想いが橋になり、僕は会いにいくだろう。





「あぅ…もうだめ、もうゲンカイ」
「何言ってるんだ。ここは基本だぞ?きちんと抑えておかなければ」
「うっ…うぇぇん、やだぁーもうできないー!」

ぽい、とシャープペンシルを投げ出し、広げたままのノートの上に彼女は突っ伏する。放り投げられたピンク色が基調のシャープペンシルを彼女の方へ戻してやりながら、僕はひっそりとため息をついた。
けれども、こんな事でめげるような僕ではない。彼女とのやり取りはもう慣れたものだ。

6月末。定期試験は間近に迫っている時期だった。日ごろの勉強を怠り気味な彼女は、しかし試験直前になってもまるでやる気にならないのでこうして僕が無理やり付き合って何とかこなしているといった状況だ。
それにしても彼女の理解度の低さは毎回の事ながら驚嘆に値する。しかもこの状態で今まで(彼女が言うには)「何となくうまくいった」というのだから信じられない。どんな強運の持ち主なのだろう。

「あぁん、せっかくの日曜日なのに、デートなのに!図書館でオベンキョなんて…ひどいよ、騙されたよ」
「去年の冬と全く同じ手法で引っ掛かる君も悪いぞ。筆記用具持参と言ったところで気が付くかと思ったが」
「だって、氷上くんから誘われたら行くもん!嬉しくって、ワンピースだって新しいのおろして来たのに」
「そうだったのか…うん、それは、君に良く似合っていると思うよ」
「そ、そかな?よかったぁ…て、そ、そんな言葉で騙されないんだからねっ!とにかく、ベンキョーはちょっと休憩!」

ぷくっと頬を膨らませる彼女は、それまでもころころと表情が変わる。出会ったばかりの頃は騒々しいと正直うんざりすることもあったのだけれど、今となってはそれは僕の心を浮き立たせるのだから不思議だ。
図書館は冷房が効いていて涼しかった。壁面に大きく作られている硝子窓からは夏特有の強い光が差し込む。梅雨の間の、久しぶりの晴れの日だった。

「…もう梅雨はあけたのかな?」
「いや、まだだろう。今日は晴れているけれど…まだ梅雨明けには早いな」
「じゃあまた雨の日が続くの?」
「たぶんね」
「そっかぁ…」

妙に残念そうだ。彼女は突っ伏していた体を起こして頬杖をついて外を見ている。しばらく勉強には戻るつもりはないらしい。

「何かあるのかい?…心配しなくても海開きや花火大会までには明けると思うよ?」
「うぅん、そうじゃなくて。もうすぐ七夕でしょ?七夕の日は晴れてほしいもん」

七夕。その単語を聞いて僕は納得する。七夕の話とは、織姫と彦星が年に一度7月7日、つまり七夕の日に会えるという有名なものだ。雨が降ると天の川の水かさが増して二人は会えなくなるという話がある。たぶん彼女はそれを心配しているのだろうと思った。彼女らしい。

「織姫星は夏のダイアモンドなんだよね?」
「そう…憶えていたのか」
「うん。氷上くん、前に教えてくれたでしょ」

こと座のベガだよ、と、彼女は子供が自慢するみたいに得意げな顔をして笑った。そう、織姫星と呼ばれるこの星は本当に明るく美しい星で僕も好きな星だから、いつだったか彼女に話した記憶はある。けれども意外だ。彼女が僕の話の内容をきちんと憶えているのは割と珍しい。

「じゃあ彦星の方は?憶えているかい?」
「え?えーと…何だっけ。…あっ、わし座の…あ、あるみ…?」
「わし座のアルタイル。アラビア語のアル・ナルス・アル・タイルの後半だけが取られたものだ」
「あっ、そうそう!それ!…その話、前にも話してくれた?」
「いや、名前の由来は今日が初めてだよ。以前は星の自転の速さの話だったと思う」
「ジテン?ヒャッカジテンとかの?」
「違うよ、回る方の自転。この星はね、自転の早さがとても速いんだよ。太陽よりも大きな星なんだけど、太陽の自転周期が25.4日なのだけれどアルタイルは約六時間半で回ってしまう」
「へぇ、すごーい!そんなに早いと目が回っちゃうね!」

わかったようなわからないような返事だが、彼女は至って真剣に聞いてくれているのだ。そして僕は、彼女が星の名前を憶えていてくれた事が嬉しかった。
彼女は僕の話を聞きたがるけれども、果たしてどこまでわかっているのかは少しばかり疑問だ。だけど、そんな事は僕にはどうでもいいことだった。彼女にそうして請われる事自体が僕にとっては何より大切な事だから。
だから、彼女が望むなら例え同じ話でも何百回と繰り返し話せるんだ、僕は。

「そういえば、織姫と彦星はどうして七夕の日にしか会えないんだっけ?しかも晴れの日でないと会えないなんて神サマは意地悪だよね」
「あぁ、それはね。会えないわけではないんだ。ただ雨が降ると天の川の水かさが増して渡れなくなってしまう。川下の方には上弦の月がかかっているのだけれど、それこそ意地悪な月の船人は織姫を彦星のところに渡してはくれないんだ」
「むぅぅ、やっぱり酷いよ」
「でもね、そんな二人を見かねて、かささぎの群れが飛んでくる。かささぎ達が天の川に翼を広げてちゃんと二人を会わせてくれるんだ」
「そうなんだ、良かったぁ」
「そういう話だから…うん、大丈夫。ちゃんと織姫と彦星は会えるんだ」

話をしながら、何となく身の置き所がないような気持ちになる。こんな七夕の話を、この年になって大真面目に誰かに話すと思わなかった。けれども対する彼女はそんな気持ちは微塵も感じないらしい。いつもながら目をきらきらさせて僕の話の続きを待っている。
時々不思議に思う。彼女はどうしてこんなにも僕の話を楽しみにしてくれるのだろう。それとも誰に対してもこういう感じなのだろうか。人によって態度を変えるような人ではないから、あるいはそうなのかもしれない。

(でも)

出来れば。
叶うなら彼女がこうして目を輝かせるのは僕に対してだけであってほしいと思うのは、高望みだろうか。

「氷上くん?どうかした?」
「え?あ、ああ何でもないよ。えっと、何の話だったかな」
「雨の日でも二人はちゃんと会えるって話だよ」
「そうだ。それと…ああ、二人はどうして年に一度しか会えないか、だね」
「うん、そう!どうして?」
「それはね、二人は出会う前は働き者だったけれど、出会ってからは二人はお互いに夢中になってしまって仕事をすっかりやめてしまったんだ。天帝は織姫の織った布をとても気に入っていたからその事に腹を立てた。そして二人をまた引き離すのだけれど、機織りの仕事を頑張るのなら年に一度だけ彦星に会わせよう、と言うんだ」

そこで一旦言葉を止める。この話を、僕はずっと自業自得だと思っていた。自分の天職を忘れて遊んでしまうなど愚かな事だとさえ思った。
けれど、今なら少しわかるんだ。もちろん、やらなければいけない事を忘れてしまうのは良くない事だ。でも、それをも忘れてしまうくらいの想いをきっと織姫も彦星も持っていたのだろうなと、今の僕は空の二人を笑う事が出来ない。
もし僕が彦星なら、やっぱりそうなってしまうかもしれない。だって、彼女の事を知ってしまってからは彼女のいない世界なんて考えられないのだから。

そんな話を続けようかどうか(もちろん差しさわりない程度にだが)を迷っている間に、彼女は神妙な顔付きで放り投げていたシャープペンシルを持ち直した。彼女から勉強を再開するなんて今までで初めてじゃないだろうか。しかつめらしい顔をして、彼女は参考書のページを捲る。

「…どうしたんだい、急に」
「……ベンキョウ、しなきゃ」
「それはまぁ、した方がいいけれどね、間違いなく」
「だって、氷上くんに会えなくなったら困っちゃう」
「え?」

意味を測りかねて問い返すと、彼女は真面目な顔をして僕の方を見た。

「ベンキョーさぼってて、氷上くんに年に一度しか会えなくなるのはイヤだもん」
「そんなこと、あるわけないじゃないか」
「そうだけど…でも何だかそんな気がするからちゃんとベンキョーする…イヤだけど」

そう言って、参考書とにらめっこしている彼女に、僕はしばらく何も言えなかった。おかしいやら嬉しいやら恥ずかしいやら。もう何だかよくわからない。
でも、つまり僕は君の彦星なんだろうか。そういう事で間違いないのかな。
君が僕の織姫であることは、もう動かしようのない事実なわけだけれど。

「よし、じゃあ僕も君の努力に協力するよ。というわけでもう一度この公式を復習して…」
「ええっ、またぁ!?もうやだーキライー、やっぱりできないー!」
「き、君っ、挫けるのが早すぎるぞっ!」





七夕の日、少なくとも僕は感謝しよう。
僕は僕の織姫に毎日会える幸福に。