ずっと、そばにいる。
春先の空は青く淡い。ずっと降っていた長雨が今日は綺麗に晴れていた。ハンドルを握る腕にはめている腕時計で時間を確かめる。約束の時間には、まだ少し余裕があった。
見慣れた家の前に車を停め、インターフォンを押す。名前を告げると同時に、玄関のドアが勢いよく開いた。
「志波くん!」
嬉しそうな笑顔で駆け寄るあかりに、俺も笑いかける。今まで通り、変わらず。
抱きつくような勢いで、けれどあかりはそうはせずに目の前でぴたりと止まった。
「久しぶりだね!今日は、一緒に出掛けるの、楽しみにしてたんだ」
「ああ、俺もだ」
「でも、迎えに来てくれなくても私ちゃんと待ち合わせ場所に行けるのに。…お母さんが待ってろって言うから」
「車で行くからな。家に迎えに来た方が早いだろ」
あかりは、車を見て目を輝かせて「志波くん、免許とったんだぁ!」と俺にとびきりの笑顔を向ける。
変わらない笑顔。
こうして車を見るたびに、あかりは免許の事を喜んだ。「助手席に乗せるって、約束したろ」と、俺の中ではお決まりになっている言葉を言いながら、彼女を車に乗せる。
初めてそう言って、乗せてやったのは何時だったろうとふと考えた。あの時も海に行った。思った以上に緊張して、こいつを送り届けて家に帰り着いた時、吐きそうになったのを憶えている。
俺の車の助手席には、もう随分前からこいつしか乗せたことがない。
「ねぇ今日はどこ行くの?」
「『珊瑚礁』だ」
「『珊瑚礁』?なぁに?何のお店?」
「喫茶店だ。…そこで皆で集まることになってる」
「みんなって?……志波くんの友達?」
言葉の最後に不安げな響きを滲ませるあかりの頭を、俺は軽く撫でた。しっくりと手に馴染む感触。さらりと手に触れるあかりの髪は心地良い。これだけは変わらないのだと確信できるもの。
「…なんか緊張するなぁ。私、初対面で仲良く出来るかなぁ?」
「仲良しになるのは、お前の得意技だろ?」
「志波くん、それって誉めてるの?」
「さあ?どっちだろうな」
「もう!またからかってる!笑いごとじゃないんだから!」
そう言って頬を膨らませるあかりに、俺は堪え切れずに吹き出した。それはあまりにも自然な会話で、そしてそういう事は時折あるのだ。その度に俺は自分のいる世界が虚構か現実かわからなくなる。今までのは長い、そして悪い夢だったんじゃないかって。ついさっき瞬きをした瞬間に、俺は本当の世界に戻って来れたんじゃないかって。
もちろん、今となってはそんな馬鹿げたことは考えない。ただそんな事を考えてしまうくらいには俺も動揺して、足掻いていたということだ。
今ではもう、俺の心は惑う事すらない。これ以上、動く事はない。
「ねぇ今日はどこ行くの?」
「『珊瑚礁』だ」
「『珊瑚礁』?なぁに?何のお店?」
「喫茶店だ。そこで皆で集まることになってる」
「みんなって?志波くんの友達?」
「………まぁな。でも、まだ少し時間があるから、寄り道しよう」
本当は、お前の友達でもある、というのは言わずにおく。今日はたくさんの人に会うから、その前から混乱させるのは良くない。
「言葉にはくれぐれも慎重に」とは、医者からの助言だ。何がきっかけで「壊してしまう」かわかりませんから。
俺とあかりが出会ったのは高校に入ってすぐ。付き合い始めたのは今から10年前。結婚をしたのは6年前の今日。
ふと、去年の今頃の事を考える。あの頃は、まるで嵐みたいな日々だった。
あかりの「病気」は、かなり進行するまで俺は気付く事が出来なかった。その事は、今でも悔やみきれないし許せない出来事として俺の心に深く喰い込んでいるが、医者に言わせればそれは仕方の無いことであり、例え早期に発見できていたとしても結果は変わらないのだと言われた。そもそも原因がわからない。だから治すことも出来ないのだと。
専門の病院への長期入院(と言う名の隔離でもある)を勧められたが、きっぱりと断った。親戚中から離婚の話が出たが(海野の義母から言われた時はさすがにショックだった)、それも聞く耳すらなかった。
俺が、こいつと別れるなんて、死んでもないことだ。
野球は、やめるわけにはいかない。それは、何よりあかりとの約束でもある。だが、今までのように頻繁に家を空けることはできない。チームに頼み込んで2軍に回してもらい、それでも家をあける時は今日のように、あかりの実家に預けることにしている。もう、あかりは俺の母親の事もわからない。
去年の秋頃から、あかりは俺を「志波くん」と呼ぶようになった。あの時感じた思いはどう言葉にしていいかわからない。朝、起きてきてあかりは俺を見て言ったのだ。「おはようしばくん、やきゅうぶのれんしゅうであさはやいの?」と。不思議そうな、ただ無邪気な瞳に何も返せなかった。途方もない驚きとかなしみが言葉を失わせた。
しかし、病気の進行具合から考えると俺の事を覚えているというのは奇跡に近いことらしい。現に、羽学で一緒だった奴らの事をあかりはもう誰一人して思い出せない。帰国して会いにきた水島に「こんなきれいな人、初めて見た」と言い、もうとっくにプロとしてデビューして人気もある針谷が歌を歌ってやっても「こんな凄い人がどうして私に歌ってくれるの?」と言った。その時針谷は泣いた。アイツがあんな風に泣くのを俺は初めて見た。
だが、そんな事ももう、あかりは思いだす事はないだろう。
「…わー、すごく綺麗な海!こんな所があったんだね、知らなかった!・・・あそこに見えるのが『珊瑚礁』?」
「あぁ…こら、走ると転ぶぞ」
「だいじょう・・・わわっ」
砂浜は足もとが頼りない。俺は、あかりを後ろから支えて…後ろから抱き締めた。腕の中の小さな体が、びくりと強張る。以前のように、躊躇いなく体を預けられることはない。俺にとっては出会って10年経った人生の伴侶であっても、あかりにとって俺は「ただの友達の志波くん」なのだ。あの、灯台での告白の前の。
「ど、どうしたの志波くん。急に、びっくりしちゃった」
――今日からは「勝己くん」だね。なんか照れるなぁ…。
「…あかり」
――私のこと、死んだと思って忘れて。勝己くんのことを忘れてしまった私なんて、私じゃないもの!
「…大丈夫だ」
「志波くん?」
春とはいえ、海風はまだ少し冷たい。その風が、何もかも攫っていってしまいそうで、あかりを抱く腕に力を込めた。頼むから、もうこれ以上何も奪わないでくれ。
「俺、お前が好きだ」
「………え?」
何度だって言える。忘れてしまうなら、その度に告白してやる。いつか俺のことを忘れてしまっても、もう一度、10年前のあの瞬間からやり直してやる。
だから。
「だから、離れない。・・・ずっと、お前のそばにいる」
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