(…丸聞こえだっつの)

部室の傍は日陰になっており、そこにもごちゃごちゃと荷物やら道具やらが置いてある。もしやそこに自分のジャージが紛れていないかと探して回っていたのだが、その間に元部長の立川とマネージャーの一ノ瀬さよの話は全部筒抜けだった。一ノ瀬が志波の事をそういう風に思っていたなんて初耳だな、と、少し驚いた。でも、考えてみればそうだったかもしれない。別に特別待遇というわけではないが(むしろ一ノ瀬は志波にはあまり近寄らない気がする)、何となく気にかけている風ではあったかもしれない。
まぁ、それならそれでよろしくやってくれればいい。野球に悪影響が出ては困るが、今のところそういうわけではなさそうだし、あるいは立川が言うようにうまく作用するならばそれに越したことはない。

(…志波と一ノ瀬って、全然想像つかねぇけど)

美女と野獣、なんて言葉が世の中にはあるが、あの二人はどっちかというと小動物と野獣だ。あまり相性は良さそうではない。見た感じからしてそれほど仲が良さそうとも思わないし。
一ノ瀬さよは確かにマネージャーとしては頼れる、というか、精いっぱい頑張ってくれていると思うが(頼れるというのなら3年の柏木祥子先輩以上に頼れるマネージャーなどいない)、それ以上には何ら感想はない。というよりも、藤枝は立川の言うとおり、女ほど面倒な生き物はいないと思っているので、恋愛なんて気にはなれないだけだ。

女というのは、本当にわがままで身勝手で、自己中心的な物の考え方しかできない種類の生き物だと藤枝は思っている。そりゃあ男だから色々と想いを馳せるというか妄想するというか、まぁ世話になることはあるけれども(非常に下世話な話だが生理現象なので仕方がない)、実際、恋愛をしようという気にはならない。

中学の頃、あんまりにも付き合ってくれとしつこく言われたから一度「付き合って」みたが、最後には平手打ちを喰らって終わった。別れた原因は未だに納得いかないのだが、藤枝にあるのだという。電話もメールも全然「してくれない」と言われたので、「用もないのにそんな事出来るか、金と時間の無駄だろ」と言い返したところ、前述の結果になったのだった。全く持って理不尽な話だ。
あれ以来、女と付き合う付き合わないという話には懲りている。そもそも、好きでもないに頼まれたからといって付き合ったのが間違いだった。
今度はちゃんと自分から好きになった女の子と付き合おう。それだけは決めている。そんな日は、しばらく来ないだろうけれど。
「好きになる」という感覚がいまいちわからないし、今は野球でそれどころではない。一ノ瀬には悪いが、志波がカノジョに夢中になって野球が疎かになんてなったりしたら、それはそれで困る。

「…妖精、か」

何となく口にしてしまい、そして、そうした事を激しく後悔した。何考えてんだ、俺は。あの先輩の、いつものバカバカしい妄想だろ、と自分に言い聞かせる。

(つーか、妖精。俺のジャージ返せよ)

とりあえず、今は無くなったジャージだ。このままなくなったままなのは困る。まだ一年半も学生生活があるというのに。
立川の言うとおり、妖精が持って行ったというのなら、今すぐ出てきて返してほしい。そして俺を落とせるものなら落としてみろ、なんてバカな事を考えて、鼻で笑った。ありえない、そんなこと。

「……あ、あの、先輩」
「あ?…あぁ、鈴原?」

振り返って名前を呼ぶと、一年のマネージャーは恐縮するかのようにびくりと肩を強張らせて俯いた。彼女は鈴原穂乃香という今年入部したマネージャーだが、ほとんど話をした事がない。
仕事は出来るのだが、一ノ瀬が言うには男と話をするのが苦手らしい。そんなわけで彼女は普段、一ノ瀬の後にくっついて動いていて、こうして単独行動とは珍しい。しかも、自分に声を掛けてくるだなんて。
男と話すのが苦手だからといって特別配慮したこともないので、自分はさぞ怖いと思われているだろうと思っていたのに。

「何か用か?」
「あの…」

もじもじと口籠る鈴原に早くも苛立ちを感じつつも、彼女が大切そうに抱えているものに目を移す。それには見覚えがあった。
彼女が使うにはサイズが大きすぎる、それ。

「おい、鈴原それ…」
「ご、ごめんなさいっ」
「…は?」

彼女は勢いよく頭を下げて、それを自分に差し出した。…藤枝の探していたジャージを。

「こ、この間、部室で忘れているのを見つけて…それで、あの、破れてるの見つけたので、直そうと思って持って帰ってたんです。…でも、すぐに出来なくて時間かかっちゃって…」

泣きそうな声で、彼女はそう言った。藤枝は勢いに押されて何も言えずにただジャージを受け取る。破れていたと思われる場所は綺麗に直っていて、見た目には全く問題が無い。

「本当はちゃんとお預かりしていること、言わなきゃいけなかったんですけど、言えなくて、今になってしまって…本当にすみませんでした!」
「…あ、あぁ、それは別に…。あ、それよりわざわざ直してくれたんだな。ありがとう」

とりあえずはお礼を言うので間違っていないはずだ。そう思って言うと、今まで俯いていた鈴原穂乃香が顔を上げた。彼女は背が高いから、一ノ瀬なんかと話している時よりもずっと顔が近い。
涙で潤んだ目が、自分を見上げていた。長い睫毛、ふっくらした口唇、自分のそれとは全然違う、そして、この暴力的な陽射しに晒されていてもなお白い肌。
それを見ただけで、言葉が詰まる。何故こんな頼りなく華奢な存在が、自分と向かい合って話をしているのだろう。いや、それよりも彼女は本当に自分と同じ人間なんだろうか、とても信じられない。人生振り返って考えてみても、こんなにも可憐な存在に出会った事はない。
彼女は不安げに自分の薄汚れたジャージを見詰めている。薄汚れた、と言っても綺麗に洗濯され、きちんとたたまれていた。自分の家で使う安物の洗剤とは比べ物にならないほど良い匂いがする。

「あの…おかしくないですか?母にも見てもらったから、たぶん、大丈夫だとは思うんですけど…」
「えっ!?…あ、や、全然キレイだよ。ウチでやってもらうよりずっと綺麗だと思う」
「それなら、良かったです」

彼女はそう言って、あろうことか微笑んだのだった。一瞬、今が真夏の蒸し暑い夕方だということを藤枝は忘れた。砂ぼこりの舞うグラウンドは小春日和の花畑に見えた。都合の良い夢なんかじゃない、確かにそう見えた。

「…あの、暑いですけど、練習がんばってください。あの…、応援してますっ」

それじゃあ失礼します。彼女はぴょこんとお辞儀をして走って行ってしまった。取り残された藤枝は何も言えずに彼女の後姿を見送る。手渡されたジャージを抱えたまま。

――妖精さんにね、心奪われちゃうんだよ。

あんなアホみたいな話、ありえないと思っていたのに。

(…………ウソだろ、俺)

「女なんてメンドくさい」などと、ぬかしていた自分を今すぐにでも殴りつけてやりたい。





立ち尽くす藤枝に、強くて熱い西日がギラギラと刺す。
自分の立つ場所は、紛れもなく真夏のグラウンドだった。