幸福論






神様なんて信じない。





まだ誰もいない『珊瑚礁』で、佐伯瑛は一人で裏のキッチンに立っていた。(厨房、というには少しばかり大仰な気がするのだ、この「台所」は)
今日の『珊瑚礁』は貸切りだ。志波勝己、あかり夫妻の結婚記念日にかこつけて、羽学の同窓会をするのだ。かつての仲間たち(という言葉は、佐伯は心の中でしか使わないが)
の中で一番早く結婚したのがあの二人だった。大方予想はついていたし期待を裏切らないバカップルだと呆れもしたが、それでも式に出席した時は心から祝福する気持ちだったし
うっかり感極まって泣きそうになった。(しかもそれを針谷に見つかり「やっぱお父さんかよ!」とからかわれたのは最悪の想い出だ。革靴で思いきり足を踏みつけてやった)

海野あかりは、高校時代ここでずっとバイトをしていた。故に、佐伯にとっても心を許せた存在で、そういう意味では大切な存在だった。ただの女友達とは違う。

恋愛ほど温度の高い感情じゃない。けれど友情よりはもう少し身近な感情だった。何より、彼女は自分の心に光をくれた。逃げ場のない海でいよいよ溺れそうになっていた自分を、
引き揚げてくれた。

だから、やれ二次会だ、同窓会だといかにも軽薄なノリの集まりにだって、佐伯は苦々しい顔をしながらも毎年断ることはない。そんなつもりは毛頭ない。
うまく説明出来ないけれど、彼女の幸せは自分にとって自然に存在するものだ。太陽が朝昇って夜沈むのと同じように、海が満ちたり引いたりするのと同じように。
当然のようにしてあるもの。なければならないもの。そうでなければこの自分も苦しくなるもの。
そしてそれは、何故かはわからないけどここに集まる者にとってはごく自然にある感情だった。


「………っ!」


オーブンから取り出したばかりの皿に指が触れたらしい。指先に残る痛みにも似た熱に、佐伯は顔を顰めた。どうにも気分が晴れなくて空気でも入れ替えようと、窓を開けた。
そこから見える空と海。いつもなら胸のすくような美しい青も、今日はやるせなさと、怒りすら感じた。この世には神さまなんてやっぱりいない。
もしもそんな奴がいたら殴りつけてやりたいと佐伯は思っていた。世の中全部を平等にだなんて無理は言わない、だけど、不幸を与える相手を絶対に間違えている。



一番に着いたのは、針谷だった。彼はあれから本当にメジャーデビューを果たし、今では本物の「スーパースター」だった。


「さっすがオレ様!こんな所でも一番とはな!」
「一番てか、早すぎんだよ。30分前だぞ?まだ準備中」
「何だよ、ケチケチすんなバリスタ!俺、この間ココの事テレビで宣伝したろ?」
「その節は本当にありがとうございました。針谷さんのお陰で、うちの店も大盛況でした。…元々繁盛してますけど」
「うわ!営業スマイルキモいって!」
「キモい言うな。…まぁ、感謝してるよ本当に。仕方ないからコーヒー淹れてやる」


何がいい?と聞けば、オススメでと即答が返ってくる。その一瞬後に、牛乳入りな!と聞こえた声に、佐伯は苦笑を抑えられない。


「まだ飲めないのかよ、スーパースターさまは?」
「るせぇな!苦いのダメだし、ここ以外で飲む気しねぇし」
「そりゃどうも。…牛乳入りって、あかりと一緒だな。アイツもここでバイトしてたくせに飲めなかった」


ふと出た彼女の名前に、けれど針谷が一瞬反応したのを佐伯は気付いてしまった。部屋が、しんと静まりかえる。波の音と、コーヒーメーカーの音が、やけに響いた。
スツールに腰掛けた針谷は、窓の外を見ていた。口元には笑みすら浮かんでいた。穏やかだった。それは諦めた後にくる穏やかさなのだと、佐伯にはわかる。


「…なぁ佐伯さ、最近アイツに会ったか?」
「さぁ。良く憶えてないけど…まぁ丸一年は会ってないな…去年は集まらなかったし」


悪いがキャンセルしたいんだと、去年は志波から断りが入ったのだ。あんな疲れた志波の声を、佐伯はその時初めて聞いた。
実際、あいつはどんな気持ちだっただろう。考えただけでも心が押し潰されそうだった。


「そうか。…俺はさ、今年のアタマに会ったんだ。ちょっと時間があったから、様子見ようと思ってな…それで」


そこで、針谷は不意に黙り込んだ。佐伯は黙ったままだ。相槌も打たないし、続きも促さない。それは、出来なかった。
ははっ、と、針谷は少し笑ってから、殊更明るい声で言った。もちろんそれは、初めの数秒しか持たなかったけれど。


「こんなん言ったらさ、お前ぜってぇ笑うだろうけど……俺、マジで泣いたわ。泣くなんてさ、ダセぇし、何より志波やあかりに悪いってか…失礼だろ?だから…
だから、ダメだって思ったけどさ。止められなかった。だってアイツ、俺見てすげぇ不思議そうな顔するんだぜ?俺の事、もう何にも憶えてねぇんだアイツ。……なんにも」


また言葉が切れた。その後に微かに聞こえた嗚咽を堪える音に、佐伯は息を吐くしかなかった。こんな風に泣ける針谷は、やっぱり馬鹿みたいに善良で、優しい奴なのだと思う。
もう自分は、泣くことすら諦めてしまった。「笑わない」と佐伯は呟いた。そんな風に言う針谷に腹立たしささえ感じながら。


「笑わないよ。…誰が笑うかよ、お前を。そんなヤツいたら俺が殴ってやるよ」


ああ、本当に殴ってやりたい。良い奴ほど苦しんで、悲しむんだ。あかりの不幸を泣いて悲しむ針谷も、あかりの傍で耐える志波も、そして治る見込みのない病になってしまったあかりも。
嘘の吐けない、他人の事を思える、善良な、愛すべき人達ほど。誰よりも幸せに近くなければいけない者ほど。


どうしてアイツなんだ。どうしてアイツらなんだ。
誰か他の人間が代わりに不幸になればいいなどとはさすがの佐伯も思えない。それは、その本人が向き合わなければいけない事だというのもわかっている。
けれどあんな、抱え込むには大きすぎるかなしみを、何の理由があって彼女たちが与えられなければならないのか佐伯には納得いかないだけだ。
「結婚するの」と報告してくれた時も、ここを再開する時に「よかったね」と言ってくれた時も、それより昔、ここでバイトをしていて志波の事を話していた時も。
アイツは何時だって何も躊躇うことなくただ幸せそうに、夢見るように笑っていたのに。


「…でも、今日は泣いたりするなよ?せめて俺達は笑ってやらなきゃ。楽しい想い出にしてやらなきゃ…アイツが、忘れないくらいにさ」


俯いて黙り込む針谷の前に、淹れたコーヒーを出してやった。もちろん、ミルクをたっぷり入れて。





志波の後ろで「こんにちは」と挨拶をするあかりは、どこか不安げな顔をしていた。知らない人間ばかりなのだと思っているのだろう。
ここに来る人間で、あかりを良く思わない者など誰一人としていないのに。佐伯はかなしいような呆れるような気持ちでそれでも笑顔で「はじめまして」と挨拶する。はじめまして。
そんなの、本当に初めて会った時ですら言った事はなかったのに。針谷は何か言いたげな顔で佐伯を軽く睨んできたが、あえて気が付かないフリをした。
針谷はああいう奴だから、「初めてのフリ」なんて抵抗があるのだろう。自分はさすがに高校3年間鍛えただけあって、こういうのは簡単に出来る。胸中にどんな葛藤があったとしても、だ。


「…ここの店長さんなんですか?」
「ええまあ。出来れば『マスター』でお願いします」


冗談めかしてそう言って笑ってやれば、緊張が解けたのか、あかりもにっこりと佐伯に笑いかけた。
その笑顔だけ見ていれば、何も変わらないように思えるのに。


「今日はいいお天気ですね」
「ええ。人魚が出てきそうな日だ」
「人魚?どうして?」


きょとんとして問い返すあかりに、佐伯は用意していたジュースを渡しながら頷く。志波は、針谷と何やら話し込んでいるらしかった。


「ずっと昔、僕はここで人魚に会ったことあるんですよ。丁度、今日みたいな良く晴れた日で。……道がわからないって言って」
「人魚が?ほんとうに?」
「……なんて、ね。でも、人魚の伝説は確かにあるんですよ」


しまった。少し感傷的になってしまった。落ちかけた声のトーンを、佐伯は無理やり営業用に引っ張り上げる。
素の自分を、出したくない訳ではない。ただ、こうしてどこかで演じていないとやりきれなくてここにはいられない。
あかりは不思議そうに佐伯を見ていたが、一瞬だけ志波の方に視線を向けてから、佐伯の方を見た。


「あの…えぇっと、マスターさんは志波くんのお友達、なんですよね?」
「そうです」
「あの、じゃあ…じゃあ、一つ聞いてもいいですか?」
「何でしょう?」
「…志波くんって、…す、すきなひととか、いるんですか?」
「は?」


予想外の質問に、思わず素で問い返してしまった。あかりは慌てたように「やっぱり何でもないです!」と顔を赤くして手を振っている。
そうして恥ずかしがる姿は、昔の羽ヶ崎の頃を思い出させた。針谷の話では志波の事は憶えているらしいと聞いたが、もしかして彼に関してもどんどん時間が遡っているのか。


――好きな人とかいるのかなぁ。
――うるさいバカ。早く仕事しろ。
――痛ぁっ!もう佐伯くんてばすぐチョップするのヒドイよ!
――お前がツマンナイ事言ってるからだ。
――…お父さん冷たい…。


(…また俺に聞くんだな)


変な感覚だった。馬鹿なヤツと笑いたいのに、泣きたくなる。どうしようもない無力感と、苦い優越。
佐伯は、ふっと笑みを乗せた。あくまで礼儀正しさを装って。


「いいえ、そんな話、聞いたことないですね」
「…ほ、ほんとうですか?」
「でも、志波は嫌いな女の子をわざわざこんな所に連れてきたりはしませんよ」


本当は「好きなのはお前なんだ」と言ってやるべきだろうけど。でもそれは、本人からの言葉だけで充分だろう?
そろそろ料理の準備をしなきゃならない。水島や、西本たちも時期来るだろう。
それじゃと会釈して離れようとしたところに「あの」と、もう一度声が掛かる。


「あの、さっきの人魚はどうなるんですか?」
「え…?」
「人魚がここに来て…それから、どうなるんですか?」


ただただまっすぐ向けられる眼差しに息が詰まりそうになった。頭がおかしくなりそうだ。こんなにも穏やかで、幸せそうな不幸を佐伯は知らない。
それともこれこそが幸せだろうか。何もかも乗り越えて諦めた先の幸福?
初めてこの『珊瑚礁』から逃げだしたくなった。ここはあまりにも想い出が鮮やかすぎる。
何も言えずに立ち尽くす佐伯に、あかりが心配そうな目を向けた。「大丈夫ですか?」と声が掛かる。


「…あぁ、悪い…いや、ごめんなさい。少しぼーっとしちゃって。人魚の話ですよね」
「はい。でも…」
「大丈夫。…そう、人魚は浜に出て、若者に会うんです。それで若者に恋をして…二人は幸せに暮らすんです」
「しあわせに」
「そう。…でなきゃ不公平だ」


「人魚」は周りみんなを幸せにしたのだから。少なくとも、自分は救われたのだ。
だから、幸せでいてほしい。


「海野さん…あかりは?今は、幸せか?」
「え?わたし?…私は、幸せ、です」
「どうして?」
「どうしてって…」


それから、人魚は「幸せそうに」微笑んだ。






「いつも、志波くんが一緒にいてくれるから」


























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