夏の通り雨
スーパーの自動ドアを出ると、外は暗く、激しい勢いの雨がアスファルトを叩いている。むせかえるような湿気と油混じりのアスファルトの独特な匂いが顔にまとわりつくようで、志波は思わず顔を顰めた。
母親に頼まれ、醤油一本買いに来ただけだったので、いちいち空模様まで見ていなかった。周りを見れば、何人かは自分のように傘を持っておらず手持無沙汰な感じで空を見上げている。
自分も待つべきか、それとも走って帰るべきか、降り続ける雨を見ながら考えていると、ふと、隣の女の人が耳にあてている携帯電話が目に入った。
(あれ……)
かわいらしい薄水色のそれを見て、志波は一人の女の子を思い出す。新しく換えたんだと嬉しそうに笑って見せてくれた、あの子。ただそれだけでも自分を嬉しくさせる女の子。
思考が飛んでしばらくそれを眺めていると、その女性は携帯をたたんでくるりとこちらを振り返った。思わず目が合ってしまい、けれどどうしていいかわからず、とりあえず志波は軽く会釈だけ返す。
女性は特に志波を不審がることもなく、にっこりと笑った。雰囲気からしてきっと主婦なんだろうが、自分の母親よりは随分若い気がする。彼女はひたすら気不味い志波にかまうことなく「ひどい雨ね」と話しかけてきた。
「でも、すぐに止むと思うわ。きっと通り雨ね……あなたはもしかしておつかい?」
「はぁ……まぁ」
「エラいのねぇ、男の子って、そういうの頼んでも嫌がりそうなのに。あなたは違うのね」
「そんな、大したことじゃ……」
言葉に詰まり、淀みなく話す彼女の足元を何となく見ると、そこにはかなり重そうな買い物袋が三つ程ずっしりと置かれている。まさか、この人一人でこれを持って帰る気なんだろうかと、思わず荷物を凝視してると、その視線に気が付いたのか「大丈夫よ」と女性は笑った。
「さっき迎えに来てもらうように電話したから。…と言ってもうちの場合は娘ですけど」
「……大丈夫、ですか?」
いくら娘が迎えに来ても大して役に立たないんじゃないだろうか。大体、この人の娘だなんて、どう高く見積もっても中学生くらいだろう。
自分は醤油一本しか持っていないのだし、もうどうせ遅くなっているから帰って小言を言われるのは同じことだ。自分なら、軽々、とはいかないけれど、まぁ持てなくはない。その、後から来る娘とやらよりは使えるだろう。
志波の少ない言葉から、けれど彼女はその意図に気付いて「まぁそんなの悪いわ!」と慌てたように手を振った。
雨は、未だ降り続いている。
「大丈夫。おばさんこう見えても結構力持ちなの。それに娘も来るし…、あら、そういえばあなたは学生さん?」
「…高校生です」
「あら、じゃあうちの娘と同じくらいなのね」
あっさりと返ってきた答えに、志波はぎょっとなる。同じくらい?ということは、この目の前にいる女の人の娘というのは自分と同じ高校生なのか。
信じられない…と志波は色々な意味でショックを受けた。自分の母親だって、別に特別老けこんでいるわけじゃないしむしろ若い方だと思うのだが、この人に比べれば大分落ち着いていると思う。
世の中にはこんな危なっかしい母親がいるのかと、志波はしみじみ思った。危なっかしい。さっきから感じていたが、この人の持つ雰囲気はまさしくそれだ。何故かわからないが、思わず手を差し出したくなるものなのだ、自分はそれほどお節介な性格をしているわけでもないのに。
(…あれ)
そういえば、そんなヤツ、俺はもう一人知っているんじゃないか。
「いいわねぇ、男の子って頼りになるものねぇ。あなたのお母さまが羨ましいわ。あなたはどちらの学校?」
「あ…羽ヶ崎学園、です」
学校名を口にした途端、女性は目を輝かせた。
「まぁ本当!?じゃあうちの娘と同じ学校ね!すごい偶然だわ〜!!」
確かにすごい偶然ではある。自分の娘と同じ学校であるという事が嬉しかったのか、彼女は年に似合わない(とは失礼かもしれないが)眩しい笑顔を志波に向ける。
「あなたみたいな子が通っている学校ならきっと素敵な学校なのね、良かったわ〜」
「は、はぁ……」
「……あ、じゃあ、あなた知ってるかしら?野球部の志波くんって」
(…………え)
今、この人何て言った?
思わず固まってしまって何も言えない志波には気付かず、彼女は嬉しそうに続ける。
「うちの娘がね、その子の事を良く話すの。色々話してくれるから詳しくは憶えてないんだけど、でもあんまり誉めるからどんな子かしらと思って」
言い終わってから、彼女はうふふと笑い、いたずらっぽく片目をつぶってみせた。
「…これはただの勘なんだけど、きっとあの子、志波くんに恋してると思うの」
「…………恋」
ひたすら楽しそうな女性を前に、けれど、志波は何となく複雑な気分になった。
彼女の娘が自分に恋をしていたとしても、自分はそれに応えることが出来ないからだ。
何故なら、志波の心はもう決まっているから。自分だって、恋をしているのだ、あの子に。
だから、きっと彼女の娘には何も出来ないし、それはつまりその子にとっては失恋となるわけで、そうなれば目の前のこの人はやっぱり悲しむだろう。
何となくそれは胸が痛んで、志波は目を伏せた。別に、ただ偶然会って言葉を交わしただけで彼女には何の義理も無いが、それでも娘の事を楽しそうに大切そうに話すこの人を悲しませるのは、あまり気分の良いものではない。
幸いなことに、この人は自分がその「志波くん」だとは気付いていない。まあ気付いていたらそんな話はしないのだろうが。
とりあえず、知らないフリをしておこう。嘘を吐くことに抵抗がないわけではないが、この状況ではそれが一番良い。そして、さっさとこの場を去ってしまおう。ぐずぐずしていたらその「娘」に会ってしまう。それは何とか避けたい。
どう言って切り出そうかと迷っていたところ、遠くから「おかあさん!」と呼ぶ声が聞こえた。その声に、志波は思わず固まる。だって、この声は。
「あら、あかり。早かったのねぇ」
「電話もらってすぐ走ったから。…ていうかお母さん!どうしてこんなすごい荷物なの!?卵だけ買ってくるって言ってたのに……!!」
「だって、見てたらつい色々と買っちゃって…ほら、コレとかかわいいでしょ?」
「…またこんなのいっぱい買っちゃって……って、あれ?志波くん?」
大量に買われたお菓子の山に呆れながらも、あかりは視界の端にいた背の高い人影に気がつく。志波は、醤油瓶が一本入っただけの買い物袋をぶら下げて、呆けたように突っ立っていた。
「志波くんもお買いものなの?偶然だね」
「……………なぁ」
「ん?なに?」
「なぁ、その人……海野の、お母さん、なのか?」
恐る恐る口にしたその問いに、けれど、海野あかりはあっさりと頷く。
「うんそうだよ。…あっ、お母さん、こちらは同じ学校の志波勝己くん。野球部に入っててね、すごい頑張ってるんだよ、前に話したことあると思うけど…」
「ええ、知ってるわよ。だって雨が降っている間、お母さんずうっと志波くんとお話していたんだもの」
「えっ、そうなの!?お母さん、変な事とか言ってない?」
「変な事ってなぁに?失礼ねぇ、志波くんとは雨がひどいですねって話してただけよ」
ね、と自分に笑いかけるあかりの母親からは、自分が志波勝己だという事に対する驚きは全く感じられない。
知ってるって、でも、そんな風には見えなかった。適当に話を合わせているんだろうか、それとも。
初めから、全部知っていたんだろうか。
「さて雨も止んだし、そろそろ帰りましょうか。志波くんも気を付けて帰ってね?」
「志波くん、また明日学校でね!」
「あ、ああ…」
きゃわきゃわと、親子というよりはまるで姉妹みたいに並んで歩いて行く二人の背中を見送りつつ、志波はまだ夢の中にいるような気分だった。何が何だか、よくわからない。
―――恋をしてると思うの。
さっきの言葉が、頭の中でずっと回っている。もしも、もしもそうだとしたら。
小さくなっていく二人の背中が、けれど、角を曲がるところで一瞬あかりの母親が自分の方を振り返る。
そして、ぱちんとウィンクしてみせた。
(…………かなわねぇ)
空はさっきまでの雨が嘘のようにすっきりと晴れ渡っている。しばらくぼんやりと鮮やかな茜色の空を見上げていたが、うるさく鳴り出した携帯に急かされて、志波も自分の家に向かって走り出した。