Hotel Radisson にて








こっちの冬は夜が長い。そして暗く、静かだ。無論、街灯はあるが。
報告書の制作、そしてメールのチェック、あるいは返信。外国だろうが日本だろうが、作業自体はさほど変わらない。
それらの作業を終え、幾種類かの新聞雑誌に目を通し(ここのホテルは日本語の新聞が読めるのが有難い)、冷めた珈琲をすすった。そしてもう一度机に向かう。
ドアをノックする音が聞こえたので、惣介は振り返りもせずに「どうぞ」と応えた。

「すみません、お疲れのところ」
「そう思うならそっとしておいてくれるかな、丹羽くん」
「ええ、ですがこれが私の仕事ですから」

明日の予定と、これは日本に帰るまでに目を通して頂きたい書類です、と、どっさりと机に書類の束が置かれた。
惣介は肩をすくめてため息をつく。

「まったく、君は優秀な秘書だな。こんなだから男に逃げられるんだ。3人だったか?」
「セクハラで訴えますよ。…5人です。もう諦めました」
「…見る目がないなぁ。どいつもこいつも」

軽口を叩きながらも、机に置かれた書類をぺらりと一枚だけ手に取る。中身は面白くも何ともないが仕方ない。これが仕事だ。
外は、いやに静かだった。もしかしたら雪が降っているのかもしれない。
丹羽は新しいあたたかな珈琲を手渡しつつ、淡々と「仕事」を続けていく。

「それから、向こうの方々からお食事の誘いがありましたが」
「冗談よせ。あいつらの晩飯に付き合ってたら夜が明ける」
「…そう仰ると思ったので、お断りしておきました。ですが、3日後の昼食は出席願います」
「俺はきっちり8時間寝ないと活動できないんだよ。…昼は行く。どうせ予定に組み込まれてるだろうし」

彼らはなんだってあんなにも夕食に時間をかけるのだろう。何度も出張で来ている惣介にも未だに理解出来ない文化の一つだ。
一枚手にした紙を、けれどすぐに億劫げに端へ追いやる。それから、引き出しから一枚の絵葉書を取り出し、ペンを持つ。ゴシック建築の礼拝堂の写真の付いたものだ。
ステンドグラスが青く輝いて美しい。引き出しのは他にも何枚か似たような葉書がある。仕事の合間に丹羽に買ってきてもらったものだ。
彼女はこういう物を選ぶセンスが素晴らしい。いかにもな感じにはならず、かといって懲りすぎてもいない。
出す相手は、既に決まっている。

書き始めを何にしようかと迷いながら、惣介は淹れてもらったばかりの珈琲を一口飲む。

「こっちで誰か捕まえればいいじゃないか。ドイツ男は中々深いらしいぜ?」
「…ここはフランス語圏ですよ。ドイツ男はいませんし、私はドイツ語は出来ません。…大体、一ノ瀬さんに恋愛の話で説教なんてされたくありません。それと葉書代、全部で10ユーロです」

いい迷惑だという態度を、彼女は隠しもしない。机に向かっているからわからないが、彼女はきっと盛大に眉をひそめているに違いない。しかし丹羽のそういうところが惣介は気に入っていた。
彼女は口を尖らせて更に言い募る。

「…別れた奥さんに、そんなせっせと手紙を書いてどうするんですか。はっきり言って理解出来ません」
「おいおい。別れたんじゃない、逃げられただけだぜ?」
「どっちでも似たようなもんじゃないですか」
「いーや、全然違う。…しかし、そんな食いついてくるとは意外だな。もしかして俺の事が好きなの?」
「そんなわけないでしょっ!」

向きになって言い返す丹羽は、まるで恋なんて知らない女子高生みたいだ。折角のパンツスーツも滑稽だなと、惣介は嗤う。
丹羽は、チタンフレームの眼鏡を直しながら、惣介を睨みつけた。

「私はっ…そんな事が言いたいんじゃありません。他に手紙なり、電話なり、貴方には連絡を取らなければいけない人が他にいるでしょう、と言ってるんです」

ふと、書き始めようとした手を止めた。

「返事もよこさない、姿も見せない、そんな奥さんに熱心に手紙を送る前に、お嬢さんに…さよちゃんに一枚でも葉書を書いてあげたらどうですか。貴方のたった一人の家族なんですよ?」
「……かぞく、ね」

ペンを置く。そして、娘のことを考えた。
しかし、娘と言っても惣介は彼女にどう接していいかよくわからない。百合子――妻が、あの日いなくなった瞬間からずっと。
「家族」だと言われれば、惣介にとっては百合子なのだ。それはもう、圧倒的に。

「一ノ瀬さんが放っておけというから再三弁護士事務所から連絡があるのも無視していますけど…きっと自宅の方にも連絡が回ってるんでしょう。どんな気持ちでさよちゃんがそれを取るか、
少しでも考えたこと、おありなんですか?」
「まあね…考えたこともあったよ。でも、わからないんだ」

は?と間の抜けた返事が返ってくる。なので惣介はもう一度言った。

「俺には、あの子の考えてることがわからない」

もう少し詳しく言えば、予想は出来るが、それについての対策が惣介には何も思い浮かばない。そして、さよもそれをさせない。

あの子が一度でも、のぞみを口にした事があっただろうか。否、記憶にない。そのくせ時々、捨てられた子犬のような目を向けてくる。
だが同時に、まるで他人を見るように惣介を見る。踏み込めば、はっきりと戸惑いを見せるほどには。
さよは、惣介に失望している。そして、それ以上に惣介にどう接すればいいかわからない。
お互いに、どうあればいいのかわからない。
それが何故なのか、惣介にはわかっていた。百合子がいないからだ。お互いに、百合子を介してでなければ話もしたことがなかったからだ。
惣介にとって百合子が「家族」だと思うのと同様に、さよにとっても「家族」は惣介でなく百合子だった。
「家族」であり、「父親」と「娘」であっても、共有すべきものが何一つない。最も重要な、唯一無二の存在は今のところ失われたままだ。こんな状態で何が理解できる?
「家族」なんて言葉は単に一つの集団に付けられた呼称でしかないという良い例だ。「家族なら理解できる」などという根拠のない甘ったれた言葉に、惣介はいつも唾を吐きたい気持ちになる。

ならば捨てれば良かったのか。そんな面倒なもの、抱え込んだのが間違いだったか。

(いや)

出来なかった。何故なら、あの子は百合子の血を分けた娘だから。さよという存在の、少なくとも半分は惣介に無条件で愛させようとする。
唾棄すべき根拠のない「愛」が、惣介をいつも縛り付ける。いつもそうだ。この感情だけがままならない。自分も、百合子も。
惣介は、もう一度ペンを取る。

「…文句のつけようもない優秀な秘書さまに言われたなら仕方ない。わかったよ、電話すればいいんだろ。これを書き終えたら電話する。土産のチョコレートも奮発する」
「貴方は研究者としては一流ですが、父親としては失格です。奥さんが愛想をつかすのもわかります」
「おい。だから違うって言ってるだろ。あいつは帰ってくるんだから」
「まだそんな都合のいい幻想を抱いてるんですか」
「幻想じゃないよ。…帰ってくるさ、必ず」

おかしな話だが、惣介のこの言葉を全く疑わずに信じているのは唯一さよだけだった。家族も親戚も、皆が呆れかえったというのに。
だから、一緒にいられるのかもしれない。お互いに馴染めなくても、ただ一つ、切望しているものは同じなのだから。

「…日本は、今、何時頃かな」
「…もう夜の1時を回ってますね」
「……怒るかな。今頃」
「明日にしておきますか?」
「…いや、今日しておく。明日になったら出来るかわからないからな」

机に向かい、葉書にペンを走らせる。
「一ノ瀬 百合子様」と、いつものように書きだした。





ただ一人の、美しく優しい愛するひとへ。