※氷上デイジーですが、学力パラは低いオリジナルデイジーです。




「おふろ」
「路標」
「…うみ!」
「み。ミンストレル」
「る…るーれっと」
「トルコ」
「ぶぶぅー。それはダメ。違う言葉がいい!」
「む、そうかい?それなら……と…統一地方選挙」
「…うん、それいいね」

『氷上くんはなるべく難しいっぽい言葉を使う』というルールの元、しりとりをしていた夏生は笑った。とういつちほうせんきょ、と、復唱してみる。
実のところ、「ろひょう」も「みんすとれる」も、意味合いはぼんやりとしかわからないが、彼が話すそういった言葉の響きが、夏生は好きだった。もちろん、もっと単純な言葉であっても変わらずに好きだけれども。
ゆるりと天井を見上げる。オフホワイト色の天井にゆらゆらと反射した光、湯気で曇った大きな鏡。バスタブが大きいのはいいけれど洗い場は無いんだね、と氷上は残念そうに言ったが、夏生にとっては好都合だ。洗い場なんてあったら、湯船に浸かりながら、バスタブの淵に背を向けて腰かけている氷上としりとりをするのはちょっと難しくなる。

「次は君の番だよ?」

もういいのかい?と、伺うような氷上の声に、もういいよ、と夏生は答える。お湯の表面に浮かぶ泡を掬っては落とす。裏返した手の平から落ち切らなかった泡が、夏生の腕をとろとろと滑った。

「ねぇ、外はどんな感じ?」
「もうとっくに閉演時間だし、真っ暗だよ。…星が良く見えて綺麗な夜空だ」
「それって素敵だね」

思わずそう言うと、同意したような穏やかな笑いが背中越しに聞こえた。

「そうだね。ナイトパレードも華やかで、それはそれで楽しくて惹き込まれたけど…僕はやっぱり、星の輝きの方が好きかもしれない」

夏生は、パレードよりも星が綺麗だと言った氷上自身について「素敵だ」と言ったのだ。夏生は一人で見たなら、きっとパレードばかりで星になんて気が付かないだろう。でも、彼が星が綺麗なのだと言えば、夏生もきっと星が綺麗だと思う。そういうものだ。自分にとって、彼はそういう人。夏生の世界を、簡単に変えてしまう人。白が黒になり、罪が幸福になる。

この人の事が大好きだ、と、事あるごとに夏生は気が付く。家族は別に考えるとすれば、世界で一番大好きなのは彼だし、夏生に世界で一番優しいのは彼だ。

はばたき市以外のテーマパークに行きたいという夏生の希望を叶えてくれて、園内のホテルを予約し、「結婚しているわけじゃないから」とくそ真面目にもツインでなくシングルの部屋を二つ取ってくれて、けれども「一人なんて淋しい」と我儘を言う夏生に付き合い、一緒にお風呂に入るというのはさすがに許してもらえなかった代わりにこうしてバスタブに背を向けて座っていてくれる。ついでに言えば、彼はこんな子供じみたテーマパークなんて本当はそれほど好きじゃない。こんな優しい人、彼以外には存在しない。

(…もしも、氷上くんがいなかったら)

有り得ないが、もしも彼のいない世界があるとして、それは自分にとっては意味のあるものだろうか、と、考える。それまでさして興味も愛着もなかった世界が、本当はどんなに素晴らしいものなのかを教えてくれた彼がいない世界、というのは。

(考えなくちゃいけない)

だけど、考えたところで何もわからないし、変わらない。
湯船で揺らいでいる泡は、ぷつぷつと少しずつ消えていく。こういうのは、夢から醒めるみたいで何だかかなしい。

「新しい仕事はどう?」
「うん、楽しいよ」

突然変わった話題に、淀みなく答える。これは、用意していた答え。
タレント業というのは、予想していた程に華やかな世界ではなく、しかし想像以上に複雑な世界であることはわかった。大学進学はとても無理だったし、かと言って地道にバイトを続けていたわけでもなかった夏生は、街中で軽くスカウトされたそれに乗っかって事務所と契約したわけだが、どうも軽い気持ちで続けられる世界ではないようだ。

「…何だか、色々ムズカシイんだけど」
「難しい?」
「…ウソだよー。だって、ムズカシイことは他の人がやってくれるから」

ゲイノウカイというのは自分から働きかけなければ仕事など無いと思っていたが、どういうわけか夏生のスケジュールから仕事が無くなる気配はない。「おバカキャラ」というのがウケているんだそうだ。

「なんかねー、この間ちょっとだけテレビに出たんだけど、本当にテレビの人がいっぱい居て、ちょっと緊張しちゃった」
「あぁ、それなら観たよ」
「ほんとう?」
「うん。メイクや服の感じが違ってたから、初めは本当に君かなって少し驚いたんだけど」

それはそうだ。あんなバカげた格好、「イメージ」の為でなければするはずがない。おまけに氷上の好む清楚なイメージとは正反対だと言っていいから、きっと彼は観ながら眉を潜めたに違いない。

「でも君だってわかったし…それに、君は君だなって思ったよ。どんな服装をしていても」
「…そっか」

君は君だという言葉に、夏生は嬉しくなる。嬉しくて、そして安心した。氷上くんは、私の事ちゃんとわかるんだ。

――彼氏のこと、ちゃんと考えたほうがいい。

それは事務所からの言葉だった。彼ら曰く、夏生は日々氷上から遠ざかっているのだそうだ。つまり「芸能人」となった夏生が、彼から離れつつあるのだと。
それなら辞めます。そう言った。仕事を軽んじるつもりはない。だけど、二者択一どちらか選べというのなら、夏生には迷う理由はない。

――君だけの問題じゃないんだよ。契約だってしているし、学生のアルバイトとは違う。それに…。

もう一度、手のひらでお湯を掬う。むくむくと泡立っていた泡も、さっきよりは随分減ってしまった。
濡れた髪に、水滴がぬるりと伝う。ぬるくなってしまったお湯は、もう湯気も立たない。

「ねぇ氷上くん」
「何だい?」
「氷上くんは、私のこと、好き?」
「なっ…と、突然、どうしてそんな事…!」
「別に突然じゃないよ。ね、好き?」

全然突然じゃない。夏生の中ではいつでも気になっている事だ。夏生が氷上の事を好きなのは、一日に朝と夜があることと同じくらい当たり前のことなのだけれど、考えてみれば、何故彼が自分を受け入れてくれているのかはわからない。
しばらく沈黙した後、ごほん、と咳ばらいが聞こえた。

「…好きだよ。僕は、君のことが好きだ」

背中越しで悪いけれど、と、一言断るのがいかにも彼らしいと夏生は思う。

――…それに、彼だって君みたいな子と付き合うのは負担じゃないかな。一流大学の優秀な学生さんなんだろう?

思った以上に、その言葉は胸に残っている。まるで、魚の小骨が喉にささったままみたいに。

「…どこが好き?」
「え?」
「私のどこが好き?」

かわいくて明るくて、でもちょっぴりおバカで。それが自分を誉める言葉なのだと知った時、不思議な気がした。
そんな自分が、一流大学に通う真面目な学生の氷上くんと付き合っているのは、氷上くんにとっては迷惑なのだと彼らは言う。(負担、だなんて上手くすり替えたけど、結局そういう事だ)
祈るような気持ちで氷上の背中を見つめる夏生には気付かず、彼は「そうだなぁ…」とのんびりと首を傾げた。

「…ひょっとして、これは真面目な話なのか?」
「……ううん、別に。そういうわけじゃない、けど」

言われて、「しまった」と思う。こんな話を真面目に持ちかけるなんてどうかしている。心配させてしまうかもしれない。

「…一言では難しいな。どこが、っていうよりも君そのものな気がするし…」
「もう、いいよ。別に、そんなの何でも――」
「正直なところ、かな」
「………え」

予想外の言葉に、声を発するのを途中で止めてしまった。はは、と穏やかに彼は笑う。

「正直というか自由というか…ほら、君はどこでも君のやりたいように、思ったように行動するだろう?あれが僕にとっては羨ましくて…でも同時に目が離せなかった。何だか、危なっかしい気がして。…いや待て、それは好き、というのとは違うだろうか…。でも、僕は君のそういう所が、いつも眩しいなって思っていたんだ。たぶん今も」

これも、背中越しに言う言葉じゃないけれどね。
零れるような笑みと共に、彼はそう付け足す。
それから、柔らかな声音のまま、彼は言葉を続けた。

「…もちろん戸惑いはあるよ。君は今では芸能人で僕はただの学生だ。普通の…えぇと、つまり、ごく一般的な恋人同士とは、少し違う。僕の存在が、いつか君の重荷になるんじゃないかって…怖いような気持ちになる時もある」

そんなことない。
心ではすぐ反応出来たのに、口に出来ない。今は、まばたきと呼吸以外の動きは出来ない気がした。
動いたら最後、みっともなく泣いてしまうんじゃないかと思う。

「でも、気付いたんだ。確かに僕らは事情は特殊だけど…だからって状況は別に特殊じゃない。普通の学生同士でも、会えない事なんて幾らでもある。だから…っ、うわっ!」

ばしゃり、と不躾な水音がバスルームに響いた。いくら大きいといってもホテルのバスタブだ。二人ではさすがに狭く感じる。
お湯の中に引っ張り込んだ氷上の首に、夏生はぎゅっと腕を絡ませた。まるで縋りつくみたいだ。私を置いていかないで、嫌いにならないで、捨てないで。そう言って縋りつく女。
「まるで」というより、「まさしく」、そうなのだけれど。

「ちょっ…な、何なんだ突然…っ!あつ…くはないけれど、いきなり驚くじゃないか!」
「ごめんなさい」

私は、ずるい女だな。
抱きついて離れないまま、ぼんやり思う。彼の体温はお湯よりも温かでほっとする。
こんな風に「振り回して」、彼を心配させる。素直に「ごめんなさい」と言えば、許してくれる事を知っている。

私は彼には(恐らく、十中八九)全然釣り合わない女なのに、それでも離れられなくてこうして困らせているのを知っている。

「…どうしたんだい?一体」

夏生の首の後ろにそっと手が添えられた。そして、そのまま包み込むように、ほんの少しだけ力がこめられる。こんな時でも彼は優しい。優しくて、また泣きたくなった。

(…そばにいてね)
(氷上くんがいなきゃ、駄目だから。それ以外は何もいらないから)
(嫌いに、ならないで。離れないでいて)

顔を上げて、夏生はにっこりと笑う。レンズの濡れた彼の眼鏡を、すいと外した。

「何でもないよー!スキあり!」
「あっ、こ、こら!眼鏡がないと見えな…!」
「見えなくても、大体わかればいいよ」

彼の大切な眼鏡を、ボディソープやシャンプーの横に置いた。あれだけあった泡は、もう消えてしまっている。

「…今は、見えてなくても大丈夫だよね」





そう言って、答えを聞くより早くキスをした。











消えゆく泡と境界