俺は、面倒事は好きじゃない。
それは、人の気持ちが関わってくれば尚更だ。こちらが助けてやりたいと思っても、相手にとっては余計な事である場合もある。当人同士でしかわからない事に他人が首を突っ込むのは野暮だろうとも思う。
そんな事をいつかあかりに話したら彼女は笑って「そういうのは理屈じゃないよ」と言った。志波くんの言ったこともわかるけど、私はそんなこと考えないよと。つまりは自分の気持ちなのだと。

確かに、この時ばかりは俺は走らずにいられなかった。そいつの為というよりは、ここで黙っていたらたぶん俺自身が後悔するだろうと思った。
重く、錆びくさい屋上のドアを力任せに開ける。夕方近い時間でも、日差しは相変わらず夏のように強かった。



話は少し遡る。
その日は部の練習も軽めのメニューで終わり、それからはあかりが所属する吹奏楽部の楽譜の整理を手伝っていた。何故、吹奏楽部員でもない俺がそんな事をすることになったかといえば、それは水島密のあかりに対する計らいだった。
曰く「私とするより志波くんと一緒がいいでしょう」というわけだ。あかりは申し訳なさそうだったが、俺は心底感謝した。何にせよ、二人きりになれるのは嬉しいことに決まっている。「部室であかりちゃんに変な事しないでね」としっかり釘は刺されたが。
いくら二人きりだからといって学校で盛るほど俺はがっついちゃいない、と言いたいところだが、先日、図書室でキスをしたら盛大に泣かれ(つまりは、そういうキスだったのだ)、次の日は一日口を聞いてもらえなかったという経緯があるので、あまり偉そうなことは言えない。
とにかく、俺達は音楽準備室で仲睦まじく作業をしていた。楽譜の整理というのは意外に細かい作業があり、勝手がわからない俺は、果たして手伝えていたのかは疑わしいもんだが、それでもあかりと話しながらいられる空間は、どこだって居心地がいい。

「そういえば、ね。最近、詩穂ちゃんがね」
「しほちゃん?」
「蒼井詩穂ちゃんだよ、私と同じクラスの」
「…あぁ」

言われて、ぼんやりとその蒼井詩穂の事を思い出す。背の高い、眼鏡をかけていて…それくらいの印象しかないが、確かあかりと仲が良かった。

「詩穂ちゃんね、最近明るくなったっていうか…何かイイ感じなの!眼鏡も前のよりオシャレっぽいのに変わっててね。まぁそれは踏んづけて壊しちゃったらしいんだけど…」
「踏むって……」

嬉しそうに話すあかりに、へぇ、と初めて聞いたかのように相槌を打っていたが、実のところ、彼女の名前は最近良く聞いた。彼女は男どもの間でもちょっとした噂になっているからだ。
地味だと思っていたのに、実はかわいかったとか。かわいいっていうよりきれい系だとか。眼鏡掛けてるのがモエだとか…後半はよくわからないが、まぁ勝手な事を好き勝手に言っていて、男というのは(自分も含め)つくづく単純というか、バカな生き物だと思ったものだ。
あかり以外の女の話なんて、俺には丸きり興味はないし、あかりの友達の事を面白半分に言う事に乗るつもりもないが、確かに以前よりは会ったとき受ける印象は良い気がする。でもそれはキレイになっただとかそういう事じゃなく、彼女が以前のように視線を避けるように顔を逸らすのでなく、きちんと目を見て向き合うからだと俺は思う。
そんな話をしていた時に、ふとある事が心に浮かぶ。同じクラスという繋がりがあったからかもしれない。

「なぁ…針谷って、誰かに避けられてたりするのか?」
「ハリーが?」

あかりは、きょとんと首を傾げ、それから「まさか!」と笑った。鈴が転がるような笑い声。

「そんなわけないよ!皆と仲良いよ?ハリーは」
「まぁ……そうだろうな」

アイツは目立ちたがり屋だし、それは関係無いとしても誰かに避けられたりするようなヤツじゃない。それは、俺にもわかっている。けれど、だからこそ気になったとも言えた。何せ本人が気にしていたのだから。それとも針谷が勝手にそう思い込んでいるだけなのだろうか。 あれで意外に繊細だから、その可能性も捨てきれない。
これは、単なる勘でしかないが、針谷が「避けられている」と悩む相手は女じゃないかと思う。そもそも野郎に避けられたからといってあれほど悩むことはないだろう。直接本人に理由を聞けばいい話だし面倒なら放っておけばいい。けれども、そう簡単には済まない相手なのだろう。だからこそ普段弱いところを見せない俺にまであんな話をしたのだろう。
或いはあかりに聞けば何かわかると思ったのだが、話はそれほど簡単ではなかったのだろうか。「志波くん、これ、そっちの棚に直してくれる?」と渡された紙の束を棚にしまう。それから、何気なく視線を窓の外に移した。
今日も良く晴れている。もう夕方だが、空はまだ青さを残している。微妙なグラデーションがきれいだなと思いながらぼんやりと眺めていたのだが。
ふと、視界に入った人影に、俺は目を凝らした。向かいの校舎の屋上に見える、二つの影。

「…どうしたの?志波くん」

動きを止めた俺に、あかりが不思議そうに声を掛ける。俺はすぐには答えられなかった。どうするべきか、一瞬だけ迷う。
けれども、迷ったのもまた一瞬だった。

「志波くん?」
「…ちょっと行ってくる。すぐ戻ってくるから待っててくれ」
「え、行くってどこに…?ちょ、ちょっと志波くん!」 あかりの慌てた声が背中から聞こえてきたが、もうそれに振り返ることはなかった。



そして、今。
扉を開け放った先の世界は眩しくて、瞬間、目を細める。上がりかけた息を静める為に一度深く息を吸って、俺は辺りを見回す。場所は間違っていないはずだ。
どこに行ったと、一歩を踏み出した時、背後から微かに聞こえる、声。

「……っ、やめ……っ」

苦しげなそれは、拒絶というよりは懇願に近い響きだった。入口の後ろ側に移動したらしい、…いや、今はそんな事どうでもいい。

そこに近づけば、思わぬ、というか、どこかで予想していた光景が、やはりあった。壁際に追い詰められて、押さえつけられている彼女、蒼井詩穂。そして、その手を押さえているのは―――。

俺は、二人の間に割って入った。細い女の腕を押さえつける手を逆に抑え込んで、庇うように立つ。自分の後ろで、ずるずると彼女が座り込むのを感じた。
出来るだけ、俺は押さえた声で「大丈夫か」と声だけで尋ねる。

「…し、志波くん……」
「立てるなら、早く行け。無理なら俺がこいつを引っ張ってく」
「…だ、大丈夫」
「なら、行け」
「ふざけんな!放せよ志波っ」

噛み付くような勢いで怒鳴り、振り解こうとしてくる針谷を、何とか押さえつける。俺とこいつの体格差ならそれほど難しい事じゃないが、簡単でもない。後ろで未だに立ち竦む蒼井にもう一度「行け」と鋭く促す。
その声に弾かれたように、彼女は走って、そこから離れた。

「待てよ、逃げんな!…っくそ、何すんだよ志波、放せって!!」
「お前こそ、何しようとしてたんだ」
「うるせぇよ、てめぇには関係ねぇ、放せ!!」
「針谷!!」

尚も解こうするのを、俺も必死に押さえつける。今ここで放すことは出来ないと、それだけを考えていた。こんな事は、コイツが望んでいるわけはない。それは、針谷の顔を見ればわかることだった。
追い詰めていたはずの針谷の方が、押さえこまれていた蒼井よりずっと傷ついた顔をしていたから。

「落ち付け。…こんなの、どうかしてる。お前らしくないだろ」
「……んでだよ」
「針谷……」
「…なんで、こんなっ…」

諦めたように強張った腕が力なく下ろされた時、俺もその手を放した。針谷は、動かない。ただそこに、凍りついたように立ち尽くしていた。
本当は、言葉なんて掛けるべきではないのだろう。が、俺は何となく思ったままを口にしていた。沈黙が、耐えられなかったのかもしれない。そうでもしなければ、もしかしたらこいつは泣くんじゃないかと思ったからかもしれない。

「あいつだったのか、お前が気にしていたのは」
「………だったら、何だよ」
「いや別に。どうもしない。というか、どうにも出来ない、俺には」
「そりゃそうだろ。……俺だって、どうにも出来ねぇよ。どうしようも、ねぇ」

項垂れる針谷を前に、次の言葉を俺は言うべきかどうか迷った。それは、軽々しく口にしてはいけない事だと思ったからだ。けれども、このままはっきりさせないままでもこいつは苦しむかもしれない、とも思う。
いつかの、冬の日の記憶がちらりと頭の隅に浮かんだ。何故それを今になって思い出したのか、自分でもわからない。

面倒事は好きじゃない。けれど、放ってはおけない。理屈じゃない。

「……あいつの事、好きなのか」
「………ははっ」

髪を乱暴にかきあげながら、彼は低く嗤った。投げやりな、諦めたみたいな、乾いた声。
それは確かに笑っているはずなのに、何故だか泣いているようにしか見えなかった。





「…………こんなに嫌われてるってわかってから好きだって自覚しちまうなんて、笑うしかねぇよな」







oiseaux tristes