※こちらは、大地と琴子のお見合い話「ゆうきさんver.」となります。素敵かっこいい大人大地がいます!
とうとうこの日が来てしまった。
琴子の気分とは裏腹に空は澄み渡り、久しぶりに正装をした両親は「これも琴子の婚約を天が祝福してくれているに違いない」と朝から何度も口にしていた。
のんきなものだわ、わたしの気も知らないで。
琴子は着せられた振り袖をじっと見た。こんなに上等なお着物、うちにあったかしら。まさかわざわざこの日のために誂えたなんて言わないでほしい。そんなことをされては、ますます琴子の立場というものがないではないか。
実際のところはそのまさかであって、藤津川の両親は琴子のためになけなしの貯金をはたいて出来うる限り上等な嫁入り道具一式を用意していた。琴子の婚約、結婚に伴う準備と用意でいよいよ侯爵家たる藤津川家には貯蓄といえるほどの財もなにもなくなってしまったわけだが、それもこれも今日までの話である。
一人娘、琴子の縁談は、身分はあれど財のない藤津川家、そして富はあれどそれに見合う家柄のない相手方、双方ともに願ったりかなったりの話であった。
婚約、結婚をする当人の意志、ただ一つをのぞいては。
とうとう今日に至るまで見合いの相手の顔は分からずじまいだった。親同士が決めた見合いという状況を考えれば当然と言えば当然なのかもしれないが、現代には写真機という便利なものもあるのだから、これから一生をともに過ごさなければならない相手の顔くらいは見合いの前に確かめておきたかった。
相手の名前は赤城大地、というのだそうだ。
琴子も赤城という名前くらいはいくら何でも知っている。琴子はまだ実際に乗ったことはないが、鉄道の大きな事業で莫大な財を築いてから、本業だけにとどまらず様々な事業に手を広げている振興の企業家だ。手をつけた事業をことごとく失敗しては規模を縮小し続けている琴子の父親の会社とは正反対に、いまや飛ぶ鳥を落とす勢いと聞く。
大地はその赤城家の長男だということだった。すでに父を手伝って仕事をしている年だという。詳しくは聞いていないがどちらにせよ、琴子よりはだいぶ年かさにちがいない。
中庭が望める料亭の部屋に入り、琴子は両親に挟まれて小さくなって座った。正座をした自分の膝のあたりをじっと見つめる。
「どうしても嫌なら断ればいい」
琴子はあの日からその言葉だけを心の頼みにしてきた。名前も知らない(わざと聞かなかったのだ、知りたくなかったから)一度会ったきりで、もう二度と会うこともない年上の男の人の言葉。
「まずは会ってみて、誠実な人なら君の心も変わるかもしれないし。そうでなければ断りなさい」
実際のことを言えばそんなことを出来るわけはなかったのだが、彼の言葉で琴子の心がだいぶ軽くなったのは確かだった。結婚に前向きになれないのは今日までとうとう変わらなかったが、それでも彼と会ったあの日のようにもうどうなってもいいとまで思う投げやりな気持ちは小さくなった。
もうすぐ赤城さまがいらっしゃいますよ。
料亭の女将がやってきて、そう言って去っていった。
いよいよだわ。琴子は覚悟を決めて唇をぎゅっと噛もうとしたけれど、そういえば今朝唇に紅を引いたのを思い出してそれは踏みとどまった。
**
為すすべもなくこの日がやってきた。
赤城大地は料亭の門の前で思わず天を仰いだ。
あの日、浅く流れも遅い川に無謀にも飛び込んで死のうとしていた少女を助けたあの日。家に帰りたくないと言って今にも泣きそうだった彼女の名を最後の最後、別れ間際に聞いてから、結局どうしたらいいのか大地には考えつかなかった。
無理矢理に結婚させられるのだと、「すごぉく年上」の、「成金」の「おじさん」なんて、好きに「なれるわけないじゃないですか」そう言って彼女は死のうとまでしていたのだ。つまりは、自分と結婚などしたくないという一心で。小さな心をあんなにまで思い詰めるほどに痛めて。
では、自分はいったいどうしたら彼女を助けられるのだろう、たとえ(そんなことできるはずもないが)自分が彼女との結婚を断ったところできっと別の同じようなところへの話が持ち込まれるということは分かりきっている。
彼女のあの小さな体には今や、藤津川という歴史も由緒もある家の名誉のすべてがかかっているのだ。それは自分の持つ赤城という名とはあまりにも重味が違いすぎて、大地には想像する事もできない。
「好きになれる人と結婚したい」彼女はそう言っていた。大地自身は結婚にさしたる願望も希望も持ってはいなかった(成金ではあるが企業家の赤城家の長男として生まれたことを自覚した時点でそういうことはすべて諦めた。そうするのが幸せの最大公約数だと大地は早々と悟ったのだった)が、琴子はまだ女学校に入学したばかりのほんの娘だ。乙女と言ってもいい。男である自分とは違って結婚や恋愛といったものに憧れや希望や夢をたくさん持っていたのだろう。
大地にはなにも思いつかなかった。彼女を幸せにする方法も、彼女を苦しみから解放させられる手だても。
金があっても自分にはなにも出来ない。あれから今日という日まで大地は自分の無力さだけを痛感していた。
「大地さん、なにをなさってるの。藤津川様はもうお部屋でお待ちになっているそうですよ」
「あぁ、はい。ただいま参ります」
しばらくその場に立ち尽くしていた大地は、しびれを切らした母に呼びかけられてようやく視線を前へと移した。
**
「これは藤津川さま。大変ご無沙汰を致しておりました」
「いえ、赤城さまこそ大変お忙しそうになさってらっしゃる。ご挨拶にも伺えず大変失礼を」
「恐縮です。奥様もご壮健そうでなによりです」
「ええ、おかげさまで」
双方の両親四人がお互いに実にも具にもならない形ばかりの時候の挨拶からご機嫌伺いを取り交わしているあいだ、大地は藤津川侯爵とその夫人の間に座っている小さな姿を黙って見ていた。
あのとき彼女はは女学校の制服を着ていて、そのときもかなり小さく(有り体に言えば幼く)見えたけれど、こうして和服を着ているとまた際だって体の小さいことが分かるような気がする。
琴子はまだ一度も顔を上げてはくれなかった。じっと身じろぎ一つしないで下を向いたままだ。
それを見て、琴子は婚約者いや、見合い相手がこの自分だと聞かされていないのだと知った。いや、聞かされていたとしても結婚に納得していないのだからこの状態でも仕方がないか。大地は大きく吸った息を吐き出そうとしてすんでのところでそれは止めた。見合いの席でため息など(母になにを言われるか!)。
「琴子さま、はじめまして。赤城大地です」
両親のやりとりが一通り終わったところで大地は琴子に声をかけてみた。身分とか旧華族制度というものはもうなくなったとはいえ、赤城家と藤津川家のあいだには歴然とした差があるわけで、大地はそれを無視できる性格ではなかった。藤津川琴子という年下の旧華族の侯爵令嬢に最大限の敬意を表して敬語で語りかける。
けれど、その視線がこちらを向くことはなく、消え入りそうに小さな声で
「藤津川琴子です」
と自分の名前を名乗るのが聞こえたのみだった。
(声も忘れられている、か)
それも仕方がない話だ。あの日ただ一度、ほんの短い間に少し会話を交わしただけだから。
**
「琴子さま、ここの料理はお口に合いませんでしたか?」
「え、あ……いえ……」
誰かの声に、琴子は慌てて箸を持ち直した。
次々と運ばれてくる料理の味など一つも分からなかった。両脇に座る両親の隠そうとしても隠し切れていない弾んだ声の様子などを聞いて、琴子はもういよいよ引き返せないところへ来てしまっているのだと痛いほどに理解した。
よくは知らなかったが両親は赤城家と知り合いであったらしい。もちろん、全くの見ず知らずの家に縁談など持ち込むはずもないのだから、形ばかりでも付き合いはあるものだとは思っていたけれど、この様子では相当懇意にしていると見て間違いなさそうだ。
これじゃあ、万がひとつにも断るなんてできっこないわ。
ことは藤津川一家のことだけにとどまらなくなっている。こちらから持ち込んだ縁談を断るなんて、そういえば先日同じ侯爵家でそのようなことがあったと風の噂で聞いているけれど、なぜか穏便にことが運んだあちらのようには普通ならば行く訳がない。
赤城家は名誉を汚されたと言ってなにがしかの責任を求めてくるだろうし、その結果藤津川家は今よりももっと窮地に立たされるに違いない。
琴子が慌てて箸にとったのは一口大の本来ならば甘く似た南瓜の煮物だったけれど、琴子には砂をかむような味にしか感じられず、飲み込むのに大変苦労した。
もう、いいわ。もう、どうにもならないもの。
あの日のあの人の言葉も、もうかすんで消えそうに感じられた。琴子一人の意志など、この場では何の役にも立たないのだもの。これでお父様とお母様が幸せになるのだったら、犠牲にでも何でもなるわ。
だって、わたしはあの日死んだのだもの。
死のうと思うよりも絶望的な気持ちがあるなんて、琴子は今まで想像すらしたことがなかった。そして、これから一生そういう日が続いていくのだと小さな体で一人覚悟を決めた。
**
「大変不調法であることは自覚しているつもりですが、少しだけ琴子さまと二人でお話させていただけますか?」
大地の言葉に、四人の親たちは快く席を外してくれた。すっかりもう彼らの間で話はまとまったことになっているらしい。
琴子と大地、当人たちの感情は全く無視されているが、見合い、ひいては結婚などというものは古来そんなものなのかもしれないと大地は考えていた。
けれど、大地はよくても琴子はそうではないだろう。
「誠意を持って接する」大地はあの日そう決めたのだ。もしかして意に添わないかもしれない決定を下された者同士、妻になるかもしれない人には真剣に向き合うとあの日琴子と話をして決めたのだ。
四人の気配がすっかり遠ざかったのを確認して、大地はようやく少しだけ肩の力を抜いた。思っていたよりはやはり緊張していたらしい。
「琴子さま。初めましてだなんて嘘をついたこと、お詫びします。改めまして赤城大地です」
未だにちらりとも自分のことを見てくれていない琴子に頭を下げた。
相手の顔も見ず、話もせず結婚しよう。そう決めていた琴子はその言葉に思わず顔を上げていた。
そして、呆けたように動きを止める。
そこには涼しい笑みをたたえた顔があった。あの日見た、優しく包み込んでくれるような笑顔ではなく、どこか淋しそうな、もっと直接的に言えば何かを我慢しているような笑顔だった。
それにしても笑顔が似合う人だ。琴子は思った。会うのは二回目なのに。それに、わたしはこの人の何を知っているわけではないのに。
何も言えず、動くことすらできず琴子が大地のことを凝視している間、大地はまっすぐにその視線を受け止めていた。
そうやって、二人でしばらく無言で見つめ合った後、大地が口を開いた。
「あの日、貴女のお名前をお聞きした時に僕は貴女が僕の婚約者だと初めて知りました。そこは誓ってもいい。橋のところにいた貴女に声をかけた時、僕は貴女のことを何も知らなかったのです。わざと近づいたのではないのことだけは、信じていただきたいのです」
大地は言葉を続ける。聞いているのか聞いていないのか、理解してくれているのか、目の前の琴子は反応を示さないが。
「そして、僕だけが貴女のことを知っていたことも、今ここでお詫びします。貴女の気持ちを知っていたのに、貴女の望むような解決策を講じることが何もできなかったことも、不甲斐なく申し訳ないと思っています」
そこで一呼吸おいて、大地は一度抜いた肩にもう一度力を入れた。
親に決められたことですらこのように緊張するのだったら、いま巷で流行し始めているとかいう自由恋愛をしている連中はどれくらい強心臓なのだろうか。それとも、僕が意気地なしなだけだろうか。
すぅ、と息を吸うと肺の中に冷たい空気が満たされるのが感じられた。たぶん、僕は一生この感触を忘れないだろう。
「敢えてお願いします、藤津川琴子様。僕は貴女に我が家に来ていただきたいと希望しています」
**
大地の声が頭の中にわんわんと響いていた。なにを言っているのか聞こえてはいるけれどどう返事をいたらいいのか分からない。
わたしは、嬉しいの? それとも、やっぱり悲しいの?
この会食が始まってから何時間がたっているのだろう。この部屋には時計がないから分からないけれど、一時間か二時間かは確実に経過しているだろうと思う。その間、わたしはこの人の声にまったく気がつかなかったのね。
忘れもしない。絶対に忘れないと誓ったのだから。名前も知らない一度会ったきりの、だけど琴子にとっては忘れてはいけない男の人が目の前に座っていた。琴子の婚約者として、そして藤津川家の窮地を救ってくれるはずの頼みの綱として。
足元が急におぼつかなくなるあのときの感触は今でも覚えている。ふわふわとまるで雲の上を歩いているように足に力が入らなくなって、心までどこかへ飛んでいってしまいそうになる感じ。
あんな気持ちになったのは後にも先にもあのときだけだったけれど、琴子は今もその感触を味わっているような気がしていた。
ずっと正座をしていてすこし痺れを感じていた足も、ぎゅうと締め付けられた着物の帯も、今はその存在を忘れてしまいそうになる。
「琴子さま?」
大地の呼びかけに琴子は反応を示さなかった。自分のほうをまっすぐに向いているはずのくりくりとした大きな目に光がない。まるで(陳腐な表現だというのは自覚しているけれど)黒曜石のようなその瞳に自分の姿が映っていないことは大地にはとても悲しく感じられた。
そして、少し自嘲気味にふ、と息を吐いた。先ほど肺いっぱいに満たされた刺すように緊迫した空気は今はもう大地の周りにはなかった。
「やはり、僕のような年上の男のところにお嫁にくるのは、……おいやですよね」
悲しげな笑顔は、この人の雰囲気には似合う。そう琴子は思った。どこか作り物めいていてあまり現実味がない。それなのに、妙に似合ってしまっている。そう感じてからきっとこの人はいつも日ごろからこうして笑っているのだろうと思いついた。何かを我慢して、なにかを願って、それなのに何かを諦めながらこうして笑っているのかもしれない。わたしよりもずっとずっとたくさんのことを、この人は諦めてそれでも笑っているのかもしれない。
琴子はその瞳にいまだに光を映しはしなかったけれど、大地のことをまっすぐに見て、消え入るような声で言った。
「参ります。貴方の仰る通りに致します」
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