離さない
家の外は、はっきり言ってほとんど知らない、未知の世界だ。仕事は家で出来るのだし、出掛ける用事もほとんどない。そんなだから、びすたの行きそうな所など見当もつかなかった。
俺はただ闇雲に走りまわった。普段運動なんかしない為に、足元がすぐに覚束なくなって息が上がりやがる。もう、自分がどこにいるのかもわからない。家に帰れるかどうかも怪しかった。
だが、別に構わない。びすたを見つけられないのなら、このまま野垂れ死にしたってかまいやしない。あいつにもう会えないのなら、俺だって生きている意味はない。あいつのいない世界に用は無い。
他人から見れば、俺は哀れな男だし、そして理解し難い人間だろう。かまわない。いいんだ、狂人だろうがなんだろうが、俺はあいつが居れば他には何もいらない。
昔98さんが、アナタは人間で、自分はメイドです、と言った時の哀しげな笑顔を思い出す。…もしかしたら、彼女は俺がいつかこんな風になってしまうんじゃないかと気付いていたのかもしれない。
(…それが、どうした)
あんたやびすたは、俺の知ってる人間よりもずっと人間らしかった。少なくとも俺にとっては、大切な存在だった。ただ聞きわけの良いメイドであるだけじゃ、なかった。
びすただから…あいつだから、俺はこんなに必死になるんだ。この感情は、誰にも理解されなくても、俺にとっては信じられる確かなものなんだ。
(…どこにいった)
日はとっくに落ちて、すっかり夜だった。あちこちの家から漏れ出る灯りが…、そんなもの、今まで一度だって羨ましく思った事なんてなかったのに、今では、まるで自分では手にすることのできない、神聖なものにすら見える。あたたかな光、欲しくて欲しくて、ずっと手に入れられなかったもの。…びすたが、俺に与え続けていてくれたもの。
余りに優しく、うつくしいそれを見ていると、泣きたい気持ちになる。また、俺はひとりだ。一人ぼっちの、帰り道のわからない、迷子。
走る事さえ出来なくなった俺は、ただあてどもなく彷徨い続けた。家を飛び出して、それからどれくらい俺はこうしているのだろう。まだ大して時間は経っていないはずなのに、もう長い間独りで歩いているような気がした。
「…どこ、行ったんだよ。あほが」
探さないと。あいつだって、独りでどうしていいかわからないでいるに違いない。自分で考えて動く事なんて出来やしない。それこそ、彼女はただのOSメイドなのだから。
歩く度に、足先から痛みが走った。爪の何枚かは割れているのかもしれない。熱を持って疼く足先は、悲鳴を上げるように痛みを与え続ける。だがその痛みで、朦朧となる意識を持たせていると言っても過言ではない。ふらふらとぐらつく視界の中、水の中でもがくように、ただ歩いていた。このまま放っておけば、いずれ痛みすら感じなくなって、腐って落ちるかもしれない。そんな馬鹿げた事をぼんやりと考えながら。
ふと、公園が目の端に映った。しばらく考えて、結局はそこへ向かう。いい加減、体をどこかで休めないともう限界だった。同じ野垂れ死ぬにしても、道端で無様に倒れたくはない。
ひんやりとした夜の空気が頬を撫でる。静かな、慎ましい空気。それはやけに心地よくて、あぁ本当にこのまま死ぬのかもしれない、と思う。たぶん、倒れこんだら終わりだ。もう立ち上がれるとは思えない。
「…っく」
微かに、耳に届いた声。声、というよりも、嗚咽?
濡れたように黒い地面ばかりを見ていた顔を、ゆるゆると上げる。耳を澄ました。…やっぱり、聞こえる。
ずきり、と、また痛みが走る。でも、今度は足じゃない。…それがどの部位からなのかは、はっきりとは説明がつかない。
(……あぁ)
生まれてこのかた、神なんて一度だって信じたことのない俺だったが、この時ばかりは、その存在に感謝してやまなかった。
神がいなきゃ、こんな奇跡、あるはずがない。
「…び、すた…」
無意識に、名前が口から零れ落ちる。
脱力感から、足から崩れそうになる体に鞭打って、俺はそこに近付いた。…しょんぼりと肩を落としてベンチに座り込むあいつの元へ。
近付くと、ツインテールの髪が不規則に揺れていた。泣いているせいだと知って、ますます胸が痛む。…そう、さっきから、俺は胸が痛いらしい。
「びすた!てめ、このっ……こんなとこにいたのかよ」
「ご、ごしゅじんしゃま…っ」
俺の声に、びくりと顔をあげたびすたの目は、涙に濡れて真っ赤になっていた。こいつは一体、いつからここで、こうして泣いていたのだろう。
びすたは、しばらく俺の顔をまっすぐに見上げ、それからくしゃりと顔を歪めた。こんな寂しそうな顔、見た事がない。
「あ…、でももう、ごしゅじんさまじゃ……ないんですね」
つまり、それは、びすたがもうメイドではないという事を暗に示した言葉なのだと、俺は理解した。昼間の、忌々しい組合からの電話を思い出す。
「だからなんだよ。お前の居場所、他にあるのかよ」
「………ぅ、い、いいえ」
小さな肩を、ますます窄ませて、びすたは俯いた。それでも、その場を動こうとしないびすたに、俺は軽く舌打ちした。
「ほら、帰るぞ」
「だ、だめです…っ」
「なんで?」
「だ、だって、びすたは、もうメイドじゃないんです…っ」
掴もうとする俺の腕を振り払い、また新しい涙を潤ませて、あいつは俺を見る。
「何も出来ない、役立たずなニンゲンになっちゃったんです…もう、お役に立てません」
心底哀しそうに、いっそ、聞きわけの無い俺に憐れみすら抱いているような表情で、びすたは言った。
全部を諦めてしまったような――まるで色の無い機械のような表情のびすたに、俺の心が燻ぶる。
振り払われた手を、もう一度伸ばして、今度こそ、その腕を掴んだ。
「お前はいるだけでいい。俺の傍にいろ」
「やっ…!だ、だって、ご主人さまには、あ、あたらしい、メイドを紹介するって…だから…っ」
「お前以外のメイドなんていらねんだよ!同じ事、何度も言わすじゃねぇ!」
『ニンゲン』になったらしいびすたの体は、けれど、夜の空気に晒されていたせいか、つめたかった。小さくて、やわらかで、別に、前と何も変わりはしない。
腕の中に引っ張り込んだ存在を確かめたくて、自然と力が籠る。
「…役立たずの人間でもいい。びすたが傍にいればいい」
「……っふ、うぇっ、ごしゅじんさまぁ…っ」
(…お前がいなきゃ)
「お前がいなきゃ、俺だってダメなんだよ」
おずおずと、遠慮がちに、けれど確かに背中に手が回るのを感じて、俺は目をつぶった。
世界が変わる。いや、正確には戻ってきたというのが正しいか。
…やっと、お前のところに、戻って来れた。
「…ふえぇ、それにしても、どうやってお家に帰りましょう、ご主人さま」
「さぁな。そのうち着くだろ。…ところで、それもうやめろ。お前はもうメイドじゃねぇし、俺はお前の主人じゃねぇ」
長い長い夜は、もう明けようとしていた。ただ黒かった空に、光が混じって白んでいく。
とんでもないだの、勿体ないだのと、ごちゃごちゃぬかすびすたを無視して、俺はあいつの手を引っ張って歩いていた。
手を繋がれたままのびすたは、困ったような顔をして俺を見上げる。
「で、でも、呼び方が…それ以外、何て呼べばいいか、わからなくて……!」
「…じゃあ、教えてやる」
そう言って、繋いでいた手を、自分の方に引き寄せた。たまたま通りかかった新聞配達がこっちを見たような気がするか、かまうものか。
「俺の名前は……」
終わり
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