透明なしずく





(…少し遅くなったな)


野球部の練習後、普段ならそのまま部室から帰宅するのだが、ふと、出されていた課題のプリントをそのまま教室に忘れていたことに気づいた。普段ならそのまま無視して帰るのだが、その課題を出した教師が忘れるとうるさかった事を思い出し、心で舌打ちしつつ戻ってきたのだ。廊下も教室も、見渡したところで残っている生徒はほとんどいない。自分もさっさと帰ろうと元々急ぎ気味だった歩調を更に速めた。
志波が在籍するクラスの教室に行くには、若王子が担任の、つまりは海野あかりが在籍するクラスの教室の前を横切ることになる。きっと誰もいないのはわかっているが、志波はいつもの癖で教室の方に目を向けた。そうやって彼女の姿を探そうとする事は、今では習慣だった。

彼女に特別な感情を抱いているのだと気付いたその時から、それはずっと続いている。

見つけられなければ単純にがっかりするし、見つけられれば嬉しくなり声をかけようかと思う。楽しそうであるならば自分も一緒に笑いたいと思うし、元気がなさそうならどうしたのかと心配で、助けてやりたいと思う。
クラスメイトと話しているところなら、自分は何故彼女とクラスが違うのかと歯痒い気持ちになる。


それが、「彼」と一緒にいる時ならば、特に。


そこまで考えて、何て無意味な嫉妬だ、と志波は自分に呆れた。同じクラスであろうがなかろうが関係の無いことだ。元より自分は動くつもりがないのだからこんな無駄なことはない。
あかりとの関係は、何もただ遠くから眺めて恋い焦がれるようなものではない。挨拶だってするし、くだらない話をして笑い合うこともある。きちんとした「友人関係」を築いている。
けれども、それこそが全ての元凶である気もした。彼女は「彼」の事を自分に相談する。「こんな事聞けるの、志波くんだけだよ」と、彼女はいつも言う。ありがとう、話を聞いてくれて。私、志波くんが友達で本当によかった、と。


(友達で)


この現状に、満足しているわけではなかった。けれども彼女の、自分の全部を信頼している笑顔を見ると、秘めた想いを伝えることもできなかった。その信頼を「友人」として裏切りたくないと思ったし、「彼」の話をする時の甘やかな幸福そうな表情を、自分が強引に気持ちを押しつけることで歪ませたくもなかった。
たとえ「友人」でもかまわないのだ。彼女が自分にくれたものは何も恋愛感情だけではない。止めていた時間を動かすきっかけをくれた。前に進む勇気をくれた。それだけで、自分が満足すればいい話だ。どんなに言い訳じみた感情であったとしても。
そう言い聞かせていなければ、辛すぎておかしくなりそうだ。


(……大体、こんな気持ちで同じクラスだったりしたら身が持たない)


それとも、また違う気持ちになれただろうか、などと考えながら彼女のクラスの教室前を通り過ぎたその時。


そこから、何か聞こえたような気がした。


誰も居ないだろうという予想を裏切られ、思わず足を止める。気のせいだったかと耳を澄ましていると、それは、もう一度聞こえた。それを聞いて、志波は完全に教室の方を向く。忘れ物のことなんて、とっくに忘れていた。
ぴったり閉じられている教室の引き戸を、静かに、けれど迷いなく志波は開ける。戸は難なく開き、志波は中に入った。後ろ手に戸を閉めることも忘れずに。
目の前には、教室の中のある一席にぽつりと座る小さい背中が見える。
肩までの髪、あぁやっぱり、間違えるわけがない。


「…海野」


声をかけると、びくり、と丸まった背中が動いた。しばらく間をおいて、彼女は振り返る。


「…し、志波くん。どうして」


ここにいるの、と言った彼女の目は予想通り真っ赤だった。聞こえてきたのが嗚咽だったから、泣いているだろうとは思っていたが、それでもいざこうして目の当たりにすると思った以上に動揺する。
そんな戸惑いを必死に隠しながら、お前こそどうした、と志波は尋ねた。心持ち声が低くなっているのが自分でもわかる。

その時感じた気持ちを、どう表現すればいいだろう。言葉ではうまく言えない。ただの怒りではない、ただの哀しみではないもの。黒い風か、炎のようなものが体中を駆け巡るような。


「あ、の…。ちょ、ちょっと私も色々あって、遅くなっちゃって…」


へへへ、といつものように彼女は笑ったが、志波にしてみればそれは泣いている風にしか見えなかった。


「何があった?」
「……へ?」
「何があって、そんなに泣いてるんだ?」


何があったかなんて、本当は聞かなくてもわかりきっていた。わかってしまう自分が嫌だった。いっそわからない方がいいくらいだった。
そうすれば、ただ、彼女の身を案じるだけで済むのに。
知らずのうちに、握り締めた拳に力が籠もる。


(………どうして)


どうして、アイツの為に泣くんだ。
どうして、アイツが好きなんだ。
どうして、俺じゃないんだ。


(俺だったら、お前を泣かせたりしない)


絶対にそんな顔、させやしないのに。


あかりに近づいて、椅子に座る彼女の横にしゃがみ込む。濡れた彼女の瞳に自分が映っていた。今だけは自分だけを見てくれている、と馬鹿な考えが頭を掠める。


「しば、く…」
「我慢しなくていい」


彼女の肩までの髪をゆっくりと撫でる。それから目の端に残る涙を指で拭ってやった。普段は必要以上に彼女に触れることをためらう志波だが、今だけは、何の迷いもためらいもなかった。


「俺は、ここにいるから。我慢しなくていい」
「………っく」


大きな目にみるみる涙があふれて零れおちる。ぽろぽろと彼女の頬を流れるそれは、けれど何てきれいなんだろうと志波は思った。きれいで、かなしくて、愛おしい。
一旦、流れ始めるとその勢いは止まらないらしく、彼女は小さな子どものように泣きじゃくる。その間、ずっと彼女の髪を撫でてやり、流れてくる涙を掬った。
抱きしめてしまいたい衝動だけは、必死で押さえながら。


「…ふぇっ……っく、…ごめ、んね…っ」
「謝ることなんかない」


(きっと、アイツは、お前の泣き顔なんて知らないだろう)


奇妙な優越感が、志波の心を満たす。外はすっかり暗くなり、群青色の夕闇がせまっていたけれど、そんなことはどうでも良かった。ずっとこのままならいい、とさえ思う。


ずっとこのまま、ここにいればいい。


「…いいんだ。泣けばいいさ、俺の前では」


幸せな、甘やかな笑顔は俺のものにはならないだろうけど。


(せめて、この涙だけは)





これだけは、せめて俺だけのものに。