がちゃりと、部室の扉を施錠する。これが、きっと最後だ。
他の部員には先に帰ってもらった。一緒にマネージャーをやってきた倉田千沙子にもだ。その事を詫びると意外にも「うん、わかってるよ」と返ってきた。
それと、「祥子ちゃんでないと連れて帰って来れないから」と付け加えられる。やっぱり、彼女には頭が上がらない。

何となく後ろを振り返って祥子はため息をつく。迫るように見える赤い夕陽。とても静かだと思った。何か物事が終わる時は大抵こうして静かだ。静かで、途方に暮れる。
はば学に落ちた時に似ている、というのは祥子個人の感想だ。精いっぱい力を尽くして試合をした部員たちには申し訳なくて言えるはずもない。

羽ヶ崎学園は負けた。もう少し正確に言えば、勝負には勝ったが試合には負けた、というところか。逆転して勝ち越したものの、部員のほとんどを手酷いデッドボールでやられ、これ以上試合続行は無理だと部長―立川だ―が試合放棄を申し出た。つまり、むざむざ勝ちを譲った事になる。
部員のほぼ全員がそれに反対した。けれども立川は頑としてそれに屈せず、自分の意見を押し通した。彼が強引に意見を通したのはこれが初めてだ。
祥子だけが彼に反対しなかった。感情的な理由ではない。このまま試合を続けたとして、次の試合で羽学野球部が勝てる可能性はほとんどなかった。元々部員数は多くない。おまけにこれだけの故障者。勝ち進めたとしても更に相手は強豪校になるだろう。無理をすれば、その分部員に負担を強いる事になる…それが、重大な事故や故障に繋がらない保証はない。
少し、考えればわかることだ。だが、理解は出来ても納得がいくかどうかは別問題だ。

部室を後にして歩きながら、祥子はそもそもの始まりを思いだす。

元々、野球になど興味はなかった。更に言えば羽ヶ崎学園で過ごすであろう3年間にも全く興味が持てなかった。ここは、祥子の第一志望校ではなかったから。
そんなだったから、祥子は立川に出会った時も戸惑いどころか憤りすら感じたのだ。莫迦にされていると思った。はば学を落ちて羽学に通っていて周りとはまるで馴染もうとしない自分を嗤っているような気がした。

『俺、祥子ちゃんのことが好きなんだ。だから、俺とお付き合いしてください』
『…頭おかしいんじゃないの。ほとんど、話した事もないくせに』
『それはこれから話せばいいよ。それに、話せばもっと好きになれる自信があるぞ、俺は』
『バカバカしい。付き合っていられない』
『だめ?』
『当たり前でしょ。友達になるのだってお断り』
『ふぅーむ、中々キビシイなぁ…。じゃあさ、こうしよう。俺と付き合わない代わりに野球部のマネージャーになろう!』
『…は?』

絶対にふざけている。さもなくば頭がおかしいのだ、そうに違いない。「付き合わない代わり」の意味がわからない。
祥子は呆れたが、立川は至って真面目だった。そして、挑戦的な目で祥子をわらう。

『…はば学で発揮されなかった頭脳を、生かさない手はないだろ?』
『っ!ちょっと、貴方…!』
『それとも、やっぱりベンキョーばっかしてきたお嬢さんには無理かな?俺でも出来るのにさ』
『…何よ、それ。莫迦にしないでよ、やれないわけないでしょ、やってやるわよ』

乗せられているのはわかっていた。子供でもわかる安易な挑発。だが祥子はむしろ乗ってやると思った。入部してからしばらく、実のところ祥子はそれはそれは苦労したのだけれども、愚痴の一つもこぼさず黙々とマネージャー業をこなしていった。それだけじゃない、もっと上手く、効率よく。如何にすれば野球部が強くなれるかという事まで祥子は考えた。そして、自分がいなければ立ち行かなくなったところで退部届を叩きつけてやる。それくらいの「報復」をしなければ気が済まない。そんな事を当初は本気で考えていたのだった。

…けれども、それは結局実行されることなく今に到る。

しばらく歩くと、グラウンドの方を見る背中が見えた。まだユニフォームを着たままだ。
やっぱり少し声がかけづらい、と一瞬逡巡し、けれどもそれもまた無駄な事だとまた一つ息をつく。いつまでも、こんな所に放ってはおけない。

「…まだそんな恰好でいたの?部室、閉めたわよ」

返事はなかった。祥子は、もう少し彼に近付く。座りこんでいる彼の、頭のてっぺんが見えるくらいのところまで。

「…立川くん」

名前を呼ぶ時は少し緊張した。気を抜いたら、何だか憐れんでいるように聞こえるのではないかと思ったからだ。それだけは、絶対にしたくなかった。

「ねぇ…」
「俺、大人げなかったかなぁ…」

ぽつりと零れる平坦な声。声からはそれほど傷心は見られないことにほっとした。何が、と聞き返すと、彼は少し笑ったようだった。

「志波に、何もあんな風に言う事なかったかな、って」

言われて、思い出す。立川が志波に投げつけた言葉。拒絶と叱咤。「今まで逃げていた奴にグラウンドに上がる資格はない」。
鞭打つような言葉に、志波勝己が顔を強張らせたのを、祥子も確かに見た。
立川はまた笑う。それは、自嘲だった。

「偉そうにな…。ハズカシイ奴だよ」
「そんなの、今更でしょ」
「はは、厳しいなぁ」

そこから、会話が途絶える。ふわりと風が吹いて、湿気を含んだ空気がゆるく動いた。
差し込む光が、ますます赤みを帯びていく。

「俺、嫉妬してたんだ。志波に」
「…え?」

一瞬、聞き逃してしまいそうな弱い声に、祥子は立川の背中を見る。
彼は一度も、こちらを振り返らない。

「あいつみたいになりたかった。…俺は、もうこれ以上野球は続けられない。少なくとも趣味の範囲から出ることはない」
「……それは」
「志波は、他の奴らとは全然違う。もちろん俺とも。それを、俺は尊敬するのと同時にどうしようもないくらい嫉妬してた。あいつはこれからもずっと野球を続けられる。
プロにだってきっとなれると思う。…それなのに、それだけの力を持っているのに、あいつは高校に入ってから野球をやらない」
「……」
「一発殴ったくらい、何だよ。そんな事、誰にだってあるさ。志波じゃなくてもきっとその時誰かが殴ってた。そんな程度の事で、あいつは自分の力を腐らせようとしてた。だから、腹が立った。けれど変な優越感もあった。あいつを野球に戻してやりたい。そんな気持ちにまでなってさ。それで、本人が戻ってくるとなると途端に嫉妬むき出しにして。
…すごく、情けなくて。嫌になる」

祥子は何も言えない。確かに志波は凄いのかもしれない。あの一振りのスイング。素人目にだって、一般的高校野球児の水準を超えていることは明らかだった。
だけど。だからといって。

「…立川くんが、それを言うの」
「…え?」
「他の誰かになりたい、なんて。貴方がそんな事を言うの?…凄く、腹が立つわ」
「祥子ちゃん…?」

知らず、手に力が入った。何を言っても、気休めにもならない。自分が言える事なんて、何もない。わかっている。
腹が立つ?違う。そんな、そんな単純な感情ではなくて。
金色の世界が迫ってきて、息が詰まりそうになる。

「…私は、立川くんに嫉妬してた」
「……」
「私に持っていないものを持っていて、それで、それを誰にでも与えることが出来る。…貴方はいつも人に囲まれていて…それが、羨ましくて、腹立たしかった」
「…そんなこと」
「私だって、貴方に、貴方みたいになりたかった」

周囲を遠ざけていた祥子に、手を差し伸べてくれたのは立川だった。彼の手を取って、千沙子にも、さよにも、他の野球部の部員や、そうでない友達にも会えた。
だけど、それを認めるのは難しかった。いつでも、そこには胸が妬けるような苦しみがあったから。それが何か、祥子にはわからないけれど。
ああ、違う。そんな事は、今はどうでもよくて。

「でも、私は私だし。貴方は貴方でしょ。貴方は志波くんにはなれない。だけど、志波くんだって貴方にはなれない。…私が、貴方になれないのと同じように」
「それは」
「立川くんは私が持ってないものを何でも持ってる。なのに、その貴方がまだ羨むの?志波くんみたいな立川くんって何なの?立川くんは、頑張ったわ。…志波くんより、ずっと。頑張ってた…!」
「祥子ちゃん!」

気付けば、立川はこちらに向かって立ち上がっていた。目が合った途端「ごめん」と彼は謝る。彼にしては珍しく、狼狽した表情をしていた。

「な、に…?」
「…女の子を泣かせるなんてサイテーだ。違う。祥子ちゃんに、そんな顔させたかったわけじゃないんだ。だから、ごめん」
「泣く…?」

言われて、初めて頬が濡れているのに気が付く。眼鏡が、涙で曇って少し見え辛い。

「…ごめんなさい。ちょっと、勢いが止まらなくなって」
「ああ…、うん」
「とにかく…、何だか話が逸れちゃったけど、貴方がそんな風に落ち込むことはないって言いたかったの。今まで頑張ってきてたのを、私は知ってる。…そしてそれは、誰にでも出来る事じゃないってことも」

不意に、視界がぼやけた。涙じゃない。全体的に世界がゆがんでいる。…肩にふと、あたたかなものが置かれた。自分のものとは違う、少しゴツゴツした感じの、男の子の。

「ちょっと。眼鏡、返してくれないと見えないんだけど」
「うん…ごめん」
「あのね。謝るなら返してって言ってるんだけど」
「……柏木さん」
「え?」

慣れない名字呼びに、祥子は戸惑う。そして気付いた。目の前の、立川の様子がおかしい事に。

「立川くん…?」
「…あのさ、俺に嫉妬してるって、言ったよね」
「え?えぇ…まぁ」

勢いで言ってしまった事を蒸し返さないでほしいんだけど、心で思ったが、何となく言いそびれた。
肩を掴まれる力がほんの少し強まる。眼鏡をかけていない祥子でも、はっきりと顔が見えるくらい、立川は近くに、目の前に、いた。
立川以外は見えなくなって、祥子は思わず目を瞑る。一瞬、距離が無くなってしまった事がわかった。一瞬なようで長い時間、それはそのままだった。

ゆっくりとほんの少しだけ離れて、立川は笑った。…いつかの、野球部に入部を迫られた時を思いだす。

「…嫉妬する代わりに、俺を好きになって」
「…順番が違うんじゃない?」
「それは、柏木さんがかわいいせいなのと、俺が凄く緊張してるから。不測の事態です」
「図々しいにも程があるわね」
「…今更、なんだろ?」

辺りは静かで、心臓の音ばかりが聞こえた。けれども、不思議と悪い気はしない。…そう、凄く不思議だけれども。
違和感はない。とてもしっくり馴染んだ。肩にある手も、離れた口唇の感触も。
だから、笑ってしまった。

「その割に、急に名字呼びなんて殊勝じゃない?気持ち悪い」
「いや、ちょっと真面目になってみようかと」
「やめてよ。…いつもの呼び方がいい」
「え?俺の事好きって言った?そういうこと?」
「勝手に置き換えないで。…早く着替えないとそのまま置いて帰るけど、いい?」
「ちょ、待って!ていうか、さすがの俺もここでは無理だよ。どんな野外プレイ」
「鍵、貸すから早くして。…一緒に帰るんでしょう?」

じゃらじゃらした鍵を立川の方に投げて、祥子は背を向ける。…今になって何だか凄く恥ずかしい気がしてきた。
立川はほんの一瞬だけ吃驚した顔をして、それから、笑った。いつもの彼の笑顔で。