(最悪だ………)
本当に、私はどうしてこんなにもタイミングが悪いんだろう。
今日はクリスくんと約束している日だ。待ち合わせまでにはまだ時間はあるけれど、思わぬ事態に見舞われて、私は部屋で立ち尽くしていた。
服は、昨日さんざん迷ったけれど、男の子と出かける時に着て行く服なんか持っていない。結局普段の服と変わらないTシャツとジーパンにした。これでも、たぶん一番マシだと思う。
(それは、いい。んだけど……)
目の前にあるのは、軽く曲がってレンズが外れた黒ぶちの眼鏡。何度見ても、どれだけ見ても、それが元に戻ることは、ない。
「どうしよう…」
眼鏡をかけないと、とてもじゃないけど外を歩けない。昨日の夜中々眠れなくてベッドでずっと本を読んでいた。そのうち眠ってしまって、眼鏡はそのまま適当に外してしまったのだ。
それがいけなかった。朝起きたら、眼鏡は床に落ちていて、起きてベッドから出た時、自分の足で踏みつけたのだ、何の躊躇もなく、思いきり。
幸い、足を怪我する事はなかった。けれども、眼鏡は悲惨な状態だ。どうにかならないかと思ったけれど、神通力があるわけじゃなし、見ていたって元に戻るはずがない。
(とりあえず、連絡しなきゃ)
こうなったら、今日の約束は断るしかない。私はほっとしたような、けれど、どこかしょげたような気持ちになりつつ携帯電話ボタンを押した。
「もしもし、クリスくん?」
『あれ、詩穂ちゃんどないしたん?』
「えっと、…あのね、悪いんだけど今日、行けなくなっちゃって…ごめんなさい」
『……もしかして、具合悪いとか?』
突然断りの電話を入れる私に怒りもせずに、心配そうなクリスくんの声を聞いて、罪悪感で胸が痛む。思わず「そうじゃないの」と反射的に答える。
「あの……実は、眼鏡が…」
『はぃ?タガメ?』
「めがねだよ!その、壊しちゃって…眼鏡無いと…外歩けないから…」
『………ふ―――む。まぁ、かえって都合えぇかな…』
「え、なに?」
『ううん、何でも。なぁ詩穂ちゃん。そのままお家におって?ボク迎えにいくから』
「えっ!?で、でも私…」
『ダイジョーブダイジョーブ、何とかなるって。ほんならまた後でな』
「ちょっ……!」
そのままぷつりと電話は切れた。やっぱり何を考えてるんだかわからない。そしてマイペースだ。眼鏡を踏んづけた時と同じくらい呆然として、私はただ携帯電話を見つめるしかなかった。
「………まぁ、仕方無いか」
そもそも悪いのは私の方なのだし、考えてみればクリスくんにどうこう言う権利も無い。ベッドに座り込んでひとつ溜息をついて、窓の外を見る。からりと晴れていて今日も暑くなりそうだと思った。
それから30分ほどして、玄関のチャイムが鳴った。前もって玄関に降りてきていたので、鳴ってすぐにドアを開けた。
「お待たせ〜……って、詩穂ちゃん?うわぁ…ホンマに眼鏡かけてない…」
「…うん。だって壊しちゃったから。クリスくん、だよね?」
少しぼんやりするけど、さすがに彼を間違えることはない。けれどやっぱりはっきりとは見えないから、ついまじまじと彼の顔を見てしまった。
「あれ、見えてへん方が積極的やね」
「ち…ちがっ、よく見えないからつい……っ」
「いやいや、見てもらうの大歓迎やよ?どうぞどうぞ」
「だから違うってば!」
「ごめんごめん怒らんとって?ほな、行こか」
「え、行くって…?」
確かさっき行けないって言ったよねと思いつつクリスくんを見上げると、彼はにっこり笑って手の平を差し出した。
「うん。手ぇ繋いで行けば大丈夫やろ?ボクは見えてるし」
「え…えぇ!?」
「はいどうぞ、お姫さま?」
確かに、手を繋いでもらえば行けなくはない。ないけれど、本気で言ってるんだろうか。恐る恐るクリスくんの顔を見るけれど、彼の表情が変わる気配はない。
(……本気なんだ)
一つ溜息をついて、私は差し出されたクリスくんの手の平に自分の手を乗せた。もう、ここは行くしかない。
「…じゃあ、よろしく、お願いします」
「りょうか〜い!」
そして、私は彼に引っ張られて外に出たのだった。ぼんやりとする視界がやっぱり不安で、クリスくんの手を握るのにも力が籠もる。
ぼんやりとフィルターのかかった世界の中で、私の中で確かなものはクリスの手の温度だけだ。
「……こわい?」
「ちょっとだけね」
「大丈夫!…離さへんから」
「当たり前だよ!離されたら、私、動けないんだから!」
「あれ?怒られてもうた〜」
そんなやり取りをしつつ歩いていると、時間はあっという間だった。こっちが黙っていても、クリスくんはずうっとしゃべっている。今日は空がきれいとか、かわいい女の子とすれ違ったとか、風が気持ちいいとか、かわいい女の子とすれ違ったとか。
「…本当に女の子好きだね、クリスくん」
「だってみーんなかわいいもん。もちろん、詩穂ちゃんもかわいいで?」
「…またそういうこと…」
「あれ、信じてない?」
「信じてない」
クリスくんは、私が気分良く「モデル」が出来るようにそう言ってくれているのだというのは、わかりきっている。そりゃあ、言われればやっぱり嬉しい、というか、むず痒いような気持ちになるけれど、それが社交辞令の域を出ないことはわきまえているつもりだ。
「はいっ、とうちゃーく!」
「え?到着って……何ここ?どこ?」
「まぁまぁ、とりあえず入ろ?」
「ちょ、ちょっと、何!クリスくん!!」
強引に入ったそこは、よくわからないけれど、何だか高級そうなサロンみたいなところだった。そこには何人かのきれいなおねえさんと、その中心にいるきれいなおにいさんだけど、おねえさんのような言葉を話す人が待ち構えていて、クリスくんはその人達にあっさりと私を引き渡した。
「く、クリスくん!!何これ、どういうこと!?」
「まぁまぁ、大丈夫やって。ここはお父ちゃんの知り合いの人のお店やから、お金のことは心配ないし」
「そうじゃなくて!何のお店かって話なんだけど!…ちょ、ちょっとどこ連れていくんですか?やだ、はなして、いやだぁぁぁああ!!」
それからの事は、あまりに目まぐるしくてよくわからない。着ている物も身ぐるみ剥がされ、泥パックみたいなのをされたりマッサージされたり花びらがいっぱい浮かんだお風呂に浸からされたり、それが終わると椅子に座って今度は髪にも似たようなどろりとした薬剤を付けられて、蒸したり水蒸気を当てたり、もう最後の方はいちいち何をしているのか気にすることも疲れて、私はされるがままになっていた。
どうせ良く見えないのだし、あちこちマッサージしてもらって体は気持ちが良い。精神的には疲れたけど。
全てが終わり、渡された服に腕を通す。それほど奇抜なデザインでもない、シンプルな紺色のワンピース。ただ、生地の肌触りがさらさらしてて、凄く着心地がいい。
これ、どんな服なんだろうと思ってたところに「お疲れさん」と背後でクリスくんの声がした。彼はおもむろに近づいて私の顎に手を掛ける。
「なっ、何!?」
「ちょおっとじっとしてて。で、上の方見てて…」
くいっと瞼を広げて入れられたのは、どうやらコンタクトレンズらしい。冷たい異物感に、私は思わず目をつぶった。
「あ!こすったらあかんよ!」
「わかってるよ…。入れたこと、あるし。…今はしないけど」
「そうなん。よし、じゃあこっち見て」
くるんと向きを変えた先には壁一面って言ってもいいくらいの大きな鏡。そして、その中に映る私。
……私の、はずだ。間違いない。けれど、一瞬、何故か自分の姿を見落としてしまっている気がして、私は映る自分の姿を凝視した。
「これ…わたし?」
「詩穂ちゃんでないんやったら、誰なん?」
「……だ、だって…」
別人、とは言いすぎかもしれない。だって、特別に化粧をしたり、凝ったヘアメイクをしているわけじゃないし。髪だっておろしたままだし、服だってワンピースに変わっただけだ。
それなのに、どうしてこんなに違って見えるんだろう。
「何だか、私じゃないみたい…」
「そんなことあらへん」
「え?」
振り返ると、クリスくんはやっぱりいつもの優しい笑顔をしていた。今は、はっきり見える。
「別に、僕には変わらへんよ?詩穂ちゃんは詩穂ちゃんやから」
「……え」
「でも……そうやな。知ってほしかったって言うんかな」
「…知ってほしい?」
「詩穂ちゃん、自分のこと全然分かってへんから。ちょっとわかりやすくしてあげてん」
いっつもモデルしてもらってるしと、クリスくんはぱちんと片目をつぶる。私はそれを、半分呆けたような気持ちで見ていた。
自分の事を解っていない。…私が?自分の事なのに?
もう一度、振り返って鏡を見る。そこに映る私。私が知らなかった私。いつもの癖で丸めてしまう背中を、思いきって伸ばしてみる。いつも、クリスくんに注意される事を思い出しながら。
少し、世界が開けたような気がした。
lent et sombre