その夜に祈ること



ひとしきり騒いだ後の車内は静かだった。ちらりとウィンドウの向こう側を見れば、しんと冷えた暗闇と光。その正体が所詮は建物の照明であることを知りながら、それでも星空のようだと思えるのは、さすがに聖夜だからなのかもしれない。

「明り、少し弱めようか」
「…そうだな」

紺野玉緒の提案に頷き、設楽は車のスピードを少し緩める旨を運転手に伝える。市内に着いてしまいたくない、という気持ちももちろんあったが、本来の目的はそれではない。
薄暗く照明の落とされた車内、後部座席で紺野の上着に包まれて眠る彼女を黙認し、知らずと微笑みが漏れた。

「寝ちゃったね」
「あぁ…まぬけ面して寝てやがる」
「…また、そんな事言うんだから」

やれやれと、紺野が肩を竦めたような仕草をするのが暗がりの中でも見えた。…それから彼が、彼女に愛おしむような眼差しを向けているのも。…それについては今更驚く事もない。何も言わないまま、設楽は彼の向かいのソファにどっかりと座り込んだ。

「はしゃいで、疲れちゃったのかな。まさか、酔ったって事はないだろうけど」
「雰囲気に酔う、ってやつじゃないか。乗ってきた時から妙にテンション高かったからな」
「…そりゃあ、こんな車に乗れることは、滅多にないだろうから」

返ってきた紺野の声に、微かに卑屈な響きを感じ取り、設楽は眉を顰める。確かに、この車を用意したのは自分だ。だが、それだけのことだ。シャンパンを用意したのは紺野だし、今走るドライブコースを逐一運転手に告げたのも彼である。…更に言えば、眠くなってしまった彼女に真っ先に気付いたのは彼だったし、「車の中は寒くはないけど、一応ね」と、上着をさっさと脱いで彼女に貸したのも、彼だ。その間、設楽は指をくわえて見ているしかなかった、と言ってもいい。
…どうせ俺は何も気付かない馬鹿野郎だよと、卑屈になりたいのはむしろこっちだというのに。

「お前は、シャンパン買ってきただろ」
「でも、これだけだ」
「だが、お前はこいつの為にそれを用意したろ、同じことだ」
「設楽に比べたら、大したものじゃないよ」
「…黙れ。お前と話してると、まるで俺が金に物を言わせてるみたいじゃないか。そんな下品な趣味はない」

紺野は気付いていないだろうが、正確にいえば同じであって同じでない。あのシャンパンは、とびきり上等でもないが、それでも一大学生が気軽に買えるものじゃない。きっとバイト代でもつぎ込んで買ったのだろう。
それに比べて自分はどうだ。車も何も、実家で人を使い、準備させただけだ。自分は何一つ労していない。

自分がしてやりたくて、でも出来ない事を、紺野は軽々と、当たり前のようにやってみせる。それが、かつては心地よく、そして今は少し苦しい。

「…ごめん、そんなつもりじゃなかったんだ」

正直に落ち込む声は、それでも穏やかさと誠実さを失わない。この自分にすら平等に向けられるその惜しみなさが、設楽には苦しくて哀しい。苛立つというよりも、かなしかった。何故俺は、こいつには勝てないのだろう。あるいは、この優しさを素直に受け取ることが出来ないのだろう。そうする事が出来ればもっと楽になれたのに。

(…どうして)

「簡単に謝るな。…お前は悪くない」

グラスに残ったシャンパンを舐める。気の抜けてしまったシャンパンは、楽しい夢の時間は終わりだと告げるような、現実的な味がした。

(どうして、お前なんだ)

もう何十回と問うた疑問を、性懲りもなく繰り返す。時間の無駄だとわかってはいても、考えずにはいられない。
どうして、お前もあいつを好きなんだ。どうして、あいつは俺を選ばない。あるいはいっそ、どうして紺野だけを選ばない。どうして。

「設楽」

思考の隙間に、紺野の声が割り込む。気が付いて振り向くと、彼は困ったように微笑み、「グラス、もう無いよ」と言った。…ちびちび飲んでいるつもりが、もう飲みほしていたらしい。

「もう一本あるよ。新しいの、開けようか」
「いや、いい。…別に、そんな飲みたいわけじゃない」

何故か言い訳めいた響きになってしまった事に内心ぎくりとしたが、紺野は特に気付かず、「そうか」と笑い返しただけだった。

「…彼女、楽しんでくれたかな」
「楽しかったから、こんなまぬけ面さらして寝こけてるんだろうが。…見ろ、こいつ、寝てる時までニヤけてるぞ」
「寝顔を覗くなんて、ダメだよ」
「それくらいの役得はあってしかるべきだろ。出資者と提案者としては当然の権利だ」
「…やれやれ。…本当だ。かわいいな……あ」
「おい、言って照れるくらいなら言うな。気色悪い」

今まで何度、この甘ったるい空気に苛々させられた事か。…恐らく、向こうも似たような事を感じる事はあるのだろうが。

「あのさ」
「何だよ」
「…いや、やっぱり何でもない」
「言い掛けてやめるな。気になるだろ」
「…そうか?」
「そうだ。言え」
「うん…」

相変わらず、優しい目を彼女に向けながら、紺野はぽつりと零した。

「また、3人でクリスマスパーティできればいいなって」
「…本気か?」
「…自分でも、よくわからないよ。ただ、…ただ、そう思う気持ちも、嘘とか立て前じゃなく、ちゃんとあるんだ」
「……バカだな」

空っぽのグラスを脇へおいやり、設楽は席を移動した。眠る彼女の隣に自分も寄りかかった。

「設楽…!?」
「俺も眠くなった。だから寝る。…こっち側にお前も来いよ」
「…そんなこと」
「じゃあ、俺が一人でこいつを抱き枕にする」
「それは、ダメだ」

さすがにむっとしたらしく、紺野も彼女を挟んで向こう側へと座る。遠慮のない自分とは違い、まるで壊れ物に触れるかのようにそっと寄り添うのが、こちら側からも見えた。その姿を見て、何故かほっとする。

(…馬鹿げてる)

好きな女を取り合ってる仲だというのに。それでもどうしてか、満たされる気持ちになる。

「…さっきの話だが」
「え?」
「お前をバカだと言ったが、実はバカはもう一人いる」

もし神がいるなら、こうして3人で寄り添う自分たちを、きっと哀れと笑うに違いない。仮初めの温もりに安心する愚か者の集まり。

「…でも、バカでもいい。今は、このままで」
「設楽…」
「さ、寝るぞ。…クリスマスくらい、良い夢を見てやる」
「…うん、おやすみ」

何より、この真ん中で眠る愛すべきバカ筆頭がそれを望むなら、俺たちは道化を演じる事も厭わないだろう。いつか、選択が迫られるその日まで。

(…あとしばらくは、見逃してくれ)

伝わってくる温もりを目を瞑って感じながら、聖なる夜にだたそれだけを祈った。












2011/04/06 ブログより再録