「しんじゃおうかな」
軽く笑みすら含み、あいつは言った。「学校サボろうかな」くらいの安易さで。どこか、遠くを見つめて。
こごえるたましいたち
ここ最近、夜はめっぽう冷え込む。家にろくな暖房器具がないせいで、夏からの変化はより顕著だった。
ぺらりと、大して熱心に読んでもいない雑誌を捲る音がやけに響く。その音の大きさに、家の中がいかに静まりかえっているかに気付き、レコードでもかけようかと思い立ったが、やめた。夜長に音楽を掛けるなんて、まるで淋しさに耐えられない女のする事のような気がしたからだ。一人が耐えられない、堪え性のない女のような。
「……ちっ」
何の根拠もない、センスのない考えに、琥一は知らずと舌打ちをする。さっさと寝てしまえば良いのだろうが、そういう気分でもない。
外からは微かに波の音が聞こえていた。そんな中、ちらりとも音がしない階下に、琥一は意識を移す。
『しんじゃおうかな』
秋の夜は、どうでもいいような事を思い出させるらしい。すっかり忘れてしまっていたはずなのに、いやに鮮明に思いだすせいで無意味に心がざわめく気がした。
子供のころから、本音というものをおよそ晒すことのない弟だったが、中学に入った頃には益々その傾向は強まり、更には皮肉めいた軽口ではぐらかすような技まで身に付け、すっかりかわいくなくなっていた。
それは、他校の不良だったか、あるいは同じ学校の奴らだったが、相手はもう憶えていないが、お互いボロ雑巾のようになるまで喧嘩をした挙句の言葉だったと思う。
『勝ったのに、何言ってんだよ、てめぇは』
『ん?別に、ただそう思っただけ』
『思っただけって何だよ。つまんねぇ事言ってんじゃねぇ』
『…ばーか。嘘だよ。冗談に決まってるだろ』
そう言って薄く笑う弟を、けれど琥一は笑い返すことは出来なかった。弟の言葉は大抵馬鹿げていたけど、中には本気なものもあったから、何時の頃からか自分は彼の言葉がどこまで本気なのか、いちいち測る癖がついたと思う。
無意識に、携帯電話を手が探る。…ついさっき、自分はこれで話をしていた。
――あのね、今度の日曜日…、
耳元で聞いた声を思い出して、ふと口元を緩める。そしてほぼ同じ瞬間に胸がちくりと痛む。
本当に必要なのはどちらなのかと問われれば、答えは決まっている。…それなのに、俺は喜んでいる、という罪悪感に。
子供の頃からずっと諦めていた想いに。
「…くだらねぇ」
今度こそ、そう口に出して雑誌を閉じる。立ち上がって下へ続く階段を降りた。
弟の部屋は暗く、その下も灯りは付いていない。だが、妙に風通しが良く寒かった。見れば、テラスの方の窓が開いている。波の音がよく聞こえ、そして、うずくまる人影が見えた。薄い格好で座り込んで海を眺める、弟の後ろ姿。
「…お前、何してんだ」
「…海を見てた」
「風邪ひくだろうが」
「ひかねぇよ、そんなの」
バカは風邪ひかねーんだよ、知らないの?弟はそう言って、笑う。
だけど、琥一は笑えなかった。代わりに訳のわからない焦燥が胸に渦巻く。
「いいから、戻れ。んなの迷信だろうが」
「…妖精の鍵の話みたいに?」
「…っ、おいルカ、いい加減に――」
「ねぇ、コウ。俺、しんじゃおうかな」
シンジャオウカナ。
海を眺めたまま、弟はそう言った。軽く、笑みすら含んで。だけど、とても静かに。
その言葉に、今度こそはっきりと動揺する。ずきりと、胸が痛んだ。
本当にあいつが必要なのは、俺じゃなくてルカなのに。
バカな事言ってんなと軽口を返したいのに、舌が凍りついたように動かない。背筋から寒気が上がってくる。まるで、真冬に冷や水を浴びせられたように。
何も言えない琥一に、弟はゆっくりと振り返る。何も考えていないような顔から、僅かに表情が動く。何か、後悔したような顔で。
そして、泣き笑いのように顔を歪める。
「…ばぁか、嘘だよ。冗談に決まってるだろ」
「……わかってんだよ、んなこたぁ」
(この、馬鹿)
泣きたいのはこっちだ。琥一は苛々と琉夏の薄っぺらい服の襟を掴んで無理やり部屋に連れ戻す。…泣きたいのはこっちだ。嘘でも冗談でもなく、真面目にこんな事を言うだなんて。
「いてっ、コウ、引っ張るなよ」
「ウルセェ、こうでもしねぇといつまでもあそこにいるんだろ、お前」
「テキトーなところで戻るって。心配性だなぁ、コウは」
あんな言葉を、本気で言わせるだなんて。
「…言っとくけどな」
どうして、こうも上手くいかないのだろう。どちらも大事で、傷つけたくないのに。
わかっていて、どうして俺は引けないのだろう。
「てめぇみたいな奴が死んだって、誰も喜ばねんだよ、無駄死にだ。だから止めとけ」
それだけ言い捨てて、琥一は琉夏に背を向ける。背中の向こうで、小さく「ごめん」と聞こえた気がした。
2011/04/06 ブログより再録
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