僕のいない風景、君がただ一人で立つ世界。
――ごめんね。
本当は、知らない方が良かったんだと思う。気が付かない方が良かったんだと思う。
――志波くん…ごめんね。
だけど、それでも無かった事にすることはできない。
何も出来やしないのにと、もう一人の俺が嘲笑う。
何も出来なくてもかまわないと、別の俺が目を閉じる。
痛みですら、俺は手放すことが出来ない。
「………」
俺の住んでいる学生寮の部屋は、日当たりが良い。目を開けると、光に満ちた世界に切り替わる。
枕元にある小さな置時計を掴んだ。一度ぼんやりと見つめ…それからもう一度しっかりと見た。
「…嘘だろ」
こんな時に。よりにもよって。
飛び起きて五分後、俺は寮を飛び出した。
「志波くん、遅刻です」
「…悪い」
憮然とした表情の海野が俺を見上げる。俺が悪いのは間違いないので、とにかく謝罪の言葉を口にする事しか出来なかった。
周りには、ちらほら学生の姿が見られる。当然だ。ここは一流大学内の図書館前だから。
「ひとつ確認ですが、このレポートは誰のレポートですか?志波くん」
「…俺の、です」
「今回、とっても大変な立場にあるのは、一体誰でしたっけ?」
「…それも、俺です」
「じゃあ、今回の遅刻は、ブ、ブーです」
「はい。すみません」
「……ねぇ、笑わないの?」
「いえ、俺が悪いです……は?笑う?」
「あれぇ?佐伯くん、爆笑だったのになぁ、おかしいなぁ…」
おかしいのはお前の言ってる事だぞと思ったが、それは口に出さないでおく。何だ?怒っていたんじゃないのか?
海野はちょっと困ったような顔になって自信なさげに「…あんまり、似てなかった?」と言った。
似てる?
「今の…若王子先生の真似だったんだけど。高校の頃ね、はるひちゃんたちとよくやってたんだ」
「…マネ」
「あ!やっぱり通じてなかったんだ!うぅ、なんか恥ずかしいなぁ、やらないほうがよかったかも」
「怒ってたんじゃなかったのか」
「どうして?遅れるって連絡くれたから平気だったよ?ここまで迷わず来れるかなぁって心配だったけど」
「いや、それは平気だっ…っく」
「あ、あー!今頃笑うなんてひどい!なんかそれはそれでひどい!」
「若王子先生の、マネって…!全然、わからなっ…」
「そんなに似てないかな?結構自信あったのに…」
「じ、自信…っ」
「もう!志波くん、笑いすぎなんだからね!そんな場合じゃないんだから!」
ほら、図書館行こ!と急かす海野の後ろで、俺はまだ笑いが抑えられなかった。
ついでに言えば、「ブ、ブーです」っていうのもちょっとかわいくて、待たせて悪いと思う半分口元が緩みそうになった。
本当にダメだ。海野の言うとおり、そんなどころじゃないのに。
「…ええっとね、大体必要な資料はこれくらい。…あ、こっちは私が持ってるものだから、返してくれるのはいつでもいいし」
「すごいな」
「でもね、これは割と浅く広くって感じだから…もうちょっと突っ込んだ内容のは図書館で探した方が早いと思って」
「…へぇ」
てきぱきと話を進めていく海野に、俺はただ頷くことしか出来ない。同じ高校に通っていて、同じように大学生のはずなのに、まるで違う世界だ。体育大学とでは専門は全く違うから比べようもないが、それにしたって俺の周りにこんなにも用意周到にレポートを作成している奴がいるだろうか。
「勉強、してんだな」
「そりゃあ…でも、私は志波くんみたいに野球出来ないよ?」
「そりゃそうだが。…凄いんだな、お前」
「うーん、まぁ慣れだよ。志波くんが毎日走ったりボールとったりして練習するのと同じ…ちょっと、違うかな?」
「まぁ、言おうとしてる事はわかる。…で、これ、全部読まないとダメか?」
とてもじゃないが、一か月どころか一年かけたって全部は読めそうにない。海野は「大丈夫!」と笑った。
それから不意に、俺の方に顔を近づける…いや、違った。俺の目の前に広げてある本のページを捲ろうとしただけだ。
「あのね、大事なぺージに付箋貼ってあるから、そこだけ目を通してね。それと、内容をまとめたノートを前に作ったから、それを見てくれれば大体内容は把握できると思うし…志波くん?聞いてる?」
「わかった。聞いてる。…ノート見ればいいんだな」
「時間があればきっちり読んでも面白いと思うけど。まぁそれはどっちでも。…わからない事があったら遠慮せずに連絡してね?」
「わかった」
流れとしては、俺がとりあえずレポートを書いてみて(「どんなことでもいいから!」と言われた)、それを海野に添削してもらい、指導を受けるという形を取ることになった。
そして、一か月後の締め切り一週間前に完成させるというのが、海野の計画だ。
それはつまり、一週間は、海野と会える期間が短くなるということでもある。
「…もし時間が取れなかったら、メールで添付してくれてもいいし。今日もわざわざここまで来てもらっちゃったし」
「いや、それはいい。俺が世話になってるわけだし、…なるべく、顔見て話したいから」
つい本音が出てしまったが、海野は特に気にも留めず、「なら、いいんだけど」と申し訳なさそうに眉を下げた。
「でも…忙しくない?志波くん、練習とか大変なんでしょ?」
「今はそれほどでもない。まぁ外せねぇ日もあるけど…」
「志波くん、学校でどんな練習してるの?ていうか、どんな風な生活なの?」
「どう、って言われてもな…」
自分の生活を思い浮かべてみたが、取り立てて説明するほどの事でもない。しかし、海野たちのような大学生活ともまた違うというのもわかる。
どこから説明すればいいだろう。興味津津な顔つきで俺の言葉を待つ海野の表情が、けれどもほんの一瞬視線が逸れたところから、変わってしまった。
「オッス。こんな所で会うの、珍しいな」
快活そうな、男の声。声だけで、俺の知っている奴ではない事はすぐにわかった。
振り返って姿を見てみれば、やっぱり知らない奴だ。そいつはいかにも優等生然とした感じで、海野に向かって笑いかけていた。
言葉通り、久しぶりに会った友達に対してといった風に。
「…赤城くんこそ、珍しいね。こっちの図書館、あんまり使わないでしょう?」
「そうだけど、次の授業がたまたま休講になっちゃって。時間があったからここに寄ったんだ。そしたら普段会わない君を見かけたから声かけたんだけど。もしかして邪魔したかな?」
その男―赤城は、俺の方を遠慮もなくじろじろと見る。じろじろと、というか、単に見方に遠慮がないだけともいえたが。
「…これは、色々事情があって。でも、それは赤城くんには関係ないし、邪魔といえば邪魔です。取り込み中だから」
「そっか。邪魔してごめん。じゃあ、僕はもう行くから」
海野の言葉は、さっきまでとは別人のように感情の見えない言い方だったが、赤城の方は顔色一つ変えずに俺の方にも軽く会釈してさっさと行ってしまった。あいつがいなくなってしまってから、海野は「ごめんね」と言って姿勢を正すように座りなおした。
「…あいつは?」
「赤城一雪くん。大学の友達で…赤城くんは、法学部だけどね。元々、はば学なんだけど…氷上くんは生徒会つながりで仲が良くて。それで、私も何となく知ってるの」
何となく。
それは嘘だと、俺は気付いた。高校の頃、俺は海野とそんなに話をしたわけじゃなかったけれど、こいつが嘘をつくのが物凄く下手な事だけは知っている。
俺は馬鹿なのに、そんな俺ですら誤魔化せないくらい嘘が下手なんだってことは、前から知っている。痛いくらいに。
「赤城一雪」という男を、俺は以前にも見たことがあった気がする。
いつかの雨の日、海野と偶然一緒になった。お互いに傘を持っていなくて、適当に雨宿りした。
その時、通りかかったのがあいつだったと思う。そういえば、はば学の制服を着ていた。
もちろん、赤城本人、あるいは海野に確かめたわけではないのでそれは予想の範囲を出ることはない。
けれども、どこかであの日のあいつに違いないと妙な自信もあった。
あの日、「赤城」は一人でなく女子生徒と一つの傘に入って歩いていた。その後、海野は雨が降る中、傘もないのに走って帰ってしまった。
俺に背を向ける直前に見えた顔は泣きだしそうな顔だったから、良く憶えている。
「志波。しーばーっ!おい起きろ!」
ぱかん、とノートか何かで頭をはたかれ、俺はのろのろと声のした方に顔を上げる。見上げれば、呆れたような同級生の顔だ。大学からの付き合いの。
「…何だ」
「何だ、じゃねーよ!お前はー!普段はそんなにぐだぐだしてるくせに、いざとなったら野球も出来てカノジョがいるとはどういう了見だ、コノヤロー」
「……なんだって?」
野球はともかくカノジョなんていないし、そんな話をしたこともない。ふざけているというのなら、真実味が全くないので笑えない。
よく意味を理解できていない俺に、友人は「ほれ、来てるぞ」と親指で教室の外を差した。出入り口あたりに目をやり…そして見開く。
「…海野!?」
「うわーウミノさんって言うんだー、いいなー!かっわいいなー!あれがカノジョじゃなくて何なんだ。30文字以内で説明しなさい」
「…高校時代の友達」
「うそつけー!裏切り者!カツミンの裏切り者!」
そんなはずはない。確かに今日は会う約束をしていたけれど、それは今じゃない。
いや、それより。ここは俺の大学のはずだ。会うのはいつも海野の大学の一流大学だったはず。
「…なぁ」
「何だよ」
「ここって…一流体育大学、だよな?」
「え、なに?とりあえずカノジョのいないオレに対して気遣いのボケとか?逆にかなしいんだけど?つか、はよ迎えにいけ、アホ」
「あっ、あぁ…。でも、授業」
はぃ?とまたもや馬鹿にされきった目で見下げられる。
「お前どーせ寝てんじゃん。いやオレもだけど。授業と、カノジョどっちっつったらカノジョだべ?代返しといてやるから行って来い。言っとくけど、お前がそうして堕眠をむさぼり、覚醒に時間がかかってる間に声かけられまくってるからね、カノジョ。おめーが行かないんならオレが行く」
「いや、俺が行く。それと、カノジョじゃない」
「いーいーかーら!早く行けっつの!カノジョであろうがなかろうが、女の子を待たせるんじゃありません!」
背中を押され、教室に入ってくる生徒の流れに逆らって、海野の元へ辿り着く。海野は俺を見ると、あからさまにほっとした表情になった。
「あ、志波くん。よかったぁ」
「お前、どうしてここに?…いや、話は後だ、行くぞ」
「えっでも、授業は?終わるまで待ってるよ?」
「代返頼んだ。…これは大丈夫だから」
「そ、そう…?」
一体大にも一応食堂というか、カフェテラスのようなコーナーがある。俺は滅多に使わないが(使っても寝るくらいだ)、とりあえず落ち着けそうな場所はそこしか思いつかないのでそこに向かう。
海野は、俺の向かいで売店で買ったホットミルクティーに息を吹きかけていた。
「えぇっと…突然来てびっくりした?」
「そりゃあな。何かあったか?」
「うぅん。今日ね、授業が休講になってね。で、今日はそれで終わりだったから、こっちに来てみたの」
「来てみたって…言ってくれりゃ、入口まで迎えに行ったのに」
「だって、それじゃあ志波くん、びっくりしないでしょ?」
「…あのな」
当然のようにしていう海野に、俺は少しだけため息をついた。それには気付かないまま、海野はきょろきょろと辺りを見回している。
「広いんだねー…。あと、男の子が多いの?私に道教えてくれる人、男の子ばっかりだった」
「いや、まぁ少しは多いだろうが…ほとんど変わらないと思うぞ」
その、道を教えてくれた奴らは真に善意の行動かどうかは怪しいもんだ。別に校風がそうなんだとかいうわけじゃない。こいつがあまりに無防備すぎるせいだ。無防備で、なんだかふわふわして危なっかしい、目が離せない。
昔からそうだった。
「ごめんね」
「え?」
「私がこんな時間に来たりしたから…志波くん、授業も受けられなかったし」
「…別に。どっちみち寝てるだけだからな」
「それは、ダメだよ?…でも、志波くんの通ってる大学ってどんなのかなーって思ったし、早く会えるなら会いたいなーと思って」
「……」
他意はないんだろうと思う。むしろ俺にというよりも大学への興味が強かったとも言える。
それでも、意識してしまう自分をバカだなと思った。そんな些細なことでも喜んでしまうなんて。
授業が始まってしまうと、周りの生徒の数も減って何となく静かになる。間延びしたように入り込む光が穏やかだった。
「…あのね、後でいいんだけど」
「何だ?」
「志波くんが練習してる場所、見てみたい。グラウンドなんだよね?」
「あぁ…。じゃ、後で行ってみるか」
「うん!えっとね、それと途中で見かけたので…」
課題の件が終わったら、大学のあちこちを案内することになりそうだ。…もちろん異論などない。むしろ喜んでしたいくらいだ。
「あ、そうだ。志波くん、お菓子食べる?」
「お菓子?…って、どんな」
「えへへ、志波くんの為に用意しました」
ぽんと、無造作にテーブルに出されたのは、よくコンビニなんかで見かけるチョコバーみたいなお菓子だった。
「…これ、そこの売店で買ったのか」
「あっ、なんか不満そう!お腹空いてるだろうなーと思って買ったのに!…ていうのは嘘で、今朝、佐伯くんにたまたま会ったらくれたの。いらないんだって」
「……はぁ」
「あのねぇ志波くん?手作りお菓子とかはカノジョさんに作ってもらってね?」
「いない」
「…え?」
呆けたような顔をして俺を見るので、もう一度、はっきりと俺は言ってやった。
「だから、彼女はいない」
「あ。…あ、そう」
「お前は?…付き合ってるやつとか、いるのか?」
「え、私?ううん、いないよ」
「そう、か」
思った以上に安堵する。ほんの一瞬、佐伯や、先日会った赤城の顔が浮かんだから。
「ふぅん…。いないんだ、カノジョ」
「いると思ったのか?」
「うん。てっきり野球部マネみたいな感じの子がカノジョでいるんだって。こう、将来のお嫁さん的な感じで」
「はぁ?何だそれ?」
「だって!志波くんってそういうイメージなんだもん」
「どんなイメージだ」
「だから、一人の女の子を好きになったら、ずっと大切にするんだろうなって」
「……それは」
何て返事をしていいかわからなくて、口ごもった。それにしても、鈍いんだか鋭いんだかわからない奴だ。
好きになったら、大切にする。それはそうだろう。別に俺でなくても、誰だってそういうものだろう。
大切に、したい。けれども、近づくことも出来ない時は一体どうしたらよかったんだ。
拒絶されたらと思うと怖くて触れられもしない時は、どうしたらよかったんだろう。
例え傍にいれたって、一度だって俺の方を振り返ることはないのに。
「俺が、想うだけじゃダメだけどな」
「え…」
思わず、本音を漏らしていた。
「俺が想っていても、相手が気付かなきゃ意味が無い」
本当は知っている、動けないでいる想いの行く先なんて。
それなのに、まだ諦められないでいる。それどころか想いは益々強くなる。
行き場所なんてないのに、まだ足掻くことを諦められない。
お前のことが俺は今でもまだ好きなんだという言葉は、何とか言わずに胸にしまい込んだ。
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