もう、二度と会うことはないと思っていた。
――「私、ずっと応援してるよ」
何てことはない、励ましの言葉。あいつは言葉を軽くは扱わない。けれども、そこに必要以上の意味も込めない。
「応援してる」といえば「応援してる」だけだ。顔色一つ変えず、微笑みすら浮かべてあいつは俺にそう言った。
ただそれだけの言葉に、俺がどれだけ支えられて、そして縛られていたかなんて、あいつはきっと知らないし、知る必要もない。
羽学での3年間は俺にとっては意味のある3年間で、充実した高校生活だと言えた。もう一度野球を始めることも出来たし、新しい友人や仲間も増えた。
卒業式の日、式が終わってから俺はあいつを探していた。けれども、とうとう見つけることは出来なかった。
どんなことも、始まりと終わりがあるのだと思っていた。けれど結局のところ、俺の想いは目的地を見失ったまま深く深く沈み込む。深く、誰の目にも触れることなく。
失恋じゃない。失ってはいないのだから。けれど、だからといって何かを得たわけでもない。時々思い出せば苦しくなるけれど、いつかはそれも無くなるだろうと思っていた。どんなに強い怒りも哀しみも、時が経てば薄れるのと同じように。
もう、二度と会うことはない。そう、思っていたのに。
「栄養学のレポート。中々に興味深いけれど、ね」
「…お前はそうだろうな」
氷上に会ったのは久しぶりだ。たぶん卒業以来。俺の知り合いの中で一番勉強が出来る奴だ。
だが、特別仲が良いというわけではない。今回こうして会ったのには訳があった。
それにしても、と辺りを見回す。それにしても、一流大学はさすがに自分の大学とは雰囲気が違う。けれども予想していたよりはずっと自由そうで明るかった。勉強ばかりの、堅苦しいイメージを持っていたが。
「それにしても…。ううむ、僕も専門外だから何とも言えないが…これは、中々に大変そうだな」
「だとしたら、ますます俺には無理だな」
「しかし、これを提出しないと単位取得は認めない、と?」
「あぁ。そう言っていたな」
そもそも、栄養学の担当講師は野球部に対してあまり良い感情を持ってはいないらしい(それが何故かなのは俺だってわからない)。けれども、もう既に授業は登録してしまったし、更に不幸な事に、今年からその授業は必修科目の一つになった。
おまけにその栄養学の授業というのが週初めの一限目にあり、そうすると週末に試合や練習が多い俺はどうしても遅刻や欠席が増えることになった。それは確かに俺が悪いと自省はある。
気に入らない野球部所属で、しかも推薦で入学してきたとあっては悪目立ちも仕方が無かったのかもしれない。俺はその講師の「温情」により、この「特別課題」をきちんと提出すれば単位を認めようという話になった。
逆に言えば、提出出来なければ進級はさせないという話だ。これには部の監督も納得いかないと言って大分話をしてくれたようだが、「学生の本分は勉強である」という意見にはとうとう勝てなかった。
自慢じゃないが、勉強なんてまともにしたことはない。故に、こうして氷上を頼ることになった。(こう言ったらなんだが、元春や針谷では何も解決出来そうになかった。それくらい難しいという意味だ)
「しかし…まぁ誤魔化しても仕方ないか。はっきり言おう、志波くん。これを君一人で何とかするのは無理だな」
「…だろうな」
「いや、気を悪くしないでくれたまえ。僕もあまり適当な事は言えないが、この課題をきっちりこなそうと思うと、まず資料集めも必要だし…ちょっとした論文並みだぞ。そんな作業を、野球の練習もある君には時間的にも難しいんじゃないかな。…僕でもちょっとこの期限までに出来るか自信がない」
何てことだ。羽学一の秀才だった氷上ですら難しいのに、俺に出来るわけがない。
いや、それは初めから薄々気付いていた。出来もしない課題を、ここぞとばかりに押しつけられたってだけだ、これは。
俺自身ですら半ば諦めかけている話を、それでも氷上は真剣な表情で考えていてくれた。
持つべきものは友だ。それがわかっただけでも、いいのかもしれない。
「…急に悪かったな。まぁ、無理なら来年この授業だけ取りなおせば」
「…いや!ちょっと待ってくれ!もしかしたら…」
話を終わろうとする俺を遮るように、氷上は声を上げた。何か閃いたらしい。
そして、その一瞬後に。
「……あれ?氷上くんと…もしかして」
瞬間、沈み込んでいた記憶が浮かび上がる。ずっとずっと見ないように遠くに追いやって、忘れようとしていたもの。
すぐには、振り向けなかった。信じられないという気持ちもあった。何より、感情に、体が追いつかない。
「…あぁ!やっぱり!志波くんだ、久しぶりだね!」
もう二度と聞くことはないと思っていた声が、鼓膜を震わせて体に入ってくる。
もう二度と会うことはない、そう思っていた。
けれど、もしももう一度会えたら。そうも思っていた。夢でもいい、もう一度会えたら。
これは夢じゃない。
高校の頃と変わらない笑顔のあいつは現実で、けれども俺はただ茫然と見つめることしかできなかった。
「…それ、ひどいね」
俺が抱えている問題について氷上が簡潔に説明したところ、対するあいつの初めの言葉がそれだった。そこには単純に俺に対する同情と、無理難題をふっかけた講師に対しての怒りが含まれている。
普段は滅多に皺なんて出来ないだろう眉間(もちろん実際は知らないので予想でしかない)に軽く皺を寄せて、不快を隠そうともしていなかった。
「だって、志波くんは練習だってあるでしょう?それなのに、一か月くらいの期間でこの量って、おかしいと思う」
「それは尤もな反応だし僕も同意見だけれども、事は一刻を争うようだよ。納得がいかないからといって無視するわけにもいかないし、そうすればその先生の思惑通りになってしまう」
「そんな…先生がそんな事…。こんなの、酷い。きっと資料集めだって大変だし…どうしろっていうんだろう」
「うん、そこで。僕に提案があるんだが」
向かい合って座る俺と氷上の間に、あいつも椅子を持ってきてちょこんと座っている。髪は、高校の時よりは少し伸びたのかもしれない。私服姿なんて見たことがなかったから新鮮だった。
申し訳ないが、氷上の話など上の空だった。まさかじろじろと見るわけにはいかないから視線は外しているが、それでも全身の神経がそちらに集中しているのがわかる。ずっと望んでいたはずなのに、素直に喜んでいいものか迷う。何となく、居心地が悪い。
髪が少し長く、羽学の制服でない分、時間の流れを感じさせた。そしてその違いが、より一層あの頃の想いを思い出させる気がした。より強く、甘く。
いつも友達に囲まれていた。でも時々ぽつんと一人になって、そうすると決まって窓の外を眺めていた。…雨の日は、特に。
「…というわけだが、志波くんはどう思う?」
「…は?何だ?」
「なんだ?自分の事なのに聞いていなかったのかい?」
「…すまん」
意識を現実に引き戻す。氷上は言うまでも無く、あいつも少し呆れたような、困ったような顔をしていた。
そうだ、これは俺の問題だった。
「悪い。…もう一度説明してもらっていいか?」
「ああ、いいぞ。…ここにいる海野くんが、以前、君の課題と似たような事を調べていたのを思い出してね。それで、手が空いていたら彼女に応援を頼めばいいんじゃないかと思うんだ」
「…うみの、が」
氷上の話を受けて、海野は「私も専門てわけじゃないよ」と前置きする。
「だけど、この間まで同じような事を授業でやってて…資料とかもその時のがあるし。もちろん志波くんのレポートだから、私が代わりに書くわけにはいかないけど、お手伝いは出来るんじゃないかなって話」
「…それは」
願ったり叶ったりというか、有り難い話ではある。「手伝ってもらう」という実感がいまいち感じられない状態ではあるが。
さっき再会したばかりで、いきなりそんな展開になるなんて考えてもみなかった。
「一人では無理かもしれないけど、二人で頑張ればきっと出来ると思う」
「彼女が手伝ってくれるなら、きっと大丈夫だ!彼女のレポートは本当に素晴らしくて、皆手放しに誉めるからね」
「氷上くん、それは誉めすぎだよ。私のレポートなんてホントに読んだ事ある?」
「僕はないけれど、赤城くんが褒めていたよ。以前君と同じ授業を取っていた時に、凄く勉強しているって」
「……そんな、法学部の人に言われても。あれ、法律系の講義だったのに」
それに、今は私の事よりも志波くんの事だよ、と、海野は俺の方を見た。
まっすぐに俺を見る目が、どうしようもなく昔の面影と重なる。何て言えば一番ぴったりくるんだろう。こいつにじっと見られるとどうしてか苦しくなる。単純に嬉しいのとは違う。そういう感情を何て言えばいいのだろう。
名前の付けようがなくて、扱いかねる感情。だから、遠くに追いやっていた。
「…勝手に話を進めちゃったけど、決めるのは志波くんだから。あの…迷惑だったら、断ってくれていいし」
「それはない」
それだけは即座に返した。迷惑だなんてそんな事、あるわけがない。
「よろしく頼む」と言えば、海野は「じゃあ決まりだね」と笑った。
この後授業があるという氷上を海野と見送り(もちろん、時間を割いてくれた礼は忘れなかった)、もう一度、椅子に座り直す。
「えっと、志波くんはこの後時間大丈夫?」
「…いや。練習、あるからな。もう少ししたら俺も行かないと」
出来れば練習もぶっちぎってこの場に残りたいくらいの気持ちだったが、さすがに思いとどまった。善意でレポートの手伝いを引き受けてくれた海野に対して、それは筋違いだと思ったからだ。
「じゃあ、とりあえず連絡先を言っておかなきゃ…確か、知らなかったよね?」
「…ああ」
「あれ?赤外線ってどうするんだっけ?…この間はるひちゃんに教えてもらったんだけどな…志波くん、わかる?」
「俺もよくわからねぇ」
こういうのは元春が詳しいんだが(元春に言わせれば俺は世間一般的にもあまり使える方とは言えないらしい)、この場にはいないので仕方ない。
海野もあまりこの手の物は得意ではないらしい。こちゃこちゃと携帯電話を弄った挙句、「んー、やっぱりわからないなぁ」と言って、俺に手を差し出した。
「ちょっと、貸してもらってもいい?」
「…どうするんだ?」
「志波くんのアドレスを教えてもらって…私がメールを送信すればいいんだよね」
「ああ、なるほど」
当然、俺の手から携帯電話だけを持って行くと思ったのに、海野は俺の手ごと掴んで開かれた携帯電話の画面を熱心に見ている。
声を出さなかった俺は、褒められてもいいと思う。
「…あ、ごめんね。この方が早いと思って。…よし、送信完了っと」
「…(早いって、何がどう違うんだ)」
「じゃあ、都合の良い日とかまた教えてね。…私、がんばるから」
携帯電話の操作を終えて、俺の手を離した海野は満足そうに笑った。
「私、個人的にも腹が立ってるの。無茶な事言ってくる先生を絶対見返してやらなきゃ。…だから、二人で頑張ろうね!」
「…ああ」
今日から約一ヶ月間、俺と海野は「二人で」レポートを作成することになった。思いもよらなかった展開に(そして海野の妙なやる気に)、俺はただ頷く事しか出来ない。
何もかもが唐突で、考える暇も与えない。躊躇う間もなく、動き始めた。
ただ消えるのを待っていた気持ちも、全て。
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