ベイビィピンク・レイディ
休日、志波は珍しくいつまでもベッドにいた。もう時間は午後に切り替わっている。普段ならさっさと起きて、ジョギングにでも行くはずなのに。
隣で眠っていたはずのあかりは、もう起きているらしい。ついさっきまで一緒に微睡んでいたような気がするのに。ほんの少し、裏切られたような気分になる。
頭が、体が、瞼が重い。いつまでも眠気が晴れない。霧のように密やかに、緩やかにまとわりつく。
気怠い。起きなければいけない理由がないから、余計に。
(…あいつ、どこ行ったんだ)
あかりの姿が見えない。見たい、見ないと安心出来ない。…それらの理由で、何とか志波はベッドから離れる事ができた。
どのみち、彼女のいないベッドに独り寝ていてもつまらない。
裸足で、フローリングの廊下を歩く。廊下、といっても大した距離はない。廊下同様、大した規模でない部屋を繋いでいるだけのものだ。
それでも、今の季節素足にはひんやりと冷たかった。自分の家なのに、拒まれるように冷たい。家そのものが家主の存在を頑なに拒絶しているように思えて、志波は足元から伝わる冷気に僅かに顔を顰めた。
リビングへのドアを開ける。中に入るとあたたかな空気で満たされて、体の緊張が解けた。…随分、暖房を効かせているらしい。蛍光灯の白い光がやけに眩しかった。
窓の外を見る。どんよりと厚い雲が空を覆って薄暗い。…天気はあまり良くないようだ。
部屋の中央、床に敷いてある絨毯の上にぺたりと座りこむ背中が見える。寒い日に、暖房を思い切りつけて彼女は薄い恰好をしていた。彼女の癖らしい。
「お母さんにもよく怒られるんだけど」と言っていたのを思い出し、志波は声を立てずに苦笑した。
こちらに気付きもしないあかりの背中に近付き、上から覗き込むように彼女を見る。
「…おはよう」
「ぅわぁっ!…びっくりした。おはよう、…って、もうお昼ですよ?」
「お前だって、さっきまで寝てたろ」
「私は12時になるまえにちゃんと起きたもんね」
いたずらっぽく笑うあかりを見て、志波も笑う。どういうわけかほっとして、それが自分でもおかしかった。…たかだか数時間離れただけだというのに。
薄いニットを伸ばしたような彼女の部屋着は、せいぜい膝丈あたりまでしかない。そこから伸びる細い脚はひどく寒々しくてまるで子供みたいに頼りなかった。
こんな脚で普段歩いたり走ったり、自分と同じように生活しているのだと思うと、志波は時々不思議で仕方ない。
何度触れてみても、その疑問だけはいつまでも残る。
「お腹空いた?何か作ろうか」
「ああ…けど、お前何かしてたんじゃないか?」
「え?…ああ、ペディキュア塗ってたの」
「…何だそれ?」
聞きなれない名前に志波が問うと、「これ」と、あかりはぷらりと片足を上げて見せた。ベージュ色のニットから、白い膝がむき出しになる。
そんな事にあかりはちっとも頓着せずに、ぷらぷらと足先を揺らした。
「ほら、結構上手く塗れたでしょ?爪」
「つめ?」
言われて足の爪を見れば、確かに色が付いていた。小さな足指についたそれらは、それぞれこじんまりと、けれども濡れたように艶めいている。
「志波くん、起きてこなくてヒマだったから。今から左足ってトコだったの」
「そうか」
「でも、別に後でも出来るし…だから」
「なぁ」
それは、本当に単なる思い付きだった。
立ち上がろうとするあかりを、志波はやんわりと押し留めた。
「…それ、俺がやってみてもいいか?」
「え?志波くんが?…いいけど」
「俺が、塗ってやるよ」
もう一度、ゆっくりと主張してみる。やってみたいと一度思ってしまったら、何としても塗ってやりたくなった。
あかりは志波が引かない事を察したのか、「じゃあ、お願いしよっかな」と軽い返事をした。
「後は、上から最後の塗るだけだし…塗り方、教えてあげるね」
「ああ」
渡されたのは、インク瓶みたいな小さな瓶だ。女子がいかにも好みそうな可愛らしい色の蓋が付いていて、瓶の形も可愛らしい。
中にはオレンジのようなピンクのような色をした液体が、とろりと入っていた。あかりの右足の爪に付いていたのと同じ色。
「でね、蓋を開けて、で、蓋のところに筆が付いてるから…」
「さすがの俺もそれくらいは知ってるぞ」
蓋をくるくると回して開ける。瓶からそっと外すと、同時につんとした匂いが鼻をついた。
たっぷりと筆先に付いたそれを瓶の端で少し落とす(それくらいの知識は志波もあった)。無防備に投げ出されたあかりの左足を掴んで持ち上げた。
「ぅひゃ!」
「っ、何だ?」
「あ、あんまり足の裏触っちゃ、ヤダ。…くすぐったい」
「くすぐったい?…この辺か?」
踵の丸い、少し赤くなった部分を撫でると、あかりは身を捩ってまた声を上げる。
「やだってば!ホントにくすぐったい!」
「動くなよ。…塗れないだろ」
「だって、志波くんがぁ」
「わかった。もう触らない」
今はな、というのは心の中だけで呟く。怒られた場所はなるべく触れないようにして、注意深く足を持つ。
暴れられて、蓋の開いたネイルの瓶が傾いたりでもしたら事だ。
「で、どうすりゃいい?」
「…あ。えっとね、まず先の方から塗っていって、それから…」
あかりの指示通り、志波はあかりの爪に色を乗せていく。こんな小さな面積を塗っていくだけだというのにきちんと手順が存在するらしい。
女というのはつくづく面倒な事を考え出す生き物だなと、志波はぎこちない動きで筆を動かしながら思った。
あかりの足は自分のに比べ当然ながら小さく、細かった。白くて、でも爪先と踵がほんのり赤い。薄赤い踵から足首までの曲線が、何故かひどく艶めかしかった。…こんな細々した作業を放り出して齧り付きたいくらいには。
ちらりと、あかりの顔を見る。あかりは志波の手元をじっと見ているようだった。そういえば、こんな角度からこいつの顔を見るのも珍しいかもしれない。そう考えて、けれども一瞬後に志波はそれを否定する。
そうでもない。実のところ、こいつの顔を見上げる機会というのは割とある。
「…なんか、変な感じがする」
「何が?」
「志波くんに、爪、塗ってもらうなんて。女王さまみたい」
「女王さま?」
女王さま、といったあかりの声の響きがあまりに無邪気なので、志波はつい笑ってしまった。いつだったか「姫と呼んで」と言われたのを思い出したせいでもある。
(姫の次は、女王か)
のびのびのニットの寒々しいワンピースを着て、暖房を強くかけて、裸足でいて、足の爪を塗って。
きっと、世界で一番愛くるしい女王だ。
「…じゃあ、その女王は気の毒だな」
「どうして?」
「従者が一人しかいねぇじゃねぇか」
それも、時折言う事を聞かない始末の悪い男だ。女王を愛するあまりに無体を働く、愛に強欲な哀れな従者。
「いいの」
女王は満足気にわらう。
「だって、その一人だけがいてくれればそれでいいんだもの」
「…なるほど」
小指の先まで塗り終わって、改めてあかりの足先を見る。あかりは、志波の手からそっと足を離してゆらゆらと揺らしてみせた。
とろりとしたオレンジ色が、ちらちらと光って、誘う。
テレビも付けていない休日の昼下がりの室内は静かだった。暖房機から吐き出される風の音だけが聞こえて、それが余計に静けさを引き立てる。
志波は、もう一度あかりの足を手に取った。恭しく手にしたそれに、そっと口唇と付ける。…許しを乞う従者のように。
「だめ」
くすくすと、あかりは笑う。
そのままくるぶしにまで口唇を這わせると、「だから、だめだってば」と笑みを含んだ声が止める。
「お腹すいちゃったから、ごはん食べなきゃ」
「…後でいい」
「だめ。…言う事聞いて?…それに」
伸ばしていた足を折り、あかりは志波に体全部ですり寄った。二人の間に距離はほとんど無くなって、息が触れる程近くなる。
「…キスはこっちにしてくれなきゃ、イヤです」
世界でただ一人、志波に愛と忠誠を誓わせる小さな女王は、嫣然と微笑んだ。
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二人きりの女王と従者の話。
そして、誕生日とはかけらも関係なかったという…。とりあえず季節は11月ってことでと、無理くりでした。
「志波勝己誕生祭09投稿作品 お題:つまらない事なんてなくなってしまうね」
by aika