My little blanket









夜遅く。なるべく音を立てないようにそっとドアを開ける。

(…やっと帰って来れた)

もうとっくに日付は変わってしまっていた。何だかんだと絡んでくる(もちろん悪気がないのはわかっている)先輩達にやっと別れを告げ家に帰り着いた。
『新婚だから付き合いが悪い』という皮肉をたっぷり受けながら。
新婚であろうとなかろうと、志波はあかりが待っているのならばそこへすぐに帰りたいのだが、まぁ付き合いも蔑ろにはできない。それに、野球選手だってたまにはハメを外したい時もあるのだろうし。

入籍する少し前から一緒に住み始めたこの家にも、やっと馴染んできたような気がする。
新婚というのはさぞ楽しかろうと冷やかし半分(というかほとんどは冷やかしだ、この場合)に周りから言われるわけだが、志波としては楽しいのは否定しないが、あまり満喫出来ていないような気がしてならない。不満はない。そうではなくて、入団も同じ時期だったから少し目まぐるしかったという意味だ。
新しい環境に戸惑いを感じていたのはたぶん自分だけではない。だからお互いに、お互いの事を思いやる余裕がなかったかもしれない。

そうかと言って、彼女は決して不満など口にしない。ついでに言えば望みも言わない。彼女の事だから、負担になると思い込んでいるのだろう。
もう、そんな気遣いはいらないのに。

家の中は真っ暗だろうと思っていたのだが、リビングの方から灯りが漏れている。
ドアを開ければ明るい光が暗がりに慣れた目に少しだけ眩しい。途端体を包む家の匂いに、志波はほっとする。自分の実家とも、彼女の実家とも違う「この家」の匂い。
食器棚にあるお揃いのカップ、テーブルの上の新聞や雑誌、壁にあるコルクボードにある写真や手紙。それはもう何年もそこにあるかのように身近で、けれども実のところまだ数か月しか経っていない事に志波は不思議な気持ちになった。
ここは間違いなく自分の帰る場所なのだが、それが物凄く奇妙に思える時がまだある。

慣れてきた目が、ソファに背を預けて眠るあかりの姿を捉える。自然、口元が緩んだ。
彼女は膝元にブランケットを掛けて(結婚祝いに水島からもらったらしい。二人で使えるようにとたっぷりしたサイズだ)、その上には黒いうさぎのぬいぐるみがいる。
志波が、随分昔に彼女にあげたものだ。確か、ホワイトデーのお返しにとか、そんなだったと思う。
あれを渡した時、あかりは凄く喜んでくれたし、それからもずっと気に入ってくれていたらしい。結婚後のこの新居にも一緒に連れてきた。

「この子といるとね、何だか落ち着くんだ。それに、志波くんがいない時は一緒にいれば淋しくないし」

そう言って、笑っていたのを思い出す。近づいて名前を呼んでみたが健やかな寝息はそのままだった。よく眠っている。
何となく無理やり起こすのが悪くなって、荷物は適当に脇に追いやりあかりの隣に座り込んだ。柔らかなソファに、体が沈みこむ。
黒うさぎを落とさないように横へ置いて、あかりの膝元にあったブランケットを肩まで引き上げてやった。腕を回して、自分の方へ寄り掛かるようにする。体半分に感じる重みが心地よかった。
安心感と愛しさが同じだけ体に満ちる。このまま眠ってしまいそうになり、でもそれはさすがに不味いと軽く頭を振った。

空いているほうの手で、黒うさぎをそっと撫でる。ふわふわした手触りが、これを店先で見つけた時の事を思い出させた。
普段は絶対に入らないような雑貨屋で、このぬいぐるみの前で何十分も買うかどうか迷った。
買った後もまだ渡すかどうか迷って、けれども渡して喜んでくれた時にはそんな苦労はどうでもよくなるくらい自分も嬉しくて。

(…また、こんな風にオマエと会うなんてな)

そんな事を思い出しながら、ぬいぐるみを軽く指で突いた時、腕の中であかりが軽く身じろいだ。目が覚めたらしい。
「ただいま」と言えば、彼女はまだ眠たそうな目をこちらに向けた。

「…ぅん…。しばくん…?…おかえり。いつかえったの?」
「ついさっき。…それと、もう『志波くん』じゃないだろ?」
「ぁ…そうだった。わたし、寝ちゃってたんだね…ごめんね」
「いや、いい。…もう遅いし。いいぞ、寝てても」
「ん、でも。…おきてる。しばくん、せっかく帰ってきたのに、寝るのもったいな…ぃ…」

言いながらもこてんと自分の肩に頭を預けるあかりに、志波は苦笑する。彼女は未だに名前呼びが慣れないらしく、時々「しばくん」と呼んだ。
そういうところも好きなんだと言ったら、たぶん俺は笑われるんだろうな。

「ほら、ベッド行くぞ。こんな所で寝たら風邪ひく」
「…やだ。おきてる」
「起きてるって、お前、寝てるだろ」
「……いや。かつみくんといるの」

ごそりと反転してしがみつくあかりを、あやすように抱きしめる。たぶん、こんな風に甘えるのは寝惚けているからだ。…それと。

「…ごめんな。一人にして」
「…ううん。だいじょうぶ」
「コイツといたからか?」
「うさぎちゃん?うん……でも、かつみくんのほうがいい」
「……俺も、お前がいい」

そう言って、けれど返ってきたのは繰り返す呼吸音だった。今度こそ、本当に眠りに落ちたらしい。
普段以上の素直な言葉にこの体勢だから、このまま寝てしまうのは正直物足りない気もするが、まぁいいかと、眠る彼女の体を抱き直す。
シャワーも浴びたいし、明日の用意もあるし、あかりをベッドまで運ばなきゃならないし。
でも、とりあえずはもう少しこのままで。たぶん、こんな夜もやっぱり幸福なのだろう。





夜は静かだった。「おやすみ」と、彼女の額にキスを落として少しだけ目を閉じる。