※ご注意※色々ヒドイ上に別れ話ですので、嫌な方は読まないでください。おまけに長いです。
振り返らない春
思えば、あの時からとっくにダメだったのかもしれない。
家の外に出ると、空気は予想よりもずっと暖かくやわらかい。風にのってきたのか、ふわりと甘い花の香りがする。ぼんやりと水を足したように薄まった水色の空を見ると、あぁ、春なんだなと思う。
春は好きな季節だ。春は幸福な思い出が多いから。
「お姉ちゃん!」
不意にかかった声に、あかりは振り向いた。もう甲高い子供じゃなく、しっかりとした男の子の声なのに、あの頃と変わらず「おねえちゃん」と呼ばれる事が少しくすぐったい。
「お姉ちゃんも、今から学校?」
「うん。今日は早めなんだ」
「今日は、って。いいなぁ、大学生は気楽でさぁ。ねぇ、途中まで一緒に行こうよ」
「うん。そうしよう」
にっこり笑って、一緒に歩く。中学生になった遊くん(中学生どころか、もうすぐ高校生らしい)は学校生活を満喫しているようで、そして、あかりはと言うと大学生にありがちな不規則な日々(誤解のないように言えば、講義の始まりがまちまちだということだ)だったので、こうして朝、顔を合わせるのは久しぶりだった。ここに越してきたばかりの頃は、よく「おはよう」って挨拶したっけ。
「遊くん、また背が伸びたんだね」
「まぁねー、でも、まだまだ伸びる予定」
頭の上に手をかざしながら、志波さんみたいに背が高くならないかなー、と、遊くんははにかんだような笑顔をした。
その一言に、けれども、あかりは笑顔で応える。
「そうだなぁ、志波くんくらいだったら、あと…この辺までは大きくならないと」
「んー、結構あるよね。志波さんってやっぱりデカいよなー」
遊くんの頭の上に手を伸ばして、大体の目測を示す。それが、ほとんど間違いなく志波の身長を示している事に、あかりは自信があった。大体、さっきから隣を歩いているのは遊くんなのに、私はずっと志波くんと歩いている時の事を思い出そうとしている。…正確に言えば、例え思い出したくもないと思っても、思い出してしまうのだ。何も考えなくても、無意識にいつも志波くんの事を考えている。志波くんがここにいたら、志波くんだったら何て言うか。志波くんが、志波くんに、志波くんと――そんな事ばかりが体を支配する。 そして、それはこの上なく幸福な事だった。それは確かだ。
「ねぇ、志波さん、最近お姉ちゃん家に来ないね」
「そう?あぁ、忙しいからじゃないかな?」
「そっか…、じゃあ今度来た時教えてよ。オレも会いたいからさー」
「うん、わかった。伝えておくね」
自分は、高校生あたりから成長が止まっているんじゃないだろうかと思っていたけれど、そうでもないらしい。「じゃあね!」と別れる遊くんに手を振りながら、あかりはぼんやり考える。
こんな時、きっと少し前の私なら、笑って「伝えておくね」なんて言えなかった、きっと。
恋人の志波勝己が自分の家に来ないのは、忙しいだけが理由ではない。もちろん。
事の始まりは些細な事だった。少なくとも、あかりにとっては些細な事だ。
高校卒業後、当然ながらあかりと志波の進学先は別々だった。一流大学と、一流体育大学。同じ学校同士でない恋人なんて、この世には掃いて捨てるほどいる。そもそも、夫婦であっても別々に暮らす事だってあるご時世だ。そんな事が二人の間で障害になるはずがない。あかりはそう思っていたし、現にそれは真実二人の間では問題ではなかった。
そう、問題はそこではない。だけど、もし二人が同じ学校に通っていたら、と、あかりは考えずにはいられない。そうしたら、こんな風にならなかったのかもしれない。
――お前が良くても、俺は嫌なんだ。
それは、あかりにとっては思いもかけない言葉だった。それから、混乱した。それじゃあ志波くんは、私にどうしろっていうの。
「海野さん、聞いてます?」
気付くと、心配そうに自分を覗き込む友人の顔が見えた。
「ごめんごめん。何話してたっけ?せっかく千代美ちゃんとランチなのに、ぼーっとしちゃったよ」
慌てて笑い返しても、小野田千代美の険しい表情は崩れなかった。遊くんはごまかせても、こっちはそう簡単にはいかないようだ。
「最近…よくぼーっとしてますよね?それに、痩せたみたいだし…ちゃんと食べてますか?」
「やだなぁ、食べてるよ。ちょっと、ダイエットしなきゃって思うくらいなのに。千代美ちゃん、大袈裟だよ」
これは嘘じゃない。ただし、甘いものは食べなくなった。あかりにとって甘い食べ物は、今や一人で食べるものではないから。
プレートにあるパスタを、慌ててフォークにくるくると巻きつける。よくよく見てみれば、ほとんど手付かずだった。
千代美は、そんなあかりをまだ疑っていたようだが、しばらくして、ほんの小さくため息を一つだけつく。
「志波くん、最近調子良いみたいですね。オンラインのニュースで載っていましたよ」
へぇ、と相槌をうち掛けて、慌てて「そうみたいだね」と言い直す。けれど、どちらにしろ白々しい響きは誤魔化しようがなかった。
「…大丈夫、なんですよね?」
心配げに声をひそめる友人に、あかりは胸が痛む。「大丈夫か」とは何を指しての言葉なのかくらい、あかりだってわかっていた。
「…それが、そうでもないんだ」
「え?」
「志波くんとは、ケンカ中」
正直にそう言うと、千代美は驚きを隠さずに目を丸くした。
「……信じられない。本当に?」
「本当。全くの音信不通ってわけじゃないけどね。…しばらく会ってない」
大したことじゃない。
なるべく深刻な響きにはならないように、努めてあかるい声であかりは話した。そして、口にしてしまえば、やっぱりそれは大したことでない気がする。…あくまでも「気がする」というだけだけれども。
「…ちゃんと、仲直りするんですよね。まさか、別れたりなんて」
「…今回はちょっとわからない。志波くん、許してくれないかもしれない」
実際にはわからない事など何もなく、全ては明快だった。もう、結果は目に見えている。というよりも、その結果を覆すつもりなど自分には毛頭ないし、足掻いたとして無駄だった。ただ、それを言うと千代美を悲しませてしまう気がして、言うのは憚られた。
それにしても、私と志波くんが「そう」なってしまう事は、そんなに哀しい出来事なのかしらと、あかりはまるで他人事のように思う。
それは、確かに「過ち」だった。してはいけない事だという自覚も、充分にあった。
「おつかれーっす」
軽く掛けられる仲間同士の挨拶を律義に返しつつ、志波はカバンにある携帯電話を取り出す。ここ最近ではこれを手にする度に、あの時の事が思い出された。
メール受信は三通ほど。そのうちの一通はあかりからだった。自分が出したものに対しての返信だ。返事とともにちょっとした報告が添えられていた。今日は、千代美ちゃんとランチします。
別に、一日の行動をいちいち報告しろと言った憶えはない。あかりだって、そんなつもりで書いているわけじゃないだろう。いつだって、他愛ない内容だった。
今、練習が終わったとだけ返して、携帯電話のフラップを閉じる。
『海野あかり』がどういう人物であるのかは、高校3年間を通じて知ったつもりでいた。つもりというか、そこで得た情報を自分の都合の良いように解釈していた、ということになるだろうか。
高校を卒業する時に告白をした。そして、付き合う事になった。今でも志波はあかりが好きだ。それだけは間違いがない。
ただ、好きであっても、両想いになったとしても、不安は消えることがなかった。付き合い始めてからも、あかりの無自覚さというか、天然さ加減は変わらない。彼女が男も女も分け隔てなく付き合うのは、単に「自覚」がないからだと思っていたが、そうではないらしい。それは、彼女の長所の一つに違いないが、志波の不安に追い打ちをかけたことは明らかだ。
もちろん、彼女の交友関係にいくら男女の垣根がないとはいえ、黙って男と二人出掛けることなどなかった。そもそも、男と二人きりで出掛けることなどなかった。いつだって、彼女は自分に報告してきた、さっきみたいに。
あかりにしてみれば、自分に嘘はつきたくないという気持ちで律義に報告してきたのに違いなかった。彼女は、包み隠さず何でも話してくれた。今日は誰それに会って、どこに行って、どんな話をして…そんな報告をいかにも楽しかったと言う風に、満足げに。
けれど、その無邪気さがかえって気に障った。そう、気に入らなかった。自分以外の男と――いくら、「志波くんとは全然違う。ただの友達だよ」と言われても――出掛けて楽しかった話なんて聞きたくもない。とりわけ、名前がしょっちゅう上がるのは佐伯だ。佐伯瑛というのは彼女が高校の間バイトをしていた(それも、誰にも内緒で)仲間で、今ではあかりと同じ大学に通っている。
佐伯に関しては「普通の友達とは違う」と、あかりははっきり言った。「私も佐伯くんにいろいろ話してるし、佐伯くんも私にいろいろ話してくれるから」と。正直すぎる言葉で、はっきりと。
こんな言葉を、何の疑問も抱かずに受けとめられるだろうか。あかりの事を「色々と」知っていて、普通の友達とは「違って」いて、そしてあかりと「同じ大学に通っている」男の事を、欠片も疑わずにいるだなんてこと、出来るだろうか。つまりは、自分よりもずっとあかりと一緒にいる時間を共有している、その男を。
志波は、出来なかった。もちろん、あかりを信じなかった事なんてない。だが、信じるだけで解消されるような不安ではなかった。だから、確証が欲しかっただけだ。言葉以外の、確かなものを。
自分の持つ携帯電話とは機種が違ったが、それでも操作を迷うことはなかった。ロックがかけられていたわけでもなければ、メールのフォルダもデフォルトの一つと、後は「吹奏楽部」と題されたフォルダの二つだけだった。これは多分、高校時代のがそのままになっているんだろう。
だが、それは結局不安を解消するどころか、ますます志波を疑心暗鬼にさせた。他の男に気持ちが傾いているだとか、浮気をされただとか、そんな事は一切ない。ただ、自分に対するメールも、他の誰かに対するメールも、雰囲気としては変わらなかった。それが、ひどく不安だった。
不味かったのは、あろうことか受信メールを盗み見た事が、あかりにバレてしまったことだ。何か、言い合う間にそれとわかる発言をしてしまったらしい。
その時、素直に謝ればよかった。そうすれば、こんな事にはならなかった。だけど、この際、自分の気持ちを正直に言ってしまおうと思った。不安なんだと、あかりに告げた。お前が俺以外の男と会っているかと思うと、心配でたまらないんだと。そうして自分の気持ちを素直に吐露すれば、全ては丸く収まるのだと、そう言えばあかりはわかってくれるのだと、自分はどこかで高をくくっていたのかもしれない。思い出して、志波は苦々しい気持ちになる。お互いに好きだという気持ちがわかれば大丈夫だなんて、そんな、漫画に出てくるようなガキの恋愛みたいなことを、俺はどうしてバカの一つ覚えみたいに信じる事が出来たのだろう。
苛立ちすら含んだ口調で話した志波に、あかりは目を丸くして見返してきた。
「それじゃあ、何?私は、志波くん以外の男の子とはメールもしちゃいけないし、口もきいちゃいけないってこと?」
「誰も、そんな事言ってないだろ」
「それならどうしてそんな事言うの?私が好きなのは志波くんだけだよ。デートするのも、キスをするのも、その先だって、志波くんとしかしないし、出来ない」
「…でも、俺には言わずに約束してたじぇねぇか。佐伯とは」
「何言って…佐伯くんとは、そんなんじゃないってば!」
「お前は良くても、俺は嫌なんだ」
それは確かだった。自分が聞かされていない約束事めいたメールを、あの時志波は見つけた。
「…あきれた」
信じられない。それを隠さない表情であかりは志波を見つめ返す。志波も、そんなあかりの反応は予想外だった。
「呆れた」だなんて、お互い両思いでなかった時ですら、言われたことはなかったのに。
「自分のした事を棚にあげて、まだ疑ってるの?しかも佐伯くんと?…信じられない」
「それは…」
最早、完全に志波の劣勢だった。2アウト満塁で追い詰められたような気持ちが、じわじわとせり上がる。怒りか拒絶か、どちらにしろ強く見返してくるあかりに、志波は怯んだ。
これは、本当に自分の知っている彼女なんだろうか。花のように可憐で、砂糖菓子のように甘くて…、自分に歯向かう態度なんて一度だって見せた事のない。海野あかりとはそういう女じゃなかったか。
「ばかじゃないの」
ぴしゃりと言い捨て、あかりはその場に志波を残して出て行った。そして、それきりだ。
一度、会いたいと言ったのはあかりの方からだった。場所はどこでも良かったけれど、どうせならと思って海にした。春になったとはいえ、夕方の砂浜は少し肌寒い。
高校を卒業した日。同じような季節だったのに、今とはまるで見え方が違った。いや、あの時が特別だったのだ、きっと。特別に幸せで、輝いていた。今、思い出しても満たされたような気持ちになって、口元が微笑んでしまうくらいに。
『許してあげればいいじゃない』
今日、志波と会うことを親友である水島密に話した時、彼女はそう言った。それだけ、あかりさんの事を想っているってことじゃないの。メールを勝手に見た事はそりゃあ酷い事だけど、でも一度くらい許してあげられないことないじゃない。普段、痴話ケンカの話の時には「さっさと別れちゃいなさい」と事もなげに言う彼女が。それは、佐伯にしてみても同じだった。彼にはメールの話云々までは話していないけれど、俺のせいでややこしいことになってるなら俺が直接志波に話してやるよ、とまで言ってくれた。もちろん、丁重に断ったけれど。
そうじゃない。そういう問題じゃない。メールを見た見なかったなんていうのは、もはや二次的な問題だ。
「…待ったか」
低く、静かな声。鼓膜と同時に、胸も震わされる。それだけでも、まだ私は志波くんの事がこんなにも好きだとはっきりわかる。
「ううん、平気。私もさっき来たばかりだから」
きちんと笑えているか、不安だった。だめだ。会うまでは、全然平気だと思っていたのに。
ゆっくりと振り返ると、見間違えるはずもない、その人がいた。普段と変わらず、優しい穏やかな目があかりを見ている。背の高く、大学に入って少しがっしりとしたその体に抱きついて、抱きしめてもらえたらいいのにと思った。
そうしてしまえば、たぶんまだ戻れる。きっと。
「なんか、久しぶりだね。元気だった?」
けれど、そうはしなかった。それは、意味の無い事だ。もう気付いてしまった。
「まぁ、な。お前も元気そうだな」
「うん、まぁまぁかな。…野球も、調子いいみたいだね。よかった」
「あぁ。…もう少しガタが来るかと思ったが、そうでもなかった」
精神的にはボロボロだったのにな、と、志波が困ったように笑う。この人は、本当に優しくて正直な人だなと、あかりは思う。そういう人を、好きになれて良かった、とも。
風が、少し強かった。髪がばさばさと顔に当たる。それを掻きわけ、押さえながら、あかりはわらった。最後、私をもしも憶えておいてくれるなら、どうか笑顔でありますように。そう思って。
「あのね、もう、お別れしよう。わたしたち」
たっぷり間をおいてから、やっぱりその話かと、志波は苦々しい顔をした。
「俺は…お前と別れるつもりなんてねぇぞ」
「私だって、別れたいわけじゃない」」
「なら、別れる必要なんてない」
「ダメだよ、続けられない。もう」
優しくて、正直で、そして愚かな程に何もわかっていない。わかろうとしない。頭の端で、ひどく冷めた気持ちになった。以前は、その真っ直ぐなところを何よりも愛おしいと感じたはずなのに。
「…俺のせいか」
呻くように、志波は呟いた。
「俺が、お前のケイタイ勝手に触ったからか。他の男との事を疑ったから」
「違うよ」
「なら、どうして」
「一緒にいるのが辛いの。…ううん、辛くなる。これから」
あかりは志波の事が好きだ。たぶん、自惚れでなければ彼も自分の事を好きだと思う。だけど、あかりは自分をこれ以上変えようがない。またきっと佐伯とでも、誰でも、志波以外の男と付き合うだろう。そしてその度に彼は不安になって、傷付いて、メールを勝手に見るようなことまでしてしまう。そんな事を、志波がやりたくてやったわけじゃないことくらい、あかりだってわかっている。優しくて、いつも私を信じてくれた人に、そんな事をさせてしまった。そしてまたこの間のようなケンカをするのだろう。あれは、後味が悪かった。とても一方的だった。一方的に、私が志波くんを追い詰めた。その上、追い詰める事が出来ても交わることはない。物理的にどれほど距離を埋める事ができても、私達はどこまでも平行線でしかない。
どんなにあなただけが好きだと、特別だと伝えても、彼には届かない。その事に、気が付いてしまった。
好きだという気持ちも伝わらないうえに、余計な心配で苦しめるなんて、かなしすぎる。
そして、同時にどうしようもない失望を感じた。自分で自分が嫌になるくらい、丸っきりこの人が好きでなくなってしまった。
そんな日は一生来るはずがないと、思っていたのに。
「…さようなら」
私は、何て酷い女だろう。別れたくないと言ってくれる人に向かって、何て冷たい言葉で「さようなら」だなんて言うのだろう。
あの腕にもう一度抱きしめられたらという思いと、もう一秒だってこんな所にはいられないという思いとで、心がバラバラになりそうだ。
「…もう、やり直せないのか」
「そう、出来ればいいのにね」
それも本心だ。やり直せるものならやり直したい。でも、出来ないのだ。求められれば何度でも言うけれど、もう戻れない。
不意に、息苦しさを感じた。こんな事は早く終わらせたい。煩わしさすら感じながら、あかりはもう一度口を開く。きっぱり、はっきりと。
「私のことなんて、もう忘れてしまって。…二度と、振り返らないで。私も振り向かないから」
そう言って、あかりは背を向けた。最後、彼がどんな顔をしていたか、よくわからない。よく見ていなかったのだ。…見れやしなかった。
(…これでよかったんだ)
円満に別れることなど出来なかったのだから、これでいいのだ。
心は、今頃になってしくしくと痛みだした。優しい、大切な思い出が次々思い出されて、少し涙が出てくる。これからしばらく、いや、もしかしたら一生、自分はこの痛みと付き合っていくのだろう。
それでも、もう一度振り返るという選択は、あかりの中には欠片もなかった。帰りにアナスタシアでケーキを買おう。そんな事を考えながら、ぐいぐいと歩く。
薄い水色と夕方の橙色が混ざって、空には柔らかなグラデーションが出来ていた。こんな時でも、春は優しくて良い季節だと、あかりはわらった。
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