ええっと、例によって例の如く、母話です。
今回はマジで海野ママと志波母しか出てきませんのでご注意。
でも、ベースは志波×デイジーです。
それは、本当に突然だった。
ちょっと一言よろしいかしら
『志波選手、○○アナとのお付き合いの事はご存じでしたか?』
『息子さんからお話は?』
『一言、お話頂けないでしょうか!?』
「――申し訳ありませんけど、お話する事は何もございませんし、息子からも何も聞いておりませんから!!」
ガチャンと、電話の受話器を投げつけるように置いた。
嘘はついていない。むしろこっちが事情を聞きたいくらいだった。聞いたってどうしようもないのはわかっていたけれど。
数日前、突然テレビのワイドショーで挙がった息子の名前。自分は知らなかったが、それ以前に週刊誌でも記事になっていたらしい。
なんでも、『新人スター選手、人気女子アナと深夜の熱愛』なんだそうだ。
とりあえず、スポーツ新聞から週刊誌から、息子の名前が載っているものは買い漁ってみた。どの記事も何を根拠にしているのかわからないような話ばかりだった。
ただ、テレビの取材なんかで、二人は共演したことがあるらしい。得られた情報といえばそれ位だった。
単なる憶測、下卑た噂、途中から目にするのも嫌になってきて、テーブルの出しっぱなしになったそれらに、彼女は胡乱な目を向ける。
肝心の、息子からの連絡は無かった。こっちからも連絡がつかなかった。携帯電話は電源を落としているらしい。
それもまた、自分を苛立たせる原因の一つだった。
(……ああもう。本当に嫌だ)
あんなバカみたいな記事、信じてなんていない、絶対に。信じられるはずもない。
――私は大丈夫です。
そう言って、笑ってくれたあの子。息子の正真正銘本物の彼女であるあかりちゃんの顔を思い浮かべる。これじゃどっちが励まされているのかわからない。
勝己のあかりちゃんへの気持ちが、本当に本物なのは母親だからわかる。あの子はそんな器用な子じゃないし(そのお陰で負わなくていい傷も負っているだろうし)
だから、あの子が記事に書かれているような事、出来るわけがないのだ。
壁に掛かっている時計を見た。たぶん夫は今日も早めに帰ってくるだろう。彼は今回の騒動に関して家の中でも全く口を閉ざしたままだった。ただ、夫の勤め先まで取材が来るらしく、
疲れているらしい事はわかる。それでも妻には微笑んで「あんまり気に病むんじゃないぞ」と言ってくれる。
その時、ピンポンと来客を告げるチャイムが鳴り響く。また取材記者だろうか、もう対応するのも嫌だとじっとしていると、もう一度、ピンポンと鳴った。
出るまで鳴らし続けるつもりなのだろうか。溜息をついて立ち上がる。今度出たら、もう電源を切ってしまおう、そんな事を思いながら受話器を耳にあてると、
聞こえてきたのは、予想もしていなかった人物の声だった。
「……それにしても、あれじゃお買いものにはいけないわねぇ…、あ、これ、アナスタシアの新作ですって、どうぞ」
「え、ええ……ありがとう」
目の前でゆったりと微笑むのは、あかりちゃんのお母さん――つまり、息子の彼女の母親だ。渡された箱には何人分のケーキが入っているのか、ずっしりと重い。
彼女は並みいる記者をもろともせず、堂々と玄関から入ってきた。大変だったでしょうと言うと「それほどでもなかったわ」と彼女は笑みを崩さない。
いつもなら大歓迎なのだが、今は状況が状況なだけあってうまく笑う自信がなかった。
それはそうだ。彼女には、「うちの娘を何だと思っているのだ」と食ってかかられても文句は言えない。
娘の彼氏が、他の女と密会していたなんて知らされるなんて(しかも全国的にだ)一体どんな気持ちだろう。考えるとどう言葉を掛ければいいのかまるでわからない。
何も知らないと言って無視できる玄関前の記者たちとは訳が違うのだ。
けれども、彼女は、普段とまるで変わらないように見える。いつものように微笑みをたたえて、そこにいる。
それにしても、本当に急にどうしたのだろう。海野さんが何の連絡も無く突然訪ねてくるなんて今までに一度もない。
……やはり、この状況を見かねて家に来たのだろうか。それは、そうだろう。自分だって娘の親ならそうすると思う。
「……勝己くんは素敵な子だから、周りが放っておかないのね」
「……え?」
「人気選手なんだもの、仕方がないわ」
そう言った声音は、あくまで穏やかでいつもの海野さんの口調だった。けれど、普段通りの口調だからこそ、何だか堪らなくなった。
この、優しい人の信頼を自分は裏切ってしまった。
「ごめんなさい、海野さん。本当に……ごめんなさい」
「志波さん?」
目頭が熱くなって、喉の奥が痛くなる感じ。こんな年になって人前で泣くなんてすごく恥ずかしい事だとわかっていたけれど、涙は止められそうにない。
不安とか、疲れとか、とにかく色んなものがこみ上げてどうしようもなかった。それでも、声を上げて泣く事だけはするまいと、口元を手で覆う。
「あかりちゃんにも……、海野さんにも迷惑かけちゃって、本当に、何て言ってお詫びすればいいか…」
「志波さん、違うの。私、そんなつもりで言ったんじゃないのよ」
私の方こそごめんなさい、と言った彼女の声は、その時初めてはっきりと動揺していた。
「私は、本当に大丈夫よ。ただ、志波さん一人で大変じゃないかしらって……でも、こんなにもお疲れになってるとは思わなかったの、ごめんなさい」
「…そうね、思っているより疲れてたのね。ごめんなさい、泣いたりして。ちょっと、どうしていいかわからなくて。勝己とも連絡付かないし…」
「…………そうなの?」
その時、今日何度目かの電話の着信を告げる電子音が鳴り響く。いい加減うんざりするが、それでも取材以外の電話かもしれないと思い、取りに行こうとした。
けれど、それを海野さんが、やんわりと押しとどめる。
「私が出るわ」
「え?でも……」
「大丈夫。志波さんは座ってて」
彼女はそう言って、電話の受話器を耳にあてて「はい、志波でございます」と軽やかに対応した。
電話の相手はやはり記者だったらしく、海野さんは「さぁ、どういうことでしょうね」、「何も聞いていないものですから」、「あらまぁ、そうなんですか」と、のらりくらりと返事をし、
最終的には「それでは失礼いたします」と、慇懃とも言えるほど丁寧に締めくくり、受話器を置いた。
何というか、あまりに優雅で鮮やかで声も出ない。海野さんってやっぱりスゴイ人だわと、ただ彼女の後姿を眺める。
けれども、いくら彼女が凄くても、これ以上電話の対応なんてやってもらうわけにはいかない。けれども、その事を告げようと口を開く前に、
電話台に立ったままの彼女は、振り返りもせずに言った。
「……志波さん、申し訳ないけれど、ちょっとこのままお電話貸してもらえる?あと、電話帳と」
「え?……ええ、それは構わないけれど…」
電話帳は備え付けの引き出しに入っていることを告げると、彼女は「ありがとう」と言ってからそれを取り出し、パラパラと捲る。
彼女が手にしているのは、あの黄色い分厚いものではなく、志波家のもの―――つまり、自分の実家や、親戚、そして息子の住む寮の連絡先が載っているものだ。
別に、彼女になら見られても構いはしないが、一体どうするのだろう。けれど、それについては口を挟むつもりはなかった。そんな気力も無かったし、彼女ならば心配するような事にはならないだろう。
それは自分の中の、彼女への絶対の自信だった。
受話器を取って、番号を押す。そして彼女は開口一番、いつもの穏やかな、のんびりとさえ言える調子で言ったのだった。
「いつもお世話になっております、志波勝己の母でございます」、と。
(…………えっ?)
一体、どういう事なのだろう。もちろん志波勝己の母は彼女ではなく、この自分だ。
…そりゃ、あかりちゃんと勝己が結婚すればもちろん彼女も勝己の義母と言えるが、今そんな冗談を彼女が真面目に言うとは思えない。
そんな事より、彼女は一体どこに電話しているのだろう。いや、母親だと名乗って連絡がつくところと言えば、それは一つしかない。息子の住む球団の寮だ。
でも、一体どうして?
相手方も渋っているらしい、それはそうだろう。本物の母親である自分が電話した時だって取り次いではくれなかったのだから。
けれども海野さんは「まぁそれは困ったわ」とか「どうしても一言声を聞きたいんです」とか、挙句には「息子の声を聞かないと不安で仕方無くて…生きた心地がしないんです」などとしゃあしゃあと言ってのける。
そんな彼女に相手も根負けしたらしい。それから彼女はしばらく黙りこみ、そして再び、「もしもし?」と声を出した。
それはもう、本当に、久しぶりに息子に電話をして喜ぶ母親の如く、だ。
「お久しぶりです、勝己くん。わかっていると思うけれど、お母様じゃなくて海野です。ええ、あかりの母です」
体全部が耳になるんじゃないかと思うほど集中して声を聞こうとするが、残念ながら息子の声は聞こえなかった。
海野さんは相変わらずのんびりした調子で勝己と話をしている。
「さて、早速ですけれど私が何故こんな電話をしたかと言えば、それは貴方に言いたい事があるからなの。よろしいかしら」
「あかり?いいえ、あの子は元気。私だって気にしてなんていません、ええ、もちろん」
「勝己くん、あなたがとってもいい子だって私は知ってるわ。でもね、やっぱり許せないものは許せないのよ」
「許せない」。剣呑な響きの言葉に、心底ぎょっとする。しかも、口調は変わらず穏やかなのだ。一層、怒りを感じられるようで気が気じゃない。
電話の向こうの息子は、一体どんな顔をして話しているんだろうか。そんな事をちらりと思う。
「え、なぁに?あら違うのよ。そうじゃないの、あかりは貴方を信じていると言っていたから。そうね、驚いてはいたけれど」
「うちの事はどうぞご心配なく。あのね、でも、あかりより先に安心させてあげるべき人が貴方にはいるでしょう?私はその事を言いたいの」
そして、彼女は一呼吸置いて、微笑みさえ感じさせる声音で言った。
「言っておきますけど、自分の母親も大切に出来ない男になんてうちの娘はやれませんから。そこのところ、一度よくお考えになってね」
言い終わり、彼女は受話器を置き、その続きで電話線のジャックをぶつりと引っこ抜いた。そして、それを無造作に床に放り投げる。
「あ、あの海野さん…」
「ごめんなさい、勝手なことして。でも、これで少しは静かになるでしょう?」
「あの、勝己のこと、やっぱり……」
恐る恐る言うと、海野さんは「いいえ、違うの」と静かに首を振った。
「何度も言いますけれど、私は周りの人が勝手に騒いでいるのなんてどうでもいいの。貴女の息子さんだし、何より私は彼を信じているわ、でもね」
「………でも?」
「貴女をこんなに心配させるだなんて、ひどいじゃない。私はあかりの母親じゃなく、貴方のお友達としてあの子にちょっと一言、言いたかったの」
だって、あかりにはさっさと連絡してきてるのに、と、彼女は肩をすくめる。その様子が何だか子供っぽくておかしかった。
ああ、本当に凄いし、不思議な人だ。そして、自分にとっても大切な友人だ、もちろん。
「さぁ、静かになったところでお茶にしましょう?久しぶりに会えるのが嬉しくてたくさん買っちゃったの」
「そう、ね。何だかお腹空いちゃったし。海野さん、ゆっくりしていってね」
ゆったりと微笑む海野さんにつられて、口元が緩んだ。それから、ぐい、と、背筋を伸ばして、お湯を沸かすためにキッチンに向かう。
携帯電話に息子から着信が来たのは、それから丁度10分後だった。