クルワゾン
「…おい、大丈夫かよ!?」
「痛ぇ…、おい、アイツどこ行った?」
「クッソ、信じらんねぇ、あの女…っ!」
騒然となる現場に、藤堂竜子は一瞥をくれて離れた。無様だと、冷淡な気持ちでその場を離れる。まったく無様で、程度の低い奴らだ。そう心の中で吐き捨てた。
「彼女」の行く先は察しがついていた。いつだったか屋上が好きなんだと言っていたから。
屋上に向かいながら、竜子は何となく手の平を見つめた。自分も今まで拳に物を言わせてきた方だが、それでも、あんな風に人を殴ったことがあっただろうかと考える。
そういう場面に遭遇した時、殴られる痛みよりも「殴る」という行為そのものに恐怖を感じたのは初めてだった。
止めなければと頭では思った。そのつもりで動こうとして…だができなかった。
あの時、志波が間に入って止めなければどうなっていたのだろう。想像して、軽く息を飲む。
虚ろではない。彼女は怒りに満ちていた。冴え冴えとした、絶対零度の怒り。
それは、竜子の初めて知る「怒り」だった。静かでつめたくて、何者にも揺るがされる事はない。純粋な、氷のような。
志波は彼女の「行為」自体は止められても、その感情まで止める事は出来なかった、と思う。
屋上は、相変わらずだだっ広い。今は昼休みだが、それでも今日はほとんど人がいなかった。風のせいだろう。強い風は、体ごと持って行かれそうな勢いで吹きあげ、その冷たさで寒さと微かな痛みすら感じさせた。
ぐるりと見渡すと、視界の端にうずくまる人を捉える。一番隅の手すりの所に、彼女は寄りかかっていた。
「…ここにいたんだね。寒くないのかい、そんな風のあたる場所にいて」
返事はない。否、竜子も返事を期待してはいなかった。答える気などない事は丸くなった小さな背中を見ればわかる。
頼りない小さな背中は、まるで世界中が敵だと言わんばかりの拒絶を表していた。普段の彼女の事を思えば、考えられない荒んだ空気だ。
風が、一層強く吹く。吹きあげられる髪が邪魔で、竜子は手でそれをかきあげた。
「…気持ちはわかるけど、何もあそこまですることなかったろ。あんな事したらあいつだって…」
「だまって」
短い言葉に、竜子は口を閉ざす。静かで平坦な口調であるのに、竜子を黙らせるに充分な圧力を持っていた。
「…たっちゃんでも、ゆるさないよ。…私、絶対ゆるさない」
「…夏生」
「ゆるさない」
駄目だ。これは少しばかり時間がかかりそうだと竜子は嘆息する。あるいは自分一人でも宥めるのは難しいかもしれない。
先ほどの一件を止めることの出来た志波なら、少しは違うだろうか。それとも自分よりは口の上手い水島を呼ぶか…あいつに借りは作りたくないがこの際言っていられない。
教師に頼るという選択肢は、竜子の中には初めからない。事が事だ。竜子は必要以上に教師を疎む事はないが(そんな時期はとっくに過ぎたともいえる)、だからといって友人を教師に「売り渡す」ことなど出来はしない。
「手、痛むだろ。…あんな風に殴ったらね」
「………」
「顔だって、腫れてるだろ。早く冷やした方がいい」
「こんなの、痛くない」
「暴力」という手段に出る時、そこには必ず、少なからず「恐怖」が伴うものだと竜子は思っている。自分以外の他人を傷つけるという行為。
それが「ケンカ」であればお互いにそれはどこかにある不文律であるし、たとえ一方的な暴力であったとしても、それでも人は躊躇う。「傷つける」こと対する本能的な嫌悪と恐怖を捨てることが出来ない。だから、迷う。心が弱ければそれに気が付かなかったり、迷いが隙になる。
けれど、さっきの彼女は迷いを一切見せなかった。迷いなど、無かったのだ。相手に暴力を振るう事に対して何の躊躇もなかった。そういう殴り方だった。
「ゆるさない」という、唯一色の感情だけで彼女は相手に拳を叩きこんだ。それは、本当に一瞬の出来事だった。
あの時、すぐ傍にいた彼は何を思っただろう。動けずに立ち尽くしたままだったが、それは仕方のないことだ。竜子ですら動けなかったのだから。
「…あんな事したって、あいつの立場が悪くなるばっかりだ。そんな事もわからないバカじゃないだろう」
確かに、決して笑って済むようなものではなかった。それは酷く悪意に満ちていて、聞けば胸が悪くなる下劣な言葉だった。噂をされた当人でなくても怒りと屈辱を感じずにはいられないような。
羽学は、その雰囲気から言ってあまりそういう下らない事を言う連中は見かけないのだが、それでも時にはああいった場面に遭遇してしまう時もある。
そして、あの生徒会長候補(まだ生徒会長ではないので)はやる事が時々突拍子ないので、面白がってそういった下らない噂のネタにされてしまってもおかしくはない。
あいつらは自分が何も持たないから、秀でたものを見るとまるでハイエナのようにたかり、潰そうとする。まったく下らない連中だ。
「みんな、知らないんだよ」と、小さな背中から声が聞こえた。
「…氷上くんは、本当はとても、弱いんだよ。弱くて、でも強い人なの。傷ついたって、決して見せない」
「……それは強いんだよ。それなら尚更、アンタはあんな事するべきじゃなかった」
「…わたし、嫌われちゃうかな」
微かに、声が震えた。
強かった風が、その勢いを少し弱める。
「男の子を殴ったりする子なんて、嫌われちゃうよね、きっと」
「さぁ…」
何とも言えず、竜子は言葉を濁す。あの時氷上は、ただ呆然と夏生を見ていた。信じられないものを見るような目で、夏生と、その相手を見ていた。
正直、軽蔑されたとしても竜子は文句は言えないと思う。それくらい彼女の行動は突然で、そして強烈だった。加えて酷く暴力的だった。それを、あの生徒会長候補が寛容に受けとめるとは信じにくい。いや、例え彼であったとしても、だ。
その時、ざり、と足音が背後で聞こえた。竜子はそちらに振り返る。そして目を見張り、それから少し笑った。
「…探したよ」
「……!」
予想外の声に、びくりと体が引き攣った。それから、目に涙が溜まる。
怖くて、振り返る事なんて出来なかった。
きっと、怒っているだろう。怒っているくらいではすまない。きっと軽蔑された。彼の最も嫌うものに、私は頼ってしまったんだから。
近付いてくる足音が怖い。出来る事ならここから逃げ出したいのだけれど、どういうわけか体はちっとも動かなかった。
初めて、ここが寒いのだと知る。風が強くて、口唇はがさがさだった。
横に――まるで、風から守ってくれるように――、彼が来るのがわかる。彼は自分と同じようにしゃがみ込み、そして、手を取った。
ついさっき、人を殴った夏生の手を。
たまらなくなって、手を急いで引っ込めようとするけれど、それは彼が許さなかった。いつもなら手を握ってもらえれば嬉しいのに(そんな機会がまず滅多にない事に喜ぶ)、今は一秒だって触れられたくない。遅すぎる後悔に、胸が潰れそうだった。
嫌われたくなかった。無駄だとわかっていた。でも、許せなかった、どうしても。
「…ごめん」
信じられない言葉が、鼓膜を震わせる。思わず、彼の方を見た。
「どうして…どうして氷上くんがあやまるの。氷上くんは、何も悪くない」
「……」
「氷上くんはっ…みんなのために、がんばってるのにっ…悪くないもん…っ」
「僕のせいで、君が傷ついている」
彼はそう言って、夏生の腫れた頬に手を当てた。つめたい。つめたくて、あたたかい。
でも、氷上くんの言ってることがわからない。
「…先に、殴ったのは私なのに」
「こんなに、震えている」
言われて、初めて自分の体が震えているのに気が付いた。
「…殴るなんて、いけないよ」
「……でも、氷上くんのことを」
「その分、君が傷つく。僕は不甲斐ない男だ。これじゃあ生徒会長の資格なんてないな。君は自分を傷つけて僕を守ってくれようとしたのに、僕は何も出来なかった」
「ちがう!」
どうして、そんな優しいの。あなたは本当はとても弱いのに。
悪意の無い言葉ですら、あなたは本当はとても傷ついて、誰にも見えないところで耐えているのに。
本当は、泣いているのに。だけど、それを誰にも見せないの。
どうして、そんなにつよいの。
氷上くんが、私の手をきゅっと握った。いたわるように、護るように。
「立てるかい?行こう。君も傷の手当てをしなければ」
「……」
「志波くんも、心配していたぞ。落ち着いたら一言言っておきたまえ」
「……」
「君には、二度とこんな事はさせない。…大丈夫、あれくらいで、僕は凹んだりしないよ!僕には、信じてくれる君がいる」
「…ごめん、なさい」
やっとそれだけ言うと、氷上くんは私を励ますように笑って、頭を撫でてくれた。
私には、氷上くんがいる。とても弱くてつよい、私を護ってくれる人。
そう思って、少しだけ泣いた。