fool 's paradise





話しかける機会は、いくらでもあったと思う。運が良いのか悪いのか、3年間俺はあいつと同じクラスだった。
だから、体育祭でも文化祭でも修学旅行でも。そうでなくても「同じクラス」だというのを名目に、他のクラスに所属している奴らよりは機会は多かったに違いない。

それが出来なかったのには色々と理由がある。
まず、俺自身が周囲とは距離を取っていた。今から思えば笑い話だが、3年間誰とも口をきかないくらいの気持ちではいた。実際、自分以外の人間と関わり合いになることに対して俺はひどく億劫だったし、恐れを抱いてもいた。一度知った喪失感を、もう二度と味わいたくなかった。
海野にしても初めはそうだった。女友達と海野はよく一緒にいた。それくらいの印象だ。俺には関係がない人間だった。
けれども、嫌でも意識してしまう出来事が起こる。

入学したばかりの、5月の体育の授業の時。

あれは、一体なんだったんだろう。今でも何故ああなったのかと考える時がある。けれども、起きてしまったことは間違いなく事実だからどうしようもない。
ハードルを、どちらが持って行くかで引っ張り合った。あの時、あいつがどうしてあんなにも自分で持って行くと言い張ったのか、そして俺はそれを代わりに持って行こうとしたのか…よくわからない。
一瞬だった。海野は俺の力に負けて引っ張られ、ついで俺もそれにつられてバランスを崩して、それで。




「…志波くん?どうしたの?」
「…いや、何でも。うちの大学の図書館なんて、面白いか?」
「面白いよ。リハビリ関係の医学系とか心理学とか、そっちの方が充実してるんだなぁって。さすが体育大学だなって」
「へぇ…そんなもんか」

手にしていた本を棚に戻しながら、海野は不思議そうに俺を見ていた。古い本特有の、あの埃臭さが鼻につく。ここでも一流大学でも羽学でも、おおよそ図書館というのはどこでも似たようなもんだなと思った。大学に入ってからは、図書館なんてほとんど寄りつかないけれど。

「…なんか、あちこち連れまわしてごめんね?今更だけど」
「別に。俺も滅多に来ないところだからな、案内するついでに色々見れて面白い」
「それならいいけど。…次の授業はちゃんと待ってるから、私」
「…授業」

お茶飲む所も本を読める所もわかったから大丈夫だよ、と笑顔の海野に対して、俺は渋面になる。

「…めんどくさい。眠くなる」
「あ、ダメだよ?そんな事言ったら。…サボってまたヘンな課題出されたら大変だし」
「…はぁ」

恐らく次の授業は課題を出される心配はないが、どちらにしても勉強というのはいつになってもあまり好きにはなれない。
それに、俺が授業に出たくないのはそんな事だけじゃない、もちろん。
一秒でもお前と一緒にいたいから。そう言ったら、こいつはどんな顔するだろう。一瞬、そんな考えが浮かんだ。
…そう、言えたら。

「…あ!そうだ!ねぇ、次の授業、私も一緒に行ってもいい?」
「…はぁ?」
「だから、私も一緒に授業受けるの。そしたら志波くんが眠くなっても起こしてあげられるよ?…ダメかな?見つかっちゃう?」
「いや…」

それは、たぶん大丈夫だ。次の教室は大教室だし、生徒は色んな学科から受けに来てるから海野一人混じったところでどうということもない。だが、ここまで来てまだ勉強をするというのだから、頭のいいやつの考えることはよくわからない。

「勉強、好きなんだな」
「え?まぁ興味もあるけど、それよりも私が行くのは志波くんが寝ちゃわないように見張り役です。…ほら、行こう?私、教室はどこかわからないから」
「お、おい…」

俺の腕を引っ張る海野の手の小ささに、俺は動揺する。小さくて、やわらかなもの。感じたことのない感触。

確かに、授業中は俺は一睡もしなかった。眠気に襲われることすらなかった。
けれど、授業の内容なんてちっとも入ってこない。何だったか全く憶えていない。
並んで座ると、あいつはやっぱり俺より随分と小さいのだなと思った。部外者なのに好奇心いっぱいにきょろきょろして「あれは何?」とか「ここにいる人たちって皆スポーツ出来る人なんだよね?」とかいちいち聞いてきて、それは嬉しいけれども、周りにいつバレるかもしれないと別の意味で心臓に悪かった。
「志波くんって、よく寝てたよね」と、海野が小さい声で言う。講義中、こっそりと囁かれる言葉はくすぐったかった。

「高校の時、教室にいる時はいっつも寝てたなぁって、今、思い出した。大きい子供みたいって」
「…子供って」
「起きてたらちょっと怖かったけど、寝てたら怖くないんだって思ってた。…あ、怖いって思ったのは初めの方だけど」
「…そうか」

俺ばかりが見ていると思っていたけれど、海野は海野で俺を見ていた。…もちろん、それは俺がこいつを見ていたのとは全く意味が違う。そんな事はわかっている。
それでも、嬉しかった。こんな取るに足らない些細なことなのに。

もっと、話をすればよかったと後悔する。
けれど、今からでもそれは出来るんじゃないかと期待する。

今になって出会えたのは、その為だったんじゃないかとすら思えた。たぶん、出会わなければこのまま忘れていた気持ちだった。あの頃は動けなかったけれど、今は違う。授業が終わってからも、ずっとそのことを考えていた。
俺は、浮かれていた。海野が、俺に会いに来てくれて、高校の頃の話をして、…少しだけ、距離が縮まって。
それが独りよがりな思い違いと気付かされた時の失望感を、俺は嫌になるほど知っているはずなのに。

「あれ?電話だ…」

授業も終わり、とりあえず教室を移動していた途中、海野は足を止めて携帯電話を取り出す。ディスプレイ画面を取り出して確認してから、海野は明らかに顔つきを変えた。

「…どうした?」
「え?…あ、うん。友達から…」

一瞬呆けたようになって、それから、躊躇うように視線が落ちる。
それを見て、心臓がざわめく。…俺は、こういう海野を前にも見たことがある。

「出ないのか?」
「…ぅん。別に、でなくても。…でも、気になるから、やっぱり出た方がいいかな」
「俺は待ってるから、出ればいい」
「…うん」

いや、違う。「何度も」、見てきた。
「もしもし」と、海野が電話を耳元にあてて話す。内容まではわからないし、相手の事なんてもっとわからない。
けれど、予想はしていた。そして、そうでなければいいと祈っていた。そんな偶然があるわけがないとも思った。

海野は、通話している間、浮かない顔だった。少なくとも積極的に相手と会話しようという態度ではなかった。
相手の話に相槌を打ってばかりで、その間も、気乗りしない感じだった。気乗りしない、というよりは、どういう表情をしていいかわからないという戸惑いすら見えた。
それなのに。

「うん…うん。わかった、ありがとう。…赤城くん、忙しいのに。わざわざごめんね?」

(…どうして)

見たくないのに見えてしまう。気付きたくないのに、気付いてしまう。
「あかぎくん」と口に乗せた時、海野は微かに笑った。微笑むっていうのはたぶんああいう表情なんだと思う。
何よりも幸せそうな顔。だがそれは、些細な変化だ。それに、ただ笑うだけなら今日これまでもたくさん笑っていた。
俺は冷や水をかぶせられたような酷い気分だった。

今は違う?そんなおめでたい事、俺はどうして思えたんだ。





頭の中に、まざまざと雨の日の記憶がよみがえる。逃げ出したいような気持ちを堪えて、俺は手に力を込めて握りしめた。





――泣いたりして、ごめんね。

海野とちゃんと話をしたのはそれが最後だったかもしれない。

――連絡先も知らないのに…、本当にバカみたい。はずかしい。
――そんなことない。

咄嗟に、それだけを口にした。胸の中に苦いものがいっぱいに広がる。
俺は、安心したんだ。連絡先も知らないような淡い想いだったのかと。
…最低だ。

それが後ろめたくて、それ以上俺は動けなかった。あいつの涙は単に、雨の日に見かけたはば学の男を見て悲しい想いをしたからだろうけど、それは俺を非難しているようにも思えた。どうしていいかわからなくて、海野が泣いたことを誰にも言わないことが唯一俺に出来ることだと思った。元より、誰にも言うつもりなどなかった。

そしてそのまま、羽学を卒業した。





最近、海野に会うことがない。メールだけはしょっちゅうやり取りしていたが、それも途切れがちだ。忙しいらしい。
課題は着々と出来つつあった。優秀な指導があると不可能と思えたことも可能になるのは勉強も野球も変わらないらしい。俺のような鳥頭でも、それらしいレポートが出来つつあった。あとは最後をまとめて、誤字脱字なんかをチェックするだけだ。
レポートが出来あがるのは喜ばしいが、同時に寂しかった。これが出来あがってしまえば、たぶん海野と会うことはもうなくなるんだろう。元々付き合いがあったわけじゃない、氷上の仲介と偶然の再会がなければなかった話だ、これは。

終わったら、もう会えなくなる。

それは思った以上に辛かった。もう二度と会うことはないと思っていたのに再会したから余計にそう思うのかもしれない。
もう一度会っても、俺はやっぱりあいつが好きだった。だから、何も感じていないような、単なる羽学の同級生だという顔をして隣にいるのは苦しい。高校の3年間、単なるクラスメイトでいた時と同じように。
言ってしまえば楽になれるだろう。少なくとも伝えたいのに伝えられないジレンマからは解放される。時々思い出して、やっぱりああすれば良かった、こうすれば良かったと思い返すこともなくなるだろう。
だが、海野はどう思うだろうか。俺の想いが受け入れられるとは残念ながら思えない。そのせいで二の足を踏んでいるというのも、情けないが無くはない。
海野にとっては思いもよらない男から好きだと言われることになる。それは、自分の経験から言っても大いに戸惑う出来事に違いなかった。ロクに話もしたことのない奴から、「好きです、付き合って下さい」と言われても、どうしようもない。
他に、好きな人がいるなら、それは尚更。

思考を断ち切るように、携帯電話が着信を告げた。ディスプレイを見て、一瞬眉をひそめる。…海野だ。

「…もしもし?」

電話を耳にあてながら、ベッド脇の目覚まし時計で時間を確かめる。もう、日付も変わろうかという時刻だ。
こんな時間に、海野から電話がかかってきたことはない。メールでもだ。

『あ、しばくんだー!もしもーし!こんばんわー』

それは、明らかに普段とは様子が違った。声の調子が一段階高い…もしかしなくても酔っ払っているらしい。
こんな時間に、と思い、もしや誰かと間違えたのだろうかとも思った。けれども、海野は相手が俺だとわかってはいるらしいから、間違い電話というのは可能性が低い。

「ずいぶん機嫌良いな。…大分呑んだのか?」
『うん。今日は飲み会だったから…。しばくん、今どこー?』
「どこって自分の部屋だけど…お前こそ、どこからかけてるんだ?」
『あのねぇ、せっかくだから、しばくんも一緒に呑もうかと思ってねぇ、それで電話したんだけど…』

冗談だろ、と俺はため息をつく。いや、呑みに行くのが嫌なわけではない。けれどもこんな時間から、しかも海野にこれ以上呑ませることなんて出来ないだろう。
酔っ払いの言葉には返事をせずに、俺は気になることを尋ねた。

「おい、今どこにいるんだ?誰か近くにいるのか?家に帰ったのか?」
『いま?…ひとりだよ。だから、しばくんのことを、迎えに来たんでしょー?』
「迎えに…?って」

そこで閃いて、俺は慌てて電話を持ったまま部屋を飛び出す。普段は騒がしい寮内も、この時間になれば静かなものだ。真っ暗な廊下を駆け下りて、表玄関に出た。そのまま門のところまで走る。
…いた。
海野は俺を見ると、上機嫌で「おおーい!」と手を振った。足元は何となくふらふらしてるし、こんな状態でよくも一人で平気だったものだ。呆れるような腹立たしいようなそんな気持ちになりながらも、とりあえずは海野の傍に駆け寄った。

「あれぇ?そんな薄着で寒くないの?しばくん」
「そのまま出てきたからな。…お前、こんな時間に何やってんだ。誰も一緒じゃなかったのか」
「いっしょって?私のことなんて、誰もお持ち帰りしませんよーだ」
「違う、そう意味じゃなくて…」

ということは、そういう飲み会だったのだろうか。ちくりと、胸が痛む気がした。
だが、全く無いわけはないだろう。大学に行っていればそういう話は避けられないくらい山ほどある。現に俺だって何度か行った。…あんまり楽しいものじゃなかったが。
海野は終始にこにこと機嫌が良さそうだった。その飲み会とやらが余程楽しかったのだろうか。

「しばくんはね、いつも頑張ってるからごほーびに一緒にのもーと思ってね…」
「そりゃありがたいが、別の機会にしてくれ。…とにかく、家まで送ってくから」

ああ、でもそうするとさすがにこのままでは行けない。上着は部屋に置きっぱなしだった。取りに戻る間、こいつをどこで待たせておこうかと考えた時、海野は突然、俺の腕を掴んだ。

「…なんだ?どうした?」
「わたし、帰らない」
「はぁ?」
「かえりたくないの!別にへーきだよ。私、一人暮らしだから、誰か心配してるわけじゃないし」

ひっく、としゃっくりが一つ冷えた空気に響く。海野はほっぺたを膨らませて、子供みたいにしかめ面をしていた。
とんだ酔っ払いだと、俺は呆れたが、同時に困ってしまった。海野の下宿先も実家も知らない。住所を聞き出せば無理やりにでも送って行けるだろうが、この状態ではとても教えてくれそうにない。こいつを預けられそうな女友達も俺にはいない。
自分の実家、元春の家、…次々思い浮かべてみたがどこもダメだ。

…いや、いの一番に思い付いた場所がある。ただ、あまりにも問題がありすぎるために、思い付いた瞬間に却下した。
ありえない。
俺の部屋に、海野を上げるなんて。

「帰りたくないって…そういうわけにいかないだろ。実家でも一人暮らし先でもいいから教えろ。送ってくから」
「いーやー!ぜったいやだ!帰らないったら帰らないの!しばくん、私と一緒にのむの、やなの?私といるのがイヤだからそんな事言うの?」
「そうじゃない。でも、今日はもう駄目だ。俺だって明日練習あるし、お前だって学校あるだろ」
「ぶっぶー。明日は日曜日です。ガッコーは休みだもん。ねーねー、だからいいでしょ?このままヒトリで帰るのさびしーんだもん」
「いいわけあるか」

断じて良くはない。が、正直、揺れている自分もいる。
酔っ払っているとはいえ、本人がそう言うのだからいいんじゃないのか、でなければ、初めから俺のところに来たりしないんじゃないか。
上着も着ないで外に出てきたのに、ちっとも寒くない。頭がぐらぐらする。それにしても、何だってこいつはこんな酔っ払っているんだろう。
煮え切らない俺に海野は待てなくなったのか、ふと手を離した。諦めて帰る気になったのかもしれない。ほっとするような残念なような微妙な気持ちにだ。…いや、この場合はほっとしていいんだ。やっぱり、そんなのは間違ってる。

「…もう、いい」
「海野?」
「一緒にいてくれないなら、いい。…一人でいくから」
「おい、行くってどこへ行く気だよ?」
「どこでもいいでしょ。しばくんには関係ないもん」
「おい…待てって!」

さっさと歩いて行こうとするのを無理やり引き止める。腕を掴んで引き寄せるくらいは、造作も無い事だ。
酔っ払っているとはいえ、子供のようにわがままを言う海野に俺は半ば本気で苛立って、…けれども、その苛立ちも、彼女の顔を見て、水を掛けられたように消えうせた。軽く、息をのむ。

――泣いたりして、ごめんね。志波くんは、関係ないのに。

さっきまで、思い出していた光景がフラッシュバックする。

「…ぇりたく、ない」






どうしようもなく頼りない泣き声で、海野はそれだけ呟いた。