春は狂わせる



その日、森林公園は桜が満開だった。
濃かったり薄かったりする桜色の花びらが時々吹く風に舞ってひらひらと周りを舞う。
上を見上げてもどの木も先まで花がついていて、本当に見事で、そのうち空も桜色に染まるんじゃないかと思うほどだった。
それはいいのだ。ここに志波と二人で来た目的だって、この桜を見る為だったのだから、問題なんて少しもない。
問題は、だ。

(なんか、目のやり場に困る…)

普段、この公園はどちらかと言えば家族連れなんかの方が多いくらいなのだが、今日は何故だか周りはカップルばかりだった。
それも、自分たちよりは少し年上―大学生とか、そんな感じ―の二人組が多い。 皆、ベンチだったり芝生だったりに座り込んで桜を見て、はいなかった。
お互い同士しか見ていない。要するに「二人っきりの世界」だ。しかも、桜が舞うこの幻想的な雰囲気がそうさせるのか、「桜がきれい」と言って横ではしゃげるような空気ではなかった。

(ま、まぁ確かにここは少し外れになるんだけど…)

ふと視線を移した先のカップルが堂々と抱き合ってキスしている姿が目に飛び込んできて、あかりはぎょっとなり、思わず志波のジャケットの端をきゅっと掴んだ。

「…?どうかしたか?」
「えっ、うっ、ううん、何でもないよっ!」

何とか笑うことは出来たものの、その先は言葉が続かなかった。さっき見た光景が頭に焼きついて、まだ心臓を落ち着かせない。
それにしても彼はどうしてこうも平然としていられるのだろう、とあかりは志波をちらりと見る。彼は自分よりずっと背が高いから余計に色々見渡せていると思うのだが。
動揺しているような素振りはない。

(な、慣れてる、とか…?)

いつも自分の事を「子供だ」と言って志波は笑う。そんな彼にしてみればあんな光景は何でもないんだろうか。

(あんまり、考えたくないかも)


「…なぁ、聞いてるか、海野」
「はっ!?はいっ、何っ?」


気がつけば、不思議そうに志波がこっちを見ている。

「あのベンチ、空いてるから座るかって言ったんだが」
「あ…うん、そうだね。座ろっか、うん」


あかりは、すかさず周りを見回したが視界にはさっき見たようなカップルは見当たらない。
あからさまにほっとして、そのままベンチに腰かけた。志波も横に同じように座る。


(どうしよう…)


いつもならここで話が弾むなずだ。桜の事、学校の事、昨日見たテレビの事。何でも話したはずだ。
話すのはあかりである事がほとんどだが、それでも志波はそれをいつも全部聞いてくれた。時々相槌を打ったり、笑ったり。
今ほど気まずくなったことはない。けれど何か話さなきゃ、と焦れば焦るほどますます言葉が見つからない。 それどころか、さっき見たカップルの光景がまた浮かんできて、だからそうじゃなくて!とあかりはそれを必死に記憶の向こう側に追いやろうとする。


ふ、と手に何かが触る感触。見てみると、膝の上に置いていた手に、志波の手が重なっていた。
大きな彼の手は片手で自分の両手を簡単に包み込んでしまう。


(…え、でも何で急に……)


思わず志波の方を見ると、彼もこちらを見ていた。

どうしたの、と聞きたいのに、あかりは声が出せない。彼の目は、いつもの穏やかな感じとはまるで違った。強くて鋭くて、息が詰まりそうだった。


「志波、く…」
「……」


彼は黙り込んだまま、あかりの手を握っていない方の手をあかりの方へと伸ばした。
髪が、彼の指に絡められる。それだけのことなのに、ぞくりと、背筋が粟立つ。
思わず手を引きそうになったが、がっちりと握っている彼の手がそれを許さなかった。



「あかり」



そう呼びながら、志波の指はゆっくりと髪の中を流れて、耳、頬と順番になぞっていく。
これは誰なんだろう、とあかりは痺れるような感覚の中で思った。今目の前にいるのは「志波くん」なのだけれど、でもあかりが知っているいつもの彼とは全然別の生き物に思える。



強くて、きれい。目が離せない。



「…目、閉じろ」
「……え?」



頬をなぞっていた指が、口元でぴたりと止まる。


「目。閉じないなら、そのままするぞ」
「………」


(……するって、何を?)

突然、さっきまで忘れようとしていた光景がもう一度鮮明に甦る。

―――抱き合って、キス。


「……えっ!ちょ、まっ…!」
「……待たない」

我に返り、慌てるあかりに、けれど志波はゆっくり顔を近づける。



そして、ちょん、と口唇に触れた。



……彼の、指先が。

「……………………え?」
「…だから目ぇ閉じろって言ったのに」

じゃなきゃバレバレだろ、と彼はにやりと笑う。

「あんまりガチガチに緊張してるもんだから、からかってみた」
「……っ、もうぅ〜っっ、志波くんっっ!!」

つまり、これまでの行動はすべて志波の「冗談」だったのだとわかり、あかりは真っ赤になって志波を睨んだが、彼は反省どころか体を折り曲げて笑いをこらえている。

「お前、周り、意識しすぎ。公園入ってからやけにおとなしいから、おかしいと思ったんだ」
「だって…だってっ!なんか、恥ずかしいでしょ、ああいうの!志波くん、平気なの?」
「…さぁ。どうだろうな」

余裕そうな答えに、どうせ私は子供ですよと、あかりはむくれたが、そういえば、と志波に向き直る。

「ね、バレバレって何のこと?」
「あぁ、それはコレ」

さっきしたように、志波が指先であかりの口元をちょんと触る。…今度は、口唇からは微妙にズレた位置でだったが。

「キスした感触と似てて、間違えるらしい。見えてなければな」
「あ、だから目、閉じろって言ったんだ」

なるほど、と納得したところで、けれど、もう一つ疑問が浮かんできた。

「ねぇ、それって本当なのかな?だって指と口じゃ全然違うと思うんだけど」
「だからお前で試してみようと思ったんだがな」
「……。ねぇ、それもう一回試してみようよ」
「は!?」

驚いてあかりを見る志波に、だって気になるんだもん、とあかりは自分の指で試しに口唇に触ってみるがやっぱりいまいちピンと来ない。

「そんなこと言って…お前、キスしたことあるのか」
「あるよ。志波くんとグラウンドで…」
「いやアレは事故だろ」
「まぁ。つまりは、明らかに指だっ!ってわかっちゃったらその話は嘘だってことでしょ?今度はちゃんと目、つぶるから。大丈夫!」

ナニが大丈夫なんだよ、と志波は半ば呆れた顔をしていたが、わかったとあかりに向き直る。

「目、閉じろよ」
「うん」



目を閉じた上に何かあたたかいものが目の上に当てられる。「一応、保険な」という言葉にそれが彼の手だとわかった。

「………じゃ、いくぞ」
「うん、どうぞ」
「…もうちょい、上向けるか?」
「ん?うん、これでいい?」
「………あぁ」

うわぁ、本当のキスみたい、とあかりはドキドキしながら待っていたのだが、口唇に何かが触れる気配はない。どうしたんだろうと不思議に思っていたところに、それは来た。

柔らかい、優しい感触。けれど、それはさっきみたいな一瞬ではなくて。しかも、指を当てている間志波は何も言わず、静かで、妙に長く感じた。
やっと感触が離れて「どうだった?」と尋ねる志波の声が聞こえる。視界は、まだ暗いままだ。

「うーん…どうだろ?言われてみればそんな気もするけど、あんまりわからないかなぁ」
「じゃあもう一度してみるか?」
「もう一度?」
「………わかるまで、付き合ってやる」



それから何度かそんなやり取りをしたのだが、結局あかりは何だがわからずじまい、志波は妙に機嫌よく森林公園を後にしたのだった。

帰り際、「この手があったか」とか何とか志波が呟いていたのだが、あかりには何の事だかわからなかった。