輝ける星



注意:氷上デイジーですが、学力パラは低いです。







――氷上くんなんてもう知らない!だいっきらい!


そう言われて背を向けられたのは一体何日前だろう。(彼女は途中幾度か躓いたが、振り返ることなくそのまま走り去った)

大学での空き時間。僕は携帯電話のディスプレイに目を落とす。今のところメールも、着信履歴も見当たらない。ため息を一つだけ零して、冷めたコーヒーに口を付けた。大学の購買のものだが、味は悪くない。ランチのメニューやケーキの種類もうちの大学は豊富だ。それが勉学に関係あるかどうかは僕には今一つ理解出来ないのだが、一度ここに来たことのある彼女は目を輝かせて喜んでいた。
「キャンパスデートっていうのをしてみたいの」と言って、バレやしないか冷や汗ものの僕を余所に、平然とこの場所で彼女は僕とお茶をしたのだ。

そう、いつも彼女の言動は僕の想像、あるいは理解の範疇を軽々と越えてしまう。そして何故かそれは僕を惹きつけてやまない。
アニメソングカラオケ3時間ぶっ通しだの(終わりの方は楽しんだのは内緒だ)、夏休みカブトムシ狩りだの(テレビだかマンガだかに影響されたらしい)、ラブホテル見学ツアーだの(これはすぐさま却下した。とりあえず、現時点では却下だ)、次から次へと突飛な事を思いついて僕を振り回す。
彼女のそれは、純然たる思いつきで願いであり、そして僕はそれを、出来るなら叶えたいと思う。そして彼女に笑っていてほしいと思う。

その気持ちだけは、欠片も嘘はない。誓って。

コーヒーも飲んでしまい、いよいよ手持無沙汰になった僕は、カバンからある書類を取り出す。それは重要な書類だった。僕の人生を、あるいは決定付けるきっかけになるもの。
けれども、まさか彼女との関係にまで影響があろうとはさすがに予測がつかなかった。

「どうして」と彼女は言った。「どうしてそんなところに氷上くんがいかなくちゃいけないの?」と。
そして、それはもちろん僕の夢へ更に近づく第一歩だからだと説明しようとする間すら与えず「いやだ」と彼女は短く続けた。

「…待ってくれ。話を聞いてくれないか?」
「話って?氷上くんがそんな遠い所に行かなくても済むようになる話なの?」
「そうじゃなくて。君は…、君だってわかってくれるだろう?これは僕の夢だったんだって」
「氷上くんの夢は私と会えない所に行っちゃうってことなの?アメリカだかアフリカだか知らないけれど、私、氷上くんと会えなくなっちゃうの、嫌だよ!」
「君、アメリカとアフリカは全然違…いや、今はその話はいい。確かに会えなくなるかもしれない。でも、僕の気持ちは何も変わらない」
「そういうことじゃないの。そんな事言ってるんじゃないの!」
「じゃあ…じゃあどういう事なんだ!君はどうしてそうやってわからない事ばかり言うんだ!」
「わからず屋は氷上くんの方じゃない!」

彼女はそう叫んで非難の色すら込めて、僕を睨んだ。目元には透明な雫が溜まっていたのを憶えている。
僕も、混乱していた。そして腹も立てた。普段わからないことばかり言う彼女だって、僕の理想や夢には理解があるものだと思っていたから。咄嗟に、声を荒げてしまった。

(…いや、違うんだ。あれは)

「氷上くん」


思考の波から、少し高めの呼び声で掬いあげられる。小野田くんだった。

「やぁ、久しぶりだね」
「えぇ、あの、氷上くん」

普段の理論立った話し方とは違う、言いにくそうな表情に、僕は二、三度瞬きをした。

「彼女と…何かありました?」
「…何かとは?」
「あの、立ち入った事を聞いて申し訳ないですけど…ケンカ、とか」
「……」

思わず黙り込む僕に、小野田くんは慌てたようにごめんなさいと言った。

「いや、構わないよ。…何か話を聞いているかい?僕とは一向に話をしてくれそうになくてね」
「………それが」




夕暮れ時、橙色と紺色が無い混ぜになったような空に、粒のような星が微かに光る。公園通り。僕はある洋菓子店に来ていた。彼女のお気に入りのお店だ。店にどんなケーキがあるか来る度全部言い当てたら、あの子は目を輝かせて喜んでいたっけ。まるで世界一の学者であるかのように誉め讃えてくれた。
ある意味で、当然の結果だった。だって僕は、君が喜んでくれると思って、この店に必死に通ってケーキの名前を覚えたのだから。

ポケットにある携帯電話が震える。ディスプレイを確認すると「新規メール一件」とあった。彼女からだ。

ヘンな挨拶やチカチカした絵文字も無く『今から電話するから何も言わないでいて』とある。用件だけしか書いてないメールなんて初めてじゃないだろうか。

程なくして着信を知らせる電子音が鳴る。通話ボタンを押し、僕は黙ってそれを耳に押し当てた。


――もしもし。…ひかみくんデスカ?
「……」

ぐすっ、と、鼻を鳴らす音が聞こえる。それだけで、胸がいっぱいになる。

――あのね、わたし、ほんとはわかってるよ。…氷上くんがいっぱいベンキョーして、それで、エラくなってノーベノレ賞取るのが夢だって。それで…それでっ、あ、アフリカとか行かなきゃいけないのもわかってるの。

(知っているよ)

知っている。君は、本当は全部わかっている。その事を、僕だって知っている。
僕は君の言う事がやっぱりわからない時があるし、君だって僕の話をたぶんあんまりわかってないんだろうけど。

それでも大切な事は、わかるんだ。頭で理解することじゃない、言葉には出来ない、うまく表現できないけれど、それは確実に存在して僕らの間にある何物にも代えがたいもの。

『彼女、氷上くんに捨てられちゃうって泣きながら言うんです』

昼間聞いた、小野田くんの言葉を思い出す。

『ヒドイ事を言って、氷上くんを怒らせたからもう許してくれない。だから怖くて連絡できないって……そうなんですか?』

電話越しの声は、涙と嗚咽が混じって、ひどく聞き取りづらかった。

――だ、だから、ちゃん、と…っ、でも、やっぱり、いや、で。ひかみ、く、行っちゃうの、ヤなんだけど、わたし…っ。

見上げた空は、ぐんぐんと深い藍色に染まっていく。夜が近くなってきて、星が一層輝く。

――この間、ごめ、なさい…っ。あやまるから…っだか、ら、キライ、に、ならないで…っ。
「……」

君は、僕の中で星のように輝いて、大切な存在だけれど、でも「星」ではなくて「君」だという事が、今の僕にはちゃんとわかる。無茶ばかり言って、話もきかないで、絵文字だらけのメールを送ってきて。だけど僕の言葉を欠片も疑わない、周りがバカにするような事だって、君だけはいつも信じてくれた。


「…僕は、君が好きだよ」


べそべそと泣くべそが聞こえる向こう側に、僕はありったけの愛しさをこめて言う。「うぇっ」と、変な声が聞こえて、思わず吹き出してしまった。

「それと、僕が行くのはアフリカでなくアメリカだ。…君は今、家にいるね?ケーキを買ったんだ。君が好きだと言っていたもの、とりあえず全部」
――…ほんとう?あれも?あのチョコのやつ。
「ああ、トリニダドだね。それと、ロネーズとエトワールとアントナンカレームも」

わぁすごーい!と電話越しに歓声が聞こえる。少し、いつもの調子が戻ってきたみたいだ。

「あと、大切なこと。僕は…うん。君に寂しい思いをさせてしまうけどやっぱり行くよ。でも、それはまだ来年の話だからね。それまでにたくさん思い出を作ろう…と言いたかったんだ」
――うん。…えへへ、あのね。氷上くん、私の事、すき?
「あっ…あぁ。もちろん。好きだ」

改めて聞かれるとやはり照れが入ってしまう。僕の言葉の次に、彼女は少しも照れずに「うん、私も好き!」と返ってきた。

――じゃあ、まずは私の家でケーキ大会だね!
「大会?何でそうなるんだ?」
――いーの!

待ってるからね!と弾んだ声で締めくくられた彼女からの電話を切り、もう一度、空を見上げた。すっかり夜空に変わっている。




そして、小さくてうつくしい、輝ける星。