あめあがりの夜
"いってらっしゃい"
そう言って、彼女の足音が遠ざかるのを、一体何度聞いただろう。溜息をついて窓の外を見た。今日は、雨が降っている。
そこそこに強そうな雨の勢いに、古森は胸を掴まれるような痛みを感じる。
(あの子、こんな日までオラん家に……)
別に、今日に限った話ではない。彼女が家に来るのはほぼ毎朝で、雨が降ろうが風が強かろうが、彼女が来なかった日はない。朝どころか、授業で使われたらしいプリントや課題が出たと言っては学校帰りにも届けてくれる。
この街に来てから、どれくらい経っただろう。学校には一度も行った事がない。先生とも、電話でしか話したことがない。周りにも知り合いや友達はいない。
そんな中で、ほとんど毎日顔を合わせる、あるいは声を聞くのは彼女だけだった。彼女はいつも笑顔だった。
(……雨、早く止むといいけど)
雲は厚く、朝だというのに薄暗い。空が低いと、途端に世界は狭くなって息が詰まりそうだ。灰色の景色は、弱い自分の心を一層鬱々とさせる。
けれど、この街が本当はうつくしい一面を持っている事も、自分は知っている。とはいえ、全てはこの窓から見える範囲の話だけれども。
(あの子が、住んでる街だ。ここは)
そう思えば、広がる空も、その下にある建物も何もかもがうつくしく優しく見えた。そして、そのうつくしさにいつも泣きそうになる。
ここにいるには、自分は弱すぎる。そのうつくしさにも優しさにも、触れる資格はない。その価値がない。
それなのに、あの子はいつも笑う。あの、軽やかに響く声で「古森くん」と呼んでくれる。自分がそれに応えられないと、彼女だってもうわかっているだろうに。
夕方。雨は相変わらず降り続いている。薄暗い室内に、無機質なインターホンの呼び出し音が鳴り渡った。
出てみれば、『海野です』の声。その声を聞くと、胸騒ぎみたいな気持ちと、どこかほっとするような気持ちとが同時に生まれて、その事に自分はいつも戸惑う。
動揺するのはともかくとして、安心するみたいな、この気持ちは、何なのだろう。
ドアを開けると、彼女は「こんにちは」と笑った。こうして毎日通ってくれているが、自分が学校に行かない事に関して彼女は問い詰めたり、あるいはしかつめらしく説得したこともない。
いつも笑って挨拶をしてくれて、時折思い出したように「学校行こうよ」と言うだけだ。
「これ、今日授業で使ったプリントね。それと、こっちは課題用で、明後日提出ね」
そう言って渡してくれた彼女の腕は、雨のせいか濡れていた。良く見れば、肩口も濡れている。
彼女は視線に気付いたのか、困ったような顔をして笑った。
「雨、けっこうキツクて…傘差してたんだけど濡れちゃったみたい」
「……ちょっと、待ってて。タオル……」
「あ、いいよ!こんなの平気だよ?大したことないから……」
「平気なことね。……取ってくる」
家にある中で、一番きれいで柔らかそうなのを選んで玄関先に戻り彼女にそれを手渡すと、彼女は申し訳なさそうな顔をしながらも「ありがとう」と言って受け取ってくれた。
「ごめんね、洗濯して返すね」
「……気にすること、ない」
「ありがとう……それにしても良く降るなぁ。朝からずっとだもんね」
何気ない彼女の言葉に誘われるように、雨が降り続ける空を見上げた。止まることなくいくつも落ちてくる透明のしずく。小さなころ、雨がどこから来るのかとても不思議だった。
まるで、空が泣いているようだ、なんて、誰かが言っていた気がする。
「私、雨上がりが好きなんだ」
「…え?」
「雨が降って、世界中が洗われて、きれいになった気になっちゃうの。だから、それを思うと雨の日もイヤじゃないんだ。雨は、いつか止むし」
そう言って、彼女はまたにっこりと笑った。
夜。届けられたプリントは机の上に放り出したまま、ぼんやりと寝転がって過ごす。思い出すのは決まって彼女の笑顔。そして、自分の中の迷いと、臆病さ。
(雨は、いつか止む)
どうということない彼女の一言が、何故だか忘れられない。雨が止んで、洗われた場所。彼女が好きだという世界。
何となく、窓を開けて外を見る。雨は止んでいて、空には澄んだ暗闇の中に、星が小さな光を投げかけている。
確かに、彼女の言うとおり雨上がりはきれいだと思った。湿気を含んだ空気はまとわりつくようだったけれど、それでも雲ひとつない夜の空は涼やかに美しい。
(……ここは、きれいだ)
―――古森くん。
どこにも、居場所など無いのだと思っていた。求める権利すらないのだと決めつけていた。
(でも、それでも……)
―――また明日ね。
彼女が好きだと言った雨上がりの世界に、自分は立てるだろうか。彼女のいる、世界に。
「……雨は、いつか止むんだ」
言い聞かせるようにそう呟いて、もう一度、窓の外の夜空を見上げた。