「しんじゃおうかな」

そうすれば、皆しあわせになれるんじゃないかな。俺をふくめて。
そんな事を、半ば本気で考えていた。



ひきさかれ、知覚するもの



ここ最近、夜はめっぽう冷え込む。頬に当たる潮を含んだ風は、昼間のそれよりもずっと鋭く肌を刺す気がした。
波の音が絶え間ない。遠く広がる海は、夜の小さな星の光さえ呑み込み、黒々としていた。あまりまめに掃除をする事もないので、テラスは風で運ばれてきた砂でざらついている。琉夏はそこに座り込んで、ただじっと海の方を見ていた。

『ねぇ、るかくんはどうしていつもかなしそうなの』
『かなしくないよ』
『うそ』

(…嘘じゃないよ)

心に浮かんだ小さな女の子に、琉夏は優しくそう言って聞かせる。嘘じゃない。だって、かなしいって何なのか、あの頃の俺はあまりよくわからなかったから。
あくまで頭の中の光景で、本人ではないのだから優しくする必要はないのだろうが、夢だろうが幻想だろうが琉夏にとってあの子はあの子なので、優しくしないわけにはいかない。
ふと、この家の一番上にある明り取りの窓を見上げる。漏れ出るあかるい光。優しく穏やかで、…それでいて白々しい気持ちにさせる光。

『しんじゃおうかな』

何時の頃からか、「痛み」を共有する事は確認作業と同義になった。自我を持ち始め、一人立つことの意味を考え始め、そして結局、お互いに必死で暴れ回ってそれを確認する。最善でない事くらい理解していたが、それでもそうするしかなかった。
けれど、時々それすら億劫になってしまって。何もかもが遠くて。

『つまんねぇ事言ってんじゃねぇ』

琉夏の言葉に、兄はいつも真面目にそう言って否定した。真面目に、正しく。
琉夏のことをわざと馬鹿にしたような顔でそう言う兄を見ると、いつも申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
また傷付けてしまった。いつも、そう思った。だから最後にはこっちが「冗談だ」と誤魔化さなくてはいけなかった。でも、実のところ冗談のつもりで言った事は一度もない。
兄は、自分とは違ってまっすぐで、優しい。あの窓から見える光のように穏やかであたたかく、そして息苦しくさせた。…ほんの時々。

――おぉ、お前か。どうした?

電話で相槌を打つ声だけで、自分にはその相手が誰なのかわかってしまった。そして、わかってしまった瞬間に、家の中には居られなくなった。

(最低だ)

冷えた膝を抱える腕に力を込める。兄の幸せを願うフリをして、本当はちっともそんな風には思っていない自分が嫌になった。
このまま動かずに居たら、その辺りにある岩か何かのようになれるだろうか。そしてそのまま崩れて砂になれればいいのに。

かたんと、背中のほうから小さく音がする。人の気配がした。

「…お前、何してんだ」
「…海を見てた」
「風邪ひくだろうが」
「ひかねぇよ、そんなの」

おどけてそう返してやったのに、琥一には少しも笑う気配がなかった。本気で自分が風邪をひくのだと心配しているのだろうか。

「いいから戻れ」

(違う。そうじゃない)

たぶん、気が付いている。俺が何を考えているか琥一はわかっている。それでまたキョウセイするんだ、正しく。
ちり、と、胸の端が焦げるような感じがした。言いたくない、と思うのに、その押し付けがましくも息苦しい善良さに、冷や水を浴びせたくなる。

「ねぇ、コウ。俺、しんじゃおうかな」

投げつけるようにそう言う。何も言ってこない背中の方を振り返ると、案の定、琥一は途方に暮れたような、怒ったような顔をしていた。傷付けたという満足感と、その一瞬後に訪れる後悔。


本当は俺がいない方が、琥一もあの子もしあわせになれるのに。


(くるしい)

息苦しくてたまらない。

「…ばぁか、嘘だよ。冗談に決まってるだろ」

何とかそう言った琉夏に、琥一は顰め面のまま近付き、襟元を掴んで無理やり引き揚げる。家の中に引きずられる間、胸が痛くて仕方なかった。
どうして、こうも上手くいかないのだろう。本当はどうすればいいか、知っているはずなのに。
知っていて、どうして俺はまだここに留まろうとするのだろう。

「てめぇみたいな奴が死んだって、誰も喜ばねんだよ。だから止めとけ」

またしても非の打ちどころのない正しさで否定する琥一に、琉夏はただ「ごめん」と言うしか出来なかった。小さな声で、叱られた子供のように。




息苦しさは、まだ収まらない。












2011/04/06 ブログより再録