「さよのこと、ずっと大好きよ」
あの言葉を、私は今でも忘れない。そしてずっとずっと信じている。きっとそれはどこを取っても嘘はないし、私は「彼女」に対して疑うということができない。
だけど同時にもう二度とその真意を問うことは出来ないことも知っていた。会うことは出来ない。会う「つもり」がない事がわかるから。ほとんど、絶望的に間違いなく。
あの日、お母さんは優しかった。あの日だけじゃない、お母さんはいつでも優しくてきれいだった。幼稚園でも小学校でも「さよちゃんのお母さんはキレイね」といつも誉められたし、私自身もそう思っていた。お母さんの事を誉められるのは自分の事を誉められた時と同じくらい嬉しかった。
私はお母さんが大好きだった。いつでもべったり、お母さんにくっついて歩いていた。そもそも家には私以外お母さんしかいない事がほとんどだった。
それはつまり、お母さんにとっても家の中で話をする人間は私だけだった、ということになるのだけど。
「今日は何がいい?」
それは、別に特別でも何でもない会話だった。何がいい?何が食べたい?そしてリクエストしたものをお母さんは何でも作ってくれた。お夕飯だけじゃない、毎日出されるおやつだって、いつもお母さんの手作りだ。お母さんは何でも「手作り」のものを私に与えたがった。それにかけては何かに張り合うみたいに、使命みたいにしてハンバーグもロールキャベツもケーキもババロアもせっせと作ってくれた。
だから、私は出来合いのレトルト食品や、駄菓子を食べたことがなかった。その時まで。
その日はシチューがいいって答えたはずだ。夜が来るのが早くなった秋ごろで、少し寒かったから。お母さんのクリームシチューが大好きだったから。
「あのね、コーンをたくさん入れてね?…でもブロッコリーはやだぁ」
「あら、好き嫌いはダメよ?大丈夫、小さく切るからさよでも平気よ?コーンはたくさん入れようね」
「それとね、またアレやってほしい!ニンジンをお花型に切るの」
「うん、じゃあそれも。…おやつはもう作ってあるの。フルーツタルト。さよ、好きって言ってたでしょう?」
「すごぉい!今日は好きなものばっかり!楽しみだなぁ!」
嬉しくてはしゃぐ私に見せたお母さんの笑顔はいつも通りで、非の打ちどころのない微笑みだった。きれいで、やさしい。
あの日、お母さんはずっと笑顔だった。だから、私は気付きようがなかった。
シチューをお腹いっぱい食べて、タルトも少しだけ。小さく一切れずつ食べただけのフルーツータルトはまだずっしりとたくさんあって「残りはまた明日食べればいいわ」とお母さんが冷蔵庫に入れた。 また明日。お父さんは出張でいない。よくある、いつも通りの二人だけのお夕飯。
ご飯を食べながら、私はたくさんの事をお母さんに話す。本読みが上手に出来たと先生にほめられたこと。給食にプリンが出たこと。好きな男の子がいる友達のこと。
特に友達との話を、お母さんはいつも聞きたがった。何故って、私は一時いじめられた事があったからだ。後から思えばそれはいじめとも言えない、本当に他愛もない、些細な事だったのだけど、私がうっかり「学校に行きたくない」なんて言ったものだからお母さんはそれこそ病気になりそうなくらい心配して大変だった。だから私も友達の事だけは慎重に選んで話した。
(思い返せば、やっぱり「そこから」だった。あの言葉を安易に言ってしまった事を、私は今でも深く後悔している)
「今日は、一緒に寝てもいい?」とお母さんは言った。お風呂上がりのお母さんはいつもクリームを付けるから、ふんわりと甘い良い匂いがする。私の大好きな匂いの一つ。
「何だか小さい子みたい」
「さよはまだ子供でしょう?」
「そんなことないよ。だってもう5年生だもん。来年からは6年生だよ?」
「…そうね」
ふわりと、何かが体に廻る。お母さんの腕だ。柔らかくて、白い腕。細い手が私の背中をきゅっと押さえた。お母さんの指先はとても細くて、爪はきれいなさくら色をしている。
大人になったらお母さんみたいな手になったらいいのにと、いつも思ってた。
「…明日。夕方になるけれど、お父さんが帰ってくるわ」
「ふぅん?そうなんだ」
「だから」
そこで、言葉が途切れる。変なの、と思ったけれども口にはしなかった。お父さんがいつ帰ってくるかなんて、お母さんがいちいち言わなくてもお父さんはいつもカレンダーに書いて行くのに。 お父さんはいつ帰ってくるのかとお母さんに聞かれるのを嫌がっていたから、だからそうしているのに。
私は軽く体の向きを変えた。少し息苦しかったから。
「…ねぇ」
「なぁに?」
「さよは、お母さんのこと、好き?」
「好きだよ?どうして?」
半分あくびをしながら、私はそう答えた。さらさらと、私の髪を撫でるお母さんの手が気持ち良い。だんだん眠くなってきた。
「そう。…お母さんも、さよが好きよ」
「うん」
「さよのこと、ずっと大好きよ」
それが、私とお母さんの間での最後の言葉だった。
目が覚めたら、お母さんはどこにもいなかった。すっかり、消えてしまったみたいに。
こんなことは生まれて初めてだった。ゴミ捨てだってお買いものだって、お母さんは私に黙って行く事は絶対にない。
昨日の残りのシチューもお鍋に残っていたし、フルーツータルトも冷蔵庫にラップがかけられて入ったままだった。
お料理の時にかけるエプロンも、たぶん昨日お母さんが来ていたパジャマも、お風呂上がりにつけるクリームも、何もかもあるのにお母さんだけがいない。
試しに「おかあさん」と呼んでみる。そうしたらどこかからかお母さんが出てきてくれると思った。
でも、何も変わらない。それどころかまるでその言葉自体を拒絶するみたいに家の中は静まり返っていた。そうして、私は知ってしまう。ここには私以外誰もいないこと。
誰も、戻ってこないということ。
それでも諦められなくてもう一度呼ぼうとしたら、今度はうまく呼べなかった。のどに、何かつっかえているみたいに声が出なかった。
お母さんの事を探しに行かなきゃと思う。でも、そんなことをしても無駄なのだと薄々感じてもいた。ただ、それだけは絶対に信じたくなかっただけだ。
お母さんが、私を置いて行ってしまったなんて、絶対に信じたくなかった。
(でも同時に知っていた。その手が「離されてしまった」ことを)
どちらにしても動けない。その時の私は、こぼれてくる涙を拭うので精いっぱいだったから。
お父さんが夕方帰ってくるまで、どうやって過ごしたかあまりよく憶えていない。
「何があった」と聞かれても、何も答えられなかった。疲れ果てて、もう涙だって出なかった。独りになった私はどうしていいかわからなくて、水の一杯すら飲めなかった。
残っていたタルトは、結局一口も食べられないまま捨てた。
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