泳ぎ疲れた日々に、どうか






11月を過ぎると、シーズンも終わり日程的には楽になる。今のチームでの更新も決定した、が、「出来れば1軍に戻ってほしい」というのがチーム側の意見だった。
「何よりもファンが待っているのだ」と言われれば返す言葉もない。ありがたい事だと思う。
あかりの事を、世間に公表するつもりはなかった。取材させてほしいと言われたこともあったが丁重に断った。自分の立場から考えると、引き受けても良かったのかもしれない。
同じような事で苦しんでいる人の為に、そして野球から距離を置いている事情の為にも。
けれど、どうしてもその気にはなれなかった。バカバカしい話だが、今この時になって俺は、あかりが自分のものであることを実感しているのかもしれない。
今のあいつは一人ではどこにも行けないし(その意志も希薄だ)、何も出来ない。
症状は緩やかに、けれど確実に進行していた。忘れるどころか、周囲に対しての興味も段々無くなってきているような気がする。それでも、あかりは俺の傍から離れることはなかった。むしろ離れることを嫌がった。


そんな事に少しでも優越を感じるなんて、俺は本当に最低だ。


そんな、穏やかな、けれど未来の無い日々に動きがあったのは最近の事だ。


「…治せる、って、本当、なんですか」
「もちろん確実ではないです。でも、可能性はゼロではない……リスクも、無いわけじゃないけれど」


若王子先生は、そう言葉を切ってふとあかりの方を見る。それから柔らかに微笑った。切なげだった。
先生には、色々と個人的に世話になっている。本職の教師が忙しい中、あかりの事も気にかけてくれていた。
実は、先生は今までずっとあかりの症状の事を調べ、さらには以前在籍していたアメリカにある機関へコンタクトを取り、今回の「治療」の話を現実のものとしてくれたのだった。詳しくは知らないが、それは先生にとっては迷惑になるのではないかと懸念したが、若王子先生は問題ありませんと首を振った。「何よりも、生徒の事が僕にとっては一番ですから」、と。


「…どうするのかは、君に任せます。僕は専門が違うからはっきりとは言えませんが…失敗した場合、彼女の病状はきっと取り返しのつかないところまで進んでしまう。けれど、うまくいけば…すぐに完全に元通りというわけにはいきませんが、ほぼ正常な状態に戻れるようです。…確率は五割と考えてほしいと、向こうからは答えが来ました」


五割…本当に、一か八かだ。


「でもね、こんな風に言うと君は怒るかもしれないけど…、僕は、彼女なら行くんじゃないかと思うんです。もちろん楽観視できる状況じゃない。けれど…彼女ならそうするんじゃないかと。だって、この子は、今も闘っているから」
「…………たたかう?」
「そうです。彼女は、君への想いだけで、ここにいる。そうして、闘っている。僕にはそう見えるんです」





「たたかっている」。その言葉は、頭から離れなかった。
もう、それは終わったんじゃないのか。今はもう、ただ穏やかに安らかに過ごしているんじゃないのか。あいつの心は、もう何にも煩わされることなんてないんじゃないのか。


がたり、と、何かがぶつかる音が室内に響く。思考はそこで断ち切れて、俺はあかりの姿を探した。見れば、飾り棚の方へ手を伸ばしている。その拍子に色々と物を落としたらしい。


「何してるんだ?」
「…あれ、ほしいの」


俺の方を見もしないで手を伸ばす先には、黒いうさぎのぬいぐるみ。俺が、随分昔にあかりにあげたものだ。確か、ホワイトデーか何かで渡したんだと思う。「宝物だから」と言ってあかりはあれを大事にしていた。


「あれ、わたしのなの。ダイジなの」
「…わかった。今、取ってやるから」


棚からそれを取って渡せば、あかりは満足そうに微笑み、それを胸元で抱きしめる。その仕草は、まるで幼い少女だった。20代後半の女の取る行動じゃない。


「あかり、こういう時は何て言うか憶えてるか?」
「なに?えっと…アリガトウ?」
「そう。良く出来たな」
「うん!ありがとう」


嬉しそうにそう言うあかりの頭を撫でながら、床に散らばったものを拾おうとして、あるものに目が止まる。


A4サイズの茶封筒。少し前に水島から受け取ったものだ。「あかりちゃんから預かっていたのだけど」と言って、彼女が渡してくれた事を思い出す。


「貴方には見せたくないからって…、でも、私はやっぱり貴方が持つべきだと思うの。そして、知る権利があると思うから」


そう言って、渡されたのだ。何の事かと思ったが、あれから結局開けずじまいだった。あかりが見せたくないと思ったものなら、敢えて見る必要はないとも思ったのだ。
けれど、俺はその封筒を手にして、ハサミを入れた。魔がさしたとでも言うのか、それとも、好奇心には逆らえなかったか、どっちかわからないが、どっちでもある気がする。開け口はガムテープで巻いてあり、手で開ける事は出来なかった。中身は、どこにでもあるような大学ノート。


表紙を開けば、そこには懐かしい字が並んでいた。丸っこい、けれど几帳面そうな、あかりの字。


そこには、「病気」になってからのあかりが書いたものらしい。日付を見れば、予測できる。
初めの方は、日付もきちんと書いてあって、何をしたとか、誰に会ったとか、ありふれた内容だ。病気の事にも触れてはいるが、さほど詳しくは書かれていなかった。俺の事も時々書いてあったりして、懐かしくて微笑ましくて口元がつい綻んだ。
けれど、初めの方こそ何て事はない内容だったが、それはページを捲るごとに様子が変わってきた。


まず、日付が曖昧になる。字もだんだん雑になってきた。走り書きでメモしたみたいなものもある。


「思い出せない」、「わからない」、「怖い」、そんな単語がしばしば出てくるようになった。


――時々、本当に何も思い出せなくて混乱する。そういう時は名前を思いつく限り言う事にする。あかり、勝己、ひそかちゃん、ハリー…。

――今日も家までの道がわからなくなった。怖くなってお母さんに電話する。こんなの勝己くんには言えない。

――いったい今日はいつだろう。わからない。現実か夢かもはっきりしない。いつか、このノートも書けなくなるかな。怖いよ。かつみくんの事まで忘れちゃうの、いやだ。わすれたくない。どうして私、ちゃんとおぼえていられないの。
このままじゃ一緒にいられない。ずっと一緒にいたいのに。
誰かたすけて。ここにいたいよ。


ここにいたい。






「……どうしたの?」


掛けられた言葉で、我に返る。視線を移せば、そこには困ったような顔をしたあかりが突っ立っていた。黒いうさぎのぬいぐるみを胸に抱いたまま。
何でもないと声を掛けようとして、だがそれは喉につかえて出てこなかった。喉の奥が引き攣る。


すい、と、あかりの手が頬に触れる。冷たく感じるのは自分の顔が熱くなっているからだと自覚する。
頬も、目の中も熱い。喉が痛い、心臓が痛い。


「……泣かないで?」
「……っ」


答える代わりに引き寄せて、力いっぱい抱きしめる。そうしなければ大声あげて泣いてしまいそうだった。
どうしていつもこうなんだろう。
俺は、お前を守っているつもりでいて、いつもお前に守られているんだ。お前が独りでこんな思いでいたなんて、知りもしないで。


「…ご、めん。ごめんな」
「…なか、ないで。……泣かないで、かつみくん」


「闘っている」という、昼間の若王子先生の言葉を思い出す。今でも、そうなのだとしたら。お前がまだ、諦めていないのなら。


困り果てた顔をするあかりに、俺は出来る限り笑った。それから、その口唇に軽くキスをする。ただ触れるだけのキスは、それでも、随分と久しぶりだった。





もう、答えは決まっている。


























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