夜。志波は自室で携帯電話のディスプレイ画面ををじっと見たまま、かれこれ30分はこうしてにらめっこをしている。

画面に表示されているのは「海野あかり」の文字と彼女の電話番号だ。さっきから電話をしようとし、そしてその度にためらってこうしてにらみ合っているというわけだ。
誰かに電話をするという事が、こんなにも困難になるとは今まで生きてきて思いもしなかった。もちろん、それは相手によるわけなのだが。

(…あいつの神経がわからん)

自分は彼女に電話をかける事だけでもこれだけ時間がかかっているのに、彼女ときたら、まるで何でもない事のように(実際何でもない事ではあるのだが)ほいほい電話を掛けてきて、やれ森林公園だ、遊園地だと自分を誘う。
さすがというか何というか、それが彼女の、彼女たる所以でもあるのだが、それにしても比べて自分のこの不甲斐なさはどうだろう。

(いや、普通だよな。あいつが考えなしなだけだ)

仮にも想いを寄せる相手に電話をして、しかも休日出かけないかと誘うわけだから緊張くらいしても笑われないと思う。彼女を基準に考えるからおかしな話になるだけだ。
志波はもう一度深く息をついてから、ちらりと壁にかかる時計を見る。もう10時を回っていた。これ以上遅くなったら電話出来なくなる、そう思い、半分は勢いで通話ボタンを押した。

何回かのコール音のあと、ふつり、と、向こうに繋がるのがわかる。それだけで、心臓がいつもの3倍くらいの速さで動いている気がしたが、志波は努めて何でもない声で「もしもし」と言った。こういう時、自分のあまり感情を表に出さない性質には感謝したくなる。

『もしもし?』

耳に飛び込んでくる声を聞いて彼女だとわかると、志波は少し気が楽になった…が、反面、妙な感じもした。彼女の声は、こんな感じだっただろうか。それっぽいが、どこか違う気がしてならない。

「あぁ、あの、志波だけど…」
『えっ、志波くん!?じゃあコレあかりの携帯なの!?』
「はっ!?」

聞き捨てならない言葉が返ってきて、思わず志波もつられて反応してしまった。「あかりの」という事は、今、自分と会話しているのは少なくとも本人ではないのだ。ということは、つまり。
背中に嫌な汗が流れるのがわかる。ああ、冷や汗ってこういう時にかくんだな、と妙に冷静に思ったりした。
しかし、そんな志波の気持ちなど全く気付くことなく、電話越しの相手――海野あかりの母は「ごめんなさいねぇ」と、言葉の割には実に楽しそうだった。

『私もあの子も同じ機種なものだから、間違えちゃって。だって、リビングにほったらかしてるんだもの。…あぁでも、ごめんなさい、驚かせてしまって』
「………いえ、別に」
『何だか、志波くんには随分お世話になってるみたいで、志波くんにはいつも助けてもらってるって、あかりが。引っ越して来てお友達が出来るか心配だったんだけど、良かったわぁ。本当に仲良くしてもらってありがとうね。今度、うちにも遊びに来てちょうだいね?』

この、冗談だか本気だかわからない無邪気な発言は母親譲りだったのかと、あかりのルーツを垣間見た気分になりつつ、はぁ、と志波は生返事を返す。実際、あかりの母親に会ったことはないのだが、会わなくてもこの会話だけで充分想像がつくというものだ。
志波としては、早く娘の方と話をしたいのだが、何となくこちらからそれを切り出すのは悪い気がして口に出来ない。何より、あかりの母親なのだ。下手な事を言って折角の好感度を下げるわけにはいかない。今のところ、それほど悪くはなさそうだし。
しかし、さすがにあかりの母親も状況を察したのか「やだ、ごめんなさい」と更に続きそうだった話を止めてくれた。

『志波君、あかりに用事があったのよね?おばさんと話してもしょうがないわよねぇ』
「…………いえ」
『でもねぇ、あの子今、お風呂入ってるのよ。ついさっき入ったところだからまだ時間かかると思うわ』

(……ふ)

風呂!?とは、心の中だけで叫んだ。次の瞬間に頭の中であかりの入浴している姿が思い浮かび(勿論見た事はないのであくまで想像だが)、だが、それを大慌てで打ち消す。彼女の母親と電話越しとは言え、こうして話している時にその娘の裸を想像するなんて、何と言うか物凄く酷い事をしている気がする。
しかし、あかりの母は黙りこくってしまった志波には気付かず「ほんとねぇ、女の子って長風呂だから」などと暢気なものだ。

『あかりが上がったら折り返しお電話するように言っておくわね?それとも、私で良かったらあかりに伝えておきますけど?』
「……………………いえ」

さすがにデートの誘いを母親に伝言する気にはなれず、「いえ、大した用じゃないので」と何とかそれだけを言い、失礼しますと電話を切った。そして、そのまま部屋の床に倒れ込んだ。
真夏の炎天下で試合をした後でもこんなに疲れた事はない、と志波はげっそりしながら、ほんの少し恨めしい気持ちで携帯電話を見る。それから、がっくりと項垂れた。







(…………負けた)







それから一時間後、あかりから折り返し電話が掛かってきたのだが、「ごめんね、さっきまでお風呂入ってて。今、上がってきたところなの。それで、用事ってなぁに?」とこれまた暢気な声が聞こえてきて、志波は今度こそ「勘弁してくれ」と音を上げるはめになった。

















まだ慣れない電話