がろうとしたところで、足に力が入らずにへたり、と床に座り込んでしまう。
  
「あ……あれ?」
  
 絨毯の上に両手をつく。寝台につかまってもう一度立ち上がろうとするが、足どころか両手にも力が入らず、床の上から立ち上がることすらできなかった。
  
「どうして……?」
  
 自分の体に起こったことが理解できず、頭の中がぐるぐる回る。 
 そのうち、視界もぐるりと回りはじめた。体が熱い。
  
「大地さん……」
  
 ぱたり。 
 琴子はその場に倒れこんでしまった。 
 その頬は昨晩大地に抱かれていたときよりも赤く、半分だけ開いた口からは熱い吐息が漏れていた。
 
 
 
 
  
 結婚してからというもの、大地は家に帰らない日には必ず夕方になると自宅へ電話を入れることにしていた。 
 もちろん、電話線がひかれていないような場所へ出かけているときは仕方がないが、それが予想されるときは駅や、ホテルなどからかけた。 
 結婚する前には、もちろんこんなことはしなかったし、何より仕事の時間をそんなことに使うのは無駄だとすら考えていた。何の連絡もせずに何泊も自宅に戻らないことだって珍しくもなんともなかった。
  
 とりあえず体面を保つために琴子本人と話をすることはしないが(結婚したばかりの年下の嫁にフヌケにさせられているなんて、事実ではあるがあまり見せられたものではない)、当然自分がいない間の琴子の様子を気遣う以外の目的はそこにはなかったし、電話口に出てくる母親を通してその目的は十分に果たせていた。
  
「何度乗っても、汽車は疲れますね。ようやく降りられたときには、背中が固まってるんじゃないかと思いましたよ」 
「そう。でも、私たちは一度も汽車に乗ったことも、そのように遠くまで行ったこともないもの、羨ましいわ」 
「母親を旅行にも連れて差し上げられず、甲斐性のない息子で申し訳ありませんね」 
「あら、そんなこと言ってなくてよ」 
「僕にはそうは聞こえませんが」 
「あらいやだ。最近は大地さんも所帯をお持ちになって、すっかり旦那様らしくおなりだと思っているのよ」 
「そうですか」
  
 電話口の母親は嬉しそうに話しているが、大地としてはこれほどもどかしいことはない。 
 今の自分に不満はなく、これ以外の生活や人生を想像することはできないが、それでも。たとえば、毎日家に帰れるような生活をしてみたいとは思う。 
 そうすれば、少なくともこうして声すら聞けないでじりじりと焦がれることもないし、また琴子に淋しい思いをさせることも今よりは格段に少なくなるだろう。 
 毎日家に帰る。簡単そうでいてそんなことが大地にとっては難しいことだ。
  
「何か変わったことは?」
  
 今朝家を出たばかりで変わったことも何もないだろう、と冷静な自分は思っているが、いつもこれしか言うことが思い浮かばない。
  
「いえ、なにも特にありませんよ」
  
 母親も、いつものように事務的に答える。 
 なにかあってもらっても困る。それでも大地はいつも変わらないその返事に少しだけ安堵するのだ。
  
「そうですか。それじゃあ、琴子をよろしくお願いします」
  
 受話器を置くと、ガシャンと重々しい音が部屋に響いた。 
 さて。やっと着いたというのにこれから食事に招待されて、その場で商談だ。ホテルに帰れるのは一体何時になるだろう。琴子は、その頃にはもう眠っているかな。 
 大地は傍らにおいてあったコートを羽織ると、車を待たせている場所へ急いだ。
 
 
  
 次の日、大地が自宅へ電話をかけたのは夜も更けてからだった。 
 たまに出張で来ると、ここぞとばかりにギチギチにスケジュールを詰め込む秘書には辟易させられる。しかも「少し過密すぎやしないか」とでも文句を言おうものなら、「あなたのお父様はわが社を興したばかりの頃は我々が心配になるほど働いてらっしゃいました。少しお休みくださいと私の父ががご注進申し上げても、お聞き入れくださらなかったと聞き及んでおります」と大地の小言の何倍も言い返されてしまう。 
 まったく、お互い父の代からの付き合いで、しかも彼のほうが年上なのだからそれ以上大地の意思など通せようがないではないか。
  
 それでも大地は電話口に出てきた母親には、疲れた様子など微塵も出さずにいつものように言った。
  
「遅くなりました」 
「夜遅くまでお疲れ様でございます」 
「たいしたことありません。何か変わったことは?」 
「いえ……特にはなにも」
  
 いつもと同じように答える、母親の声が明らかにおかしいことに、大地は敏感に気がついた。
  
「なにかありましたね」 
「いいえ、大地さんが心配なさるようなことは何もありません」
  
 つくづく、嘘が苦手な人だ。 
 いつもはコロコロと鈴が鳴るような華やかで、それでいてうるさくはない声で落ち着いて喋る人が、まるで蚊が鳴くような声を出していては気がつかないほうがおかしいではないか。 
 まさか琴子になにかあったのではないか、と思うと一気に血の気が引くような心持さえした。
  
「なにがあったんです。僕に言えないようなことですか」 
「大地さんが心配なさることではありませんよ」 
「もしそれが本当だとしたら、お母さんが態度に出すわけがないと、僕は思いますがね」 
「意地悪なのね、大地さんは」 
「ええ。僕はあまり性格が良いほうではありませんよ。お母さんもご存知でしょうに」
  
 しれっと。 
 大地は答えた。いい人なわけがない。人間がみな清廉潔白なわけないじゃないか。 
 いいから答えて下さい。大地はなおも聞いた。 
 電話口なのがもどかしい。せめてはばたき市にいれば、すぐにでも飛んで帰って様子を確かめるのに。
  
「教えてくださらないのであれば、僕はこれから家に帰ります」 
「大地さん、なにを仰るの」 
「だってそうでしょう。分からないんだったら、確かめに行くしかない」
  
 大きな声は出さないけれど、それでも静かに問い詰める。しかしそのほうがよほどストレスがたまる。 
 がしゃりと電話の向こうから、旅行カバンを引き寄せる音が聞こえてきたのを聞いて、やっと赤城夫人は観念した。
  
「大ちゃん、短気を起こさないでちょうだい。話しますから」
 
 
  
 そうしてやっと聞かされたのは、琴子が昨日の朝から高熱を出して寝込んでいるということだった。 
 医者の見立てではただの風邪ではなさそうだ、という。流感の類ではないか、しかし詳しいことはわからない、となんとも医者とは思えないあいまいな診察結果だ。 
 かかりつけの医者の顔を思い出して、受話器を持つ手が震えた。 
 けれども、大地の口から出たのは冷めたような静かな声だった。
  
「昨日の朝って。昨日電話した時は何もないとお母さん、仰いましたよね?」 
「だって、琴子さんが、絶対に大地さんに知らせないで欲しいと仰るものだから」 
「そんなことを言っている場合じゃないでしょう!」 
「だから、ちゃんとお知らせしたじゃないの、今」 
「僕が問い詰めなければ隠すおつもりだったのでしょう」 
「それは、琴子さんが……」
  
 なんだか、母親と自分の立場が逆転してしまったような気持ちになった。 
 まるで、いたずらを隠そうとしていた女学生を叱っているような。お母さんは時々、下手をすると僕よりも若く見えることがあるから困る、と大地は我に返った。
  
「……いや、お母さんを責めても仕方のないことです。話してくださったことは感謝します」
  
 琴子をお願いします。そう言って電話を切ってから、大地はホテルの白い壁に掛けられた時計を見た。
  
(船で帰れば……。いや、朝まで動かないな。すると車の方が早いか……)
  
 汽車に乗るのはいやだった。
 
 
 
 
  
 窓の外から、自動車のエンジン音が聞こえて、すぐ近くで止まった。 
 自動車の音は、世間一般ではまだ珍しいほうだ。ただし、この屋敷では珍しい、というほどではなかった。何しろ、社長やそのご子息は(めったにそれを披露することはないが)自動車を運転することが出来る。 
 だれか、お客様がいらしたのかしら。 
 琴子は夢うつつでそれを聞いていた。まだ、視界も頭の中も、春の霞がかかったようにぼんやりとしている。
  
「琴子」 
「あれ……? たいちさん?」
  
 多分これは夢だ。大地さんが帰ってくるのは、まだ当分先のはずだから。 
 それとも、熱で寝たり起きたりを繰り返しているうちに、何日もたっているのに気がつかなかったのかしら。 
 琴子はぼんやりと思った。大地さんに会いたい、会いたいと思っていたから、都合のいい夢を見ているみたいだ。 
 それでもそっと掛け布団の中に入ってきて、琴子の手を握ってくれたひんやりとした手はまぼろしなんかじゃないと思わせるのに十分だった。
  
「琴子、僕だよ。分かる?」
  
 普段から子どものように体温が高い琴子だけれど、手に触れただけでそれと分かるほどに熱い。 
 ゆるりと開いている目も、とろんとして焦点が合わず、熱によって潤んでいた。大地のことを映しているのかどうかも定かではない。
  
「たいちさん……?」 
「うん」 
「これは、夢?」 
「夢じゃあ、ないよ」
  
 琴子は大地に向かって手を伸ばそうとしたけれど、その手は当の大地に握られたままで動かせなかった。
  
「なんで、大地さんがここにいるの?」 
「帰ってきたんだ。琴子が熱を出したって聞いて、飛んで帰ってきたよ」 
「でも……お仕事は?」 
「仕事なんて、代わりがいくらでもいるよ。琴子の方が大事だ」
  
 大地の声はいつもと同じように涼やかで、ほてった頭にすぅ、と染み込んでくるような気持ちがした。 
 大地は片手で琴子の額にある濡れた手拭いをそっと取って、枕もとの盥の中に落とした。その代わりに自分の手のひらを琴子の額に当てる。
  
「少し、熱いね」
  
 一旦手を離して、手拭いを固く絞ってから、大地はそれをそっと壊れものを扱うように琴子の額の上に戻した。
  
「眠れるならば、眠ったほうがいいよ。少し、おやすみ」 
「大地さん……」 
「ん、なに?」 
「……なんでもない」 
「そう?」
  
 起きた時に、また大地さんがいなくなっていたら淋しくてたまらない。 
 熱が見せるまぼろしでもいいから、起きた時にはまたそばにいて、変わらずに微笑んでいてほしい。わたしの近くにいてほしい。 
 そんな風に思いながら、優しく髪をなでられる心地よさに琴子は目を閉じた。
  
「大地さん、お仕事にもどこにもいかないで。琴子のそばにいて」
  
 眠りに落ちる瞬間に琴子がため息のようにもらした言葉に、大地は胸を締め付けられるような気持ちになった。 
 僕は、一体何をやっているんだ。
 
 
 
 
  
 結局、大地は夜じゅう車を飛ばしてはばたき市まで戻ってきたのだった。今頃向こうではいきなり書き置きを残して消えた大地を探して蜂の巣をつついたような大騒ぎになっているだろうけれど、さっき琴子にも言ったように仕事など、誰でも代わりができるはずだ。 
 それにしてもあとであの口うるさい秘書にやいやい言われるのは覚悟しておかなければならないが。
  
 大地は眠り続ける琴子の看病を一時も休まずに続けた。 
 看病といっても、琴子の症状はすでに小康状態にはいっており、あとは熱が完全に引いて体力が戻れば完治だと今朝になって医師にも診断されているということだった。 
 やはり流感だったようだ、という医師の診断だった。そういえば、西へ行く前夜はやけに体温が高いと少し思ったのだ。 
 あの時、気がついていれば、こんなことにはならなかったかもしれないのに。
  
(ごめんね、琴子)
  
 気がつかなくって。それから、病気で心細いときにまでも一人にさせて。 
 琴子がいちばんつらいときに、そばにいてやれなかった。
  
 そればかりが悔やまれる。
  
 呼吸も落ち着いてきた琴子の寝顔を見ながら、額の上の手拭いを取り替え、汗をかいていないかどうか確認していると、ドアが開いて赤城夫人が心配そうな顔をしながら部屋に入ってきた。 
 後ろから、ワゴンを押した使用人が一人ついてきている。大地はそちらを一瞥した。
  
「大地さん。お食事をお持ちしましたよ」 
「ありがとうございます。そこへ、置いて行ってください」
  
 けれど、そう言われても夫人はそこから動こうとはしなかった。
  
「ねえ、大地さん。なにも、大地さんがそこまでなさらなくっても」 
「僕がこうしたいからしているんです」 
「あまり、無理をして大地さんが倒れるようなことが……」 
「大丈夫ですから。僕のことは心配しないでください」
  
 ぴしゃりと言いきる姿に、夫人は少しだけ鬼気迫るものを感じて半歩だけ後ずさった。
  
 赤城家の長男として生まれた大地は、物心ついた時から将来は社長となるべく育てられてきた。そのせいなのか、それとも生来の大地の性格なのか、今となってはもう確かめるすべもないが、大地は何事にもひどく興味が薄いように、母親である夫人には感じられていた。 
 食べ物や持ち物、仕事、趣味、習い事まで。夫人は大地が「なにが好き」「これがしたい」と言ったのを聞いたことがない。反対に「これは嫌い」「これはしたくない」ということもほとんどなかった。 
 それは人間関係においても同じようだった。大地は学校での友達を家に連れてきたことがない。ましてや「好きな女の子がいる」なんていうことはついに縁談が持ち込まれるまで一言も聞くことがなかった。 
 良く似た兄弟といわれることが多いが、弟の一雪とはそこが決定的に違う。
  
 その大地が、ここまでなにかに執着するのを初めて見た。 
 この、琴子という小さな女の子がこうまでも大地を変えてしまったのかと、改めて感心する。それは、喜ぶべきことでもあり、またあまりよくない傾向なのかもしれない、と少しだけ不安にも感じられた。
  
 一家の主が甲斐甲斐しく妻の病気の看病をするなどと、本来であれば見せられたものではない。特に、赤城家のような家では。 
 夫人が一番心配しているようなことは、けれども大地はまったく気にもしなかった。
  
「お母さん。僕は本当に大丈夫です。食事も、ありがたく頂きます。だから」 
「ええ、……分かったわ。 だけど、無理だけはなさらないでね。あなたは本当はこんなところにいてはいけないのだから」 
「分かってます。ごめんなさい」
  
 大地は座ったままだったが、深々と頭を下げた。 
 それを見て、夫人は、やはりこれは喜ぶべきことだと思うことにしましょう。そう自分を納得させることにして部屋をあとにした。
 
 
 
 
  
 再び目が覚めると、自分の顔を覗き込む大地の顔が見えた。
  
「大地さん?」 
「おはよう」 
「……おはよう、ございます」 
「もう、夜だけどね。よく眠れた?」 
「は、い……」
  
 今はよる? そういえば、視界の端に見える窓の外が暗い。  
 どうして大地さんがいるんだろう。まだ夢の中にいるような気持ちで琴子は思う。あれは、夢じゃなかったのかな。眠る前に、大地がすぐそばにいたような気がして、そのおかげでぐっすりと眠ることができた。 
 だって、その前の朝は起きたら大地さんがいなかったんだもの。大地はあまり家にはいないけれど、やっぱり不在なことに慣れることはない。 
 一緒に食事をして、お土産の話を聞いて、琴子は習い事の話をして。そうして過ごしている時間はまるで天にも昇るような気持ちがするのだけれど、大地のいない夜は、一人でこの広い部屋で本を読んだり、習ったばかりの編み物をしたりして時間をつぶす。 
 大地がいない夜に慣れることはない。いつだって、急に電話が鳴って、「やっぱり帰れることになった」と弾むような声を聞かせてくれないかと願っているし、うとうとしかけたころにドアが開いて、「仕事が早く終わったんだ」と微笑んでくれないかと考えている。
  
 琴子の顔を覗き込む大地は、開いた目が昼間よりもだいぶしっかりと自分のことを見ているのでほっと息をついた。
  
「具合はどう?」
  
 額にひやりとした手が当てられた。少し冷たくてびくりと肩が震える。 
 その反応を見て大地は手をひっこめた。
  
「あ、ごめん。冷たかった?」 
「すこしだけ……」
  
 ごしごしと両手をこすりあわせて、少しあたためてから改めて額に手をやる。 
 反対の手を自分の額にあててみて、大地は目を閉じた。
  
「熱は、落ち着いたみたいだね。よかった」
  
 ぱちりと目を開けて、ふわりと大地が微笑んだ。琴子の、大好きな笑顔だ。幸せになれる顔。 
 琴子も笑おうとした。久しぶりに顔の筋肉を動かしたような感じで、うまく笑えたかどうだか不安だったけれど。
  
「そうだな……なにか食べられそうなら用意させるけれど」 
「……今は、まだ」 
「それじゃあ、なにか飲み物だけでも。汗をかいていたから、なにか飲んだ方がいいよ」 
「はい」 
「取ってくる、少し待っていて」
  
 そう言って大地が椅子から立ち上がり、琴子に背を向ける。
  
「あっ……」 
「なに? どうかした?」
  
 思わず声を漏らした琴子を大地が振り返る。 
 布団の中で、手が動いていた。だけれど二人用の寝台は広くて、琴子の手は布団の外に出せなかった。 
 琴子はこちらを見下ろしている大地に首を振った。
  
「いえ、なんでも……ないんです」
  
 消え入りそうな琴子の声に、大地は軽く微笑んだ。そして琴子の小さな鼻をちょん、と人差し指で付いた。
  
「大丈夫、どこにも行きませんよ、お姫ぃさん」
  
 離れるのが淋しいと思ったこと、大地には全部お見通しなんだ。 
 見透かされてしまった恥ずかしさに、琴子は熟したリンゴみたいになった顔をゆるゆると布団の中にうずめる。 
 すっぽり寝台の中に埋まってしまった琴子を見て、大地はもう一度、今度は声に出して笑った。
  
「ずぅっと、そばにいるよ。あなたの望むままにね」
  
 そして、自ら飲み物を取りに行くのは中止して、部屋のドアを開けると近くにいた使用人を呼びとめることにしたのだった。
 
 
 
 
  
2010/02/08 
aikaさんへ!!
 
 
  
  
 
 
 
 
 
 
  
 
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