帰レナイ
組合に行くのは今月2度目です。緊急のおしらせとあったけれど、一体どうしたんでしょう。
(今日の晩ごはんは何にしましょうかねぇ…)
道すがら、ずうっと献立や、おそうじの事や、ゴミの日が変わった事なんかを思い浮かべていました。もちろん、大切なことは全部きちんと憶えていますが、一応確認しておくのは大事な事です。
(もしかしたら、中華はいいかも、です)
ご主人さまは辛い中華料理が大好きで、時々作ると喜んでくださいます。あと、ゼラチンの舌触りじゃない杏仁豆腐も。
(不思議……)
最近、とても不思議なのですけど、びすたはご主人さまが喜んでくれるのがとても嬉しいのです。あ、もちろん、仕事内容を褒めて頂けるのはメイドとして誇らしい事ですけど、でも、それだけじゃなくて。
例えば、お食事でも完璧な栄養バランスを保持するためには、ご主人さまのお気に入りの献立ばかりでは成り立ちません。その場合は、ご主人さまの体調を優先して、それほど喜ばれないものでもお出しする必要があります。
でも時々、そっちを後回しにしてしまう事があるのです。ご主人さまが喜んでくださるなら好きな献立ばかりでもいいかな、と。だって、そうして喜んでくださるご主人さまを見るのが、びすたはとても好きだから。
すきだから。
「…ん」
ちくりと、胸が痛いような気がして歩くのをやめました。ご主人さまには内緒だけれど、時々こうして胸が痛いような時があります。何故かしら?
もしも、何か異常があるならきちんと直してもらわないと。お仕事中に不具合が出て「このポンコツ!」と組合に返されたりしたら大変です。
びすたには、ご主人さま以外のところには居場所はないですから。
組合は相変わらずひんやりと冷たいところでした。ここは「元いた場所」だけど、今となっては少し緊張します。着いた瞬間に、ご主人さまのいるお家に帰りたくなります。
「…名前は?」
「びすたです!健康診断のお話で来ました」
受付で名前を告げてそのまま通り過ぎようとすると、「ちょっと」と引き留められました。
「そっちじゃないよ、今日はあんたはこっち」
「え?でも、いつもは…」
「いいから。…あんたは、もう健康診断を受ける必要はないんだ」
「………?」
わけがわからないまま、告げられた通りの道を歩きました。こっちは…こっちは確か、「おじさま」のいるお部屋の。
「…びすたっ…!?」
「ほわぁっ!…え、XPさん?」
通路で出会ったのは、びすたの先輩メイドのXPさん。XPさんはとても優秀で、びすたがあっちこっちから「いらない」と返された時に、代わりにお仕事を引き受けてくれた恩人のような方です。
XPさんは血相を変えてびすたの腕を取り、それからまた一層血の気が引くように顔色が変わったのです。
「…あ、あの、だいじょうぶですか?お顔の色が…」
「…あなた…、じゃあ、やっぱり本当に…!?」
XPさんの目に、みるみる涙が溢れてきたので、びすたは本当にびっくりしました。あの優秀なXPさんがこんなに取り乱されるなんて、何かあったんでしょうか。
ぼろぼろと涙をこぼしながら、XPさんは怒ったように眉を吊り上げてびすたをにらみます。「ばか!」と言われました。
「…どうして、どうしてノコノコここに来たりしたの!?それに、もう…もうこんなのじゃ取り返しがつかないじゃない…!」
「ど、どうされたんですか?びすたには、何の事だかさっぱり…!?」
「…あの男なの?」
「…はい?」
「あんたの主人が、あんたをこんな風にしちゃったの?」
ご主人さまが?びすたのことを?こんな風?
何のお話でしょう。あまりに突然の事に、情報が上手く処理できません。
「い、一体、何の…!」
「びすたちゃん」
低いしずかな声がびすたの名前を呼びました。すごく良く知っている声のはずなのに、まるで知らない人の声みたいに、暗くしずんでいます。
その、しずかな声に、けれどびすたの肩を掴んでいたXPさんは、びくりと手を強張らせたのがわかりました。…まるでおじさまを怖がるみたいに。
「…おじさま」
ここにいる時、ずっとびすたをかわいがってくれたおじさま。「かわいくて、ゆうしゅうなメイドさんになるに違いないよ」と、いつも声をかけてくださった優しいおじさま。
いつもにこにこしているのに、今日はどうしてこんな哀しそうな顔をされているのでしょう。
「待って…待ってよ、おじさん!違うの、びすたはまだ何も気付いてない…!」
「…先に気が付く事なんて出来ないんだよ。だからこそ、常日頃から気を付けておかなきゃいけない。…それに、お前だって見ればわかるだろう。もうここまで『浸食』されていては、私たちじゃあどうにもできない」
びすたとおじさんの間に割って入って涙声で「おねがい、待って」と言うXPさんに、けれどもおじさんはゆっくり首を振りました。そして、びすたをじっと見つめてから、静かに言いました。
「びすたちゃん、あんなに気を付けなさいと言ったのに…。あぁ、でも、それも仕方がない。恋とはそういうものだから」
「…………こい?」
「お前は、もうメイドじゃなくなったんだよ。ウチじゃ面倒みれなくなってしまった」
「……え?」
メイドじゃなくなる?言葉としてはちゃんと聞きとれたはずなのに、うまく理解できません。わぁっ、と、XPさんの泣く声が遠く聞こえました。実際はとても近くに、目の前にいらっしゃるのに。
おじさまの、淡々とした声だけが、その場に響いていました。
「お前は恋をして、メイドではなくただの人間になってしまったんだ。だから、お世話になっていた家には戻ってはいけない。あの方の所には新しいメイドが行く事になるからね。こことの契約も切れるから、ここにももう戻ってきてはダメだ。それ以外は、どこへなりと好きな所に行くといい」
家には戻ってはいけない。戻っては、いけない。
ご主人さまのところに、帰れない。
「でっ、でも…今日…わたし、お夕飯の用意もしていなくて…」
――お前のいる場所は、ここだ。どうせヨソじゃ役にも立たないポンコツなんだから。
こんな時に、びすたはどうしてご主人さまの顔と声ばかり思い出すのでしょう、わかりません。
きっと、今だってご主人さまはびすたの帰りを…だって、ご飯だって作れないし、お洗濯だって出来ないし、珈琲も飲みすぎて、タバコも吸いすぎて。
だから、だから戻らないといけないのに。
「今はまだデータが残っているのかもしれないが…それもじきに消えるだろう。もう、お前は人間だからね」
もう、たくさんの事を一度に憶えることも、それを忘れずにいることも、出来ない。必要が無い。
ご主人さまのお役に立つことは出来ない。傍にいることはできない。
「こんな別れはしたくなかったけれど…せめて、どこかで幸せに」
おじさまは最後それだけ言って、背中を向けて行ってしまいました。XPさんは、去り際にびすたを一度だけぎゅっと抱きしめて。
「でも…帰らないと…。だって、行くところ、なんて…」
びすたはいつまでもそこから動けずにいました。涙がどんどん勝手にあふれてきて、でももうその止め方さえ、びすたにはわからなかったのです。
「あえない」へ