クリスくんと出掛けた次の日から、私の周りは少し変わった。
まず初めは、やたらとじろじろと見られた。コンタクトレンズはあれきりだ。クリスくんに一緒に選んでもらって新調した眼鏡(もちろん、お金は親から渡された分で払った)を掛けていたから、外見はそれほど変わらないと思うのだけれど、何故だか見られているような気がして居心地が悪い。
大体、見られているなんて気のせいかもしれない。勘違いである可能性の方が高いだろう。

「おはよう」

おそるおそる掛けられる声。私に挨拶してくるのなんて、うちのクラスではあかりちゃんくらいなのに、驚いて振り向くと、そこには何人かの女の子たちがいた。たぶん、同じクラスの。
まさか、何かイジメ的な展開なのだろうかと身構えたのだけれど、とりあえず何とか笑顔を作って「おはよう」と返した。

「あの……何か?」
「え?ううん、特にないけど…、その、何か蒼井さんフンイキ変わったよね」
「そう、メガネ、かわいいよねって話してたんだ。新しくしたんだ?」
「あ…これは、壊しちゃったからで…」

それから結局授業が始まるまで、私はその子たちと話していた。内容はどうってことない、取りとめのない話。けれど、それは思いのほか楽しくて、私はこんなに時間が短く感じたのは初めてだった。

「でも、よかった」
「何が?」
「だって……、急に話しかけたりして感じ悪いって思われるかなって思ってたから…」
「蒼井さん、正直、ちょっとだけコワかったし」

そう言って笑う彼女たちに、以前なら私は嫌悪を感じたかもしれない。ちょっと外見が変わったからって話しかけてくるなんて、調子がいいと思ったかもしれない。
けれど、今の私は、じんわりとあったかかった。特別嬉しいというわけでもなかったけれど、私の方も周りを寄せ付けないでいたことに、今更だけど気が付いた。

周りを妬んで、そしてそうなれない自分が嫌で、閉じこもって。今でも、まだ迷う部分はあるのだけど。
でも、変われるのかなと最近思う。投げやりになるんじゃなくて、ちゃんと向き合うのは、そんなに悪くないような気がする。



「最近、詩穂ちゃん楽しそうやね」
「…そ、そうでもないけど」
「でも、前よりエエ顔してる」

静かな美術室。私はいつものように(それはもう習慣のように)モデルを務める。最近では、姿勢を注意されることも少なくなった。少し、慣れたのだと思う。

「…あのね、私、失恋したの」
「…それって最近の話?」
「ううん。もう…だいぶ前の話。私みたいなのでも、恋とかしたことあるの意外でしょ」
「そんなことない」

クリスくんは、キャンバスから目を離さない。キャンバスの上を画材が滑る音が気持ちが良い。

「見てるだけでも幸せだったけど…、話す、事もあって。嬉しかった。色んな話、聞けたから」
「……仲良しになれたん?」
「ううん…たぶん向こうにとっては大した事なかったんだと思う。私が、期待しすぎただけ」

嬉しそうに音楽の話をする彼の顔を思い出す。よく会うのは屋上だった。別に約束なんかしないけど、でも、私はハリーに会いたくて屋上に毎日通ってた。
彼の事を考えただけで、嬉しくて切なくて。会えた時はもっと嬉しかった。でも何から話せばいいか、いつも言葉が出てこなくて私は専らハリーの話を聞くばかりだったけれど。
告白をしようと思ったのは、私の割には勇気ある決断だったと思う。したい、というよりも、せずにはいられない、という感覚に近かった。とにかく、彼に伝えてしまいたかったのだ。その先がどうなるかなんて、その時はちっとも考えてなかった。

「…それで、告白してゴメンナサイってされたん?」
「……告白、する前に振られちゃったの」

冬の日、バレンタインがもう目の前だった寒い日。廊下を急いでいた私は、ハリーの声が聞こえた気がして、立ち止まった。見れば、ハリーのクラスの教室の前だった。扉が半分くらい開いていて、そこから中の照明の光と、声が漏れていた。

―――そういやハリー、この間屋上で女子としゃべってたろ?誰だよあれ。
―――俺、知ってる。あれ蒼井だろ?オレ同じ中学だったもん。すげー地味なヤツ。

聞こえてきた言葉に、足が凍りついたように動かなくなった。心臓が嫌な感じに早くなる。嫌だ、聞きたくない。
からかい半分のふざけた言葉に、ハリーが真面目に答えるわけはないと思った。言ったとしてもふざけ半分に返すのだと思っていた。
だけど、聞こえてきたのは、静かな、けれど唸るように発した声。

―――知らねぇよ、あんなやつ。

聞きたくないのに、聞こえてしまう言葉。

―――でもさぁ、お前はそうでも蒼井はお前の事好きかもしんねぇじゃん?
―――そうそう!憧れのハリーくん、かもよ!
―――……うるせぇよ!!

彼は、囃し立てるクラスメイトを一喝し、その後、吐き捨てるように続けた。



―――俺が、あんなヤツ、好きになんかなるわけねぇだろ。



その後、その話がどうなったのか私は知らない。その言葉を聞いて、弾かれたみたいに私はそこから走って逃げたから。

(知らないってなに?)

どうして、とか、やっぱり、とか、頭の中はぐちゃぐちゃだったけれど、とにかく私は悲しかった。あんな風に言われる存在だったんだと思った。

(あんなヤツって、なに?)

泣きたくないのに、涙が止まらなかった。あんなに楽しかったハリーとの時間も、都合の良い夢か、それか体よくからかわれただけだったんだと思った。

…そんな話を聞いて、どうして告白なんか出来るだろう。それ以来、私は屋上に行くのをやめた。ハリーには、もう会いたくなかった。向こうだって、きっとそう思っていたに違いない。
偶然会ってしまうから、話をしていただけなのだ、きっと。

「……なんでそんな話、ボクにしてくれたん?」
「…さぁ、わからない。…なんか、話したくなっただけ」

私は、今だにハリーにまともに顔を合わせられない。見ただけで、体が竦む。早く忘れてしまいたいのに、そうなる感じは全然しない。
もう、好きとか、そういう感情はなかった。友達にだって、なれないだろう。きっと会わないほうが良かった人なのだ、あの人は。
話して、思い出にしてしまいたいのかもしれない。この話を、他の人にしたことはなかったから。

「…みたいって」
「え?」
「前に、進みたいって思ってるのかな、私」
「…そっか」
「そう思えるのは、クリスくんのお陰だと思う」
「ボク?」
「うん。…ありがとう」





クリスくんは、静かに笑っただけだった。ぺらりと、画用紙をめくる音が響く。







melancolique et doux