俺に血縁関係上の「妹」はいない。欲しいと思った事もない。
けれど、物好きにも俺に懐いてくるあの後輩は、例えるなら「妹」のようなものなのだろう、きっと。



ばれんたいんのあにといもうと



2月14日。俺にとっては忌むべき日の一つだ。バレンタインなんぞに良い思い出は一つもないし、今後も出来そうな予定はない。ちなみに、チョコレートはそれほど好きというわけでもない。嗜み程度だ。この後の3月14日についても大体これと同じ感想で、「面倒臭い」がより強調される。
しかし、「受け取って欲しい」と渡されるものを拒むほど、俺は子供じゃない。よって、いつのまにか色々と渡されるという、やはりどう考えても面倒な一日なのだった。
この日だけは、どこへ行ってもチョコの甘い匂いが追いかけて来そうで少し鬱陶しい。音楽室にでも籠るかなと考えながら廊下を歩いていたところに、設楽先輩、と声を掛けられた。高めの、例えるなら声そのものにチョコレート菓子みたいな甘さを漂わせた声。どういうわけか、不思議と俺の耳に馴染む声。
振り返ると、彼女は少し驚いたように目を見開く。

「…先輩、何だか機嫌悪そうですね」
「あぁ。よくない」
「どうしてですか?」
「色々、押し付けられたから」

そう言ってやると、彼女は少し困ったような顔をして、そんな風に言っちゃだめですよ、と言った。…こんな言葉を真に受けるなんてバカだなと、面白いような気持ちと、つまらない事を言って困らせてしまった、という可哀想になるような気持ち(この俺が、信じ難い事に)とが、胸の内でない交ぜになる。
…だから柄にもなく、「今のは冗談だ」などと言い訳するはめになるのだ、いつも。

「じゃあ、私からは要らないですか」
「誰もそんな事言ってない。…それに、お前の持ってるその紙袋は初めて見た柄だ。ちょっと興味がある」
「あ!そうなんです!これ、カレンさんと雑誌で見つけて――」

彼女はただの後輩だが、話をするのは楽しい。楽しいし、何故か安心する。イルカの鳴き声を可愛いと思ったり、アルパカを見て笑いたくなったり、あの瞬間に感じる不思議な穏やかさに、それは似ている。…見た目ものほほんとしているから、癒されるのかもな。
彼女からのチョコレートを受け取り、けれど、それとは別にもう一つ小さな紙袋があるのを俺は見逃してはいなかった。いかにも手作りらしい、チープな、けれど温かみのあるそれ。

「…で、紺野の所には行ったのか?」
「えっ…」

何が、えっ、だよ。紺野の名前を聞いただけでみるみる頬を染める彼女に、俺は溜息を零す。何してるんだか。バレンタインってのは本命の男にチョコを渡すものなんだろう?
こいつが紺野に手作りチョコを用意するくらいの気持ちであることは、とうの昔に知っている。…ついでに言えば、紺野の方だって似たり寄ったりな感じだ。お互いに想い合っているのに「自分ではだめなんじゃないか」と踏ん切りがつかない。二人でいる時は夫婦のような落ち着きすら見せるというのに、全くばからしい話だ。

だが、ばからしいからと言って、それを壊したり笑ったりするつもりはない。そんな趣味はない。

「バレンタインってのは、中元や歳暮を渡すのとは違うんだぞ。わかってるのか」
「そ…そうですけど…でも」

もじもじと俯く彼女の目は少し赤かった。きっと夜中かかって作ったんだろう。それを想像すると胸がちくりと痛んだし、同時に紺野の阿呆め、と思った。だってそうだろ。こいつの事が好きなくせに、こんな顔をさせてるんだから。
仕方ない、一緒に行ってやる、と言おうとしたところへ、とある集団が目に入った。その中心にいるのは、誰にでも優しく公平な紺野玉緒生徒会長。周りにはこれでもかというくらい女子生徒が囲んでいた。その集団の放つオーラの禍々しいことといったらない。…あいつ、よく平気で笑ってられるな。だが、これで理由がわかった。こいつがあの集団の中に切り込んで、紺野にチョコレートを渡せるとは思えない。

「…なるほど、そういう事か」
「い、いいんです、別に。だって、紺野先輩は人気者だから…」
「良くはないだろ。お前、それ紺野の為に作ったんだろう」
「でも…私のなんて…」

あぁ、苛々する。賭けてもいいが、紺野が今日一番喜ぶのはお前からのチョコレートなんだぞ!あんな有象無象からの物じゃなく!と声を大にして言ってやりたいくらいだ。
もう一度、集団の方を見る。真ん中で困ったようにあちこちに笑い掛ける紺野。あぁ、本当バカな奴。お前が一番に笑いかけなきゃいけない奴はここにいるのに。そして、それがお前の一番の望みのはずなのに。

「よし、行くぞ」

気付けば、彼女の腕を掴んで俺は、そのオゾマシイ集団に向かって歩いていた。どういうわけか、珍しく俺は勇ましい気持ちになっていた。考えてみれば後輩のチョコレートが紺野の手に渡ろうが渡るまいが俺には関係ない話だが、その時は絶対に受け取らせてやる、という気持ちでいっぱいだった。

こいつに気付かないだなんて、俺がゆるさない。

距離を詰めれば、さすがに女子共も気付いたらしく不意に黄色い声が止む。しかし、相変わらず紺野を囲む壁に向かって、俺は聞えよがしに言ってやった。

「おい、紺野。俺の妹がお前に用事がある。トモダチ特権で優先させろ」

驚いたのは、壁の奴だけじゃない、紺野も、「俺の妹」も、だ。
しかし、さすがと言うべきか、紺野だけはすぐにその言葉の意味を理解したらしい。

「うそ!設楽くんって、妹なんていたの!?」
「えー!初耳ーー!!」

きーきーうるさく騒ぐ壁を押し退け、あいつを紺野の前に押し出してやる。…そこから先はわざわざ話すまでもない、お約束な展開だ。

…初めて、バレンタインもそう悪くない、と思えた瞬間だった。



*****



寒かったが、何故か屋上に出たくなり、ぼんやりとはばたき市を見降ろしていた。寒いし、指先は冷たくなるしで良い事なんてないが、それでも気分は悪くない。

正直言えば、俺は紺野が少し羨ましい。もしも、あの後輩が、ああして手作りのチョコを俺に作って持って来てくれたのだとしたら、俺はきっと拒まないだろう。今とは違う、ただ想像するだけでしかない幸福も、あったのかもしれない。
だが、「もしそうだったら」と思うだけで、それ以上は何とも思わない。だから、まぁやっぱりそれくらいの気持ちなのだろう。

「設楽先輩!ここにいたんですね」
「…何だ。わざわざ探しに来たのか」
「だって…!さっきのお礼を言ってなかったしっ…」

息を切らして駆けよってくる後輩に、自然と口元が綻んだ。…ほら、たったこれだけで満たされるのが、いい証拠だ。

お前が俺の「いもうと」なら、俺はやっぱりお前の「おにいちゃん」でいたいんだ。

「あの、ありがとうございました!設楽先輩のお陰で、チョコレート渡せました」
「気にする事ないぞ。あれはあれで面白かったからな」
「あ、大変だったんですよ?本当に設楽くんのいもうとなの?っていっぱい聞かれちゃって…」
「いいじゃないか。俺の妹だって言っておけば、色々得するぞ、きっと」
「そうかなぁ…むしろ大変そうだけど」
「…おい、そこは、そうですね、と言うところだろ」

せっかく協力してやったのにその言い草はなんだ、と言うと、彼女はふふ、とくすぐったそうに笑った。それを見ると、俺はこの笑顔が見たくて、あんなくだらない事をしたのだなと改めて思う。…本当の意味で、俺のものではないけれど。

「この間、新しい屋台を見つけたんですよ。また行きましょうね!」
「本当か!?そうか…よし、じゃあ次の日曜だ。紺野も連れて行くぞ。あいつにおごらせよう」
「えぇっ」
「それくらい、文句は言わせない」




何せ、あいつは俺の「おとうと」になるわけだからな。
そう言って、俺も笑った。












2011/04/06 ブログより再録