何だか今日は朝から頭がぼうっとする。
別に普段から冴えわたっているわけではないが、どうもおかしい。
そんな話を海野あかりにしたところ、彼女は少し考え込み、そして真面目な顔をして「少しかがんでみて」と言われた。
言われたとおりにすると、彼女はおもむろに手を伸ばし、自分の額にぴたりとくっつける。
そして、瞬間、顔色を変えて「志波くん、ちょっと!」と保健室に引っ張られたのだった。
君は勇敢なお姫さま
「うわぁ、38度5分もあるよ。志波くん、今までよく倒れなかったね」
感心しているのか呆れているのかわからないような声をあげ(たぶん両方なのだろう)、あかりは測り終えた体温計をケースに戻した。
その様子を、志波はあかりに強引に押し込められたベッドに横になりながら見る。こうして彼女を横向きに見上げるのは妙な感じがするなと、ぼんやり思った。
「そうか、どおりでいつもよりぼーっとするわけだ」
「もう!そんな場合じゃないんだから!」
まるで他人事のような反応の志波に対して、あかりはむうっと頬を膨らませる。
「無理して動いて、うっかり怪我するかもしれないんだよ?スポーツ選手が怪我しちゃったら大変でしょ?」
「…あぁ、そうだな、気をつける」
素直にそう答えると、彼女は何故だかそれまでの勢いがなくなり、肩を落として「ごめんなさい」と言った。
「エラそうな事言って…、志波くん、そんな事言われなくてもとっくにわかってるよね。でも、つい勢いで」
「わかってても忘れることはある。それに心配してくれたんだろう?」
言葉の後半は少し冗談めかして言ったのだが、彼女はそれに気づかず、こくりと頷いた。そして、心配そうに彼の顔を覗き込む。
「本当に大丈夫?でも辛いよね。…先生いないからどうしたらいいかもわからないし、とりあえず寝てる方が楽だと思うから」
「ああ、サンキュ」
実のところ、それほど辛いというわけでもなかったのだが(何せあかりに言われるまで気がつかなかったくらいなのだから)彼女の優しさにもう少し甘えたい気持ちもあって、それについては黙っていた。
純粋に心配してくれるあかりには申し訳ない気もしたが、そこは役得と思ってもバチは当たらないだろう。
彼女は近くにあったパイプ椅子を出してくると、そこへちょこんと座った。
「私、ここにいるからね」
「…教室、戻らなくていいのか」
「ううん、ここにいる。先生が戻ってきて帰りなさいって言われたら帰るけど」
淀みない彼女の答えに、志波はどうか保健医がこのまま、いっそ永遠に戻って来ないようにと心から祈ったわけだが、さすがに授業を自分の為にサボらせてしまうのも悪い気がした。
ここにいる、と言ってくれた気持ちだけでも充分に嬉しい。
志波の視線に気付いたのか、けれどあかりは「ここにいるよ」とふわりと微笑んだ。
「だって、やっぱり心配だし…それに、こういう時って誰かいた方が安心できるでしょ?もちろん、一人のほうがいいなら、帰るけど」
「いいや、居てくれ」
そんなの冗談じゃない、と志波はすぐさま返事をすると彼女は少しはにかんだように笑った。
それからしばらく経ったが、相変わらず保険医は戻ってくる様子がなく、なので、やはりあかりは志波の傍にずっと居た。
特に何をするわけでもなかったが、あかりがいるというだけでそこは居心地が良かった。確かに一人きりで寝てるよりずっと良い。
「静かだね」
「まぁな」
「こんなに静かだとちょっと寂しいね」
「一人ならな。でもお前がいるから寂しくはない」
「よかった。…ね、志波くん。手、出して?」
「…なんだ?」
「いいから」
乞われるまま手を彼女の方に伸ばすと、あかりはそれを両手でふわりと包み込む。それは予想外の出来事で思わず彼女の方を見たが、言葉が出てこない。
「いやだった?」と尋ねる彼女に、とりあえず首を振ってそれだけは違うと伝えた。
自分の手を包むあかりのそれは柔らかくて何だかさらさらした感触がする。おかげで更に熱が上がった気がした。
「こうしたら何か安心しない?」
「まぁ…そうだな(ある意味落ち着かないが)」
あかりは志波の手を大切そうに握りしめながら、ふふっと笑う。
「何か、いつもと逆だね」
「ぎゃく?」
「今は私が守ってるって感じ」
「…どういう意味だ?」
「いつもは、志波くんが守ってくれるから」
思わぬ言葉に、志波は一瞬呆けてしまった。たぶん、物凄く間抜けな顔をしているに違いない。
それから、志波は何故だか笑いが込み上げてきてどうしようもなかった。とにかく嬉しいのと、ほんのちょっぴりだけおかしいのとで止まらない。
「あっ、笑うなんてひどーい!守るなんておかしいって思ってるんでしょ?」
「いや、ちが…。悪い。そうじゃなくて」
「そりゃ、私は志波くんみたいにおっきくないし力もないから普段は仕方ないけど、せめてこういう時は力になりたいんだからね!」
志波の手を握っている力が少し強くなる。これをほどいて、自分の手で彼女の手を捕まえることはきっと簡単に出来るだろう。
そうして引き寄せて、めちゃくちゃに抱きしめることも、出来る。だが、それは今はやめておこうと、その手は握られたままにしておいた。
せっかく彼女が守ってくれているのだ。大人しくそれに甘えるのも悪くない。
(わかってないな…)
お前はまだ知らない。俺は守ってるわけじゃない、逃がさないだけだ。
どこにもやらない、誰にも渡さない。渡したくない。そんな風に閉じ込めようとしているだけ。
(そんな俺を、守るだなんて)
何て勇敢な、小さなかわいいお姫さま。
「…じゃあ、今日はおとなしく守られるかな。頼りにしてる」
「もちろん、まかせて!守ってあげるからね!」
彼女は嬉しそうな笑顔を見ながら、どうかこのままでと、大して信じてもいない神に祈る。
どうか彼女のこの手が離れませんように。
例え、何もかもわかってしまった後でも。もう一度今日のように手を握ってくれますように。