実際、モデルなんて安請け合いで引き受けるものじゃないと思った。
別に、特別なポーズを取るわけじゃない。真っ直ぐ前を向いたまま座る、指定されたのはそれだけだった。けれど、「ただ座る」といった姿勢でも、クリスくんには妥協がない。
「背筋伸ばして」
「顔ももう少し上げて」
「でも顎は引いて」
言われた注文通りにして、なお且つそれを保つというのは大変な労力と集中力がいった。一度は引き受けた責任感があって頑張るのだけど、音を上げるのはいつも私の方から。それが、すごく悔しい。
美術室は、独特の油くさい匂いがする。埃っぽくて、けれど、どこか落ち着く空気。そこは私達だけじゃなく、他にも何人か部員がいたけれど、その穏やかな静けさが破られることはなかった。
「はいどうぞ」
休憩していると、美術部員の一人がパック入りのウーロン茶を差し出してくれた。思わぬ差し入れに驚きつつも、ありがとうと受け取る。
「疲れたでしょう?放課後ずっとだもんね?」
「…まぁ。ちょっと甘く見てた、かも」
「でも頑張ってるよ!えっと、蒼井さん、だったっけ?」
「うん…お茶、ありがとう。喉乾いてたから嬉しい」
「いえいえ、どういたしまして。…でも、これからしばらく蒼井さん大変かも」
「え?」
どういう意味?と首を傾げると、部員の子はふふっと少しいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「だって、しばらくクリスくんから離してもらえないよ。久々に凄く集中してるみたいだから」
「そ、それってどういう…」
「すごーくアナタの事気に入ってるってこと!頑張ってね〜」
気に入ってるっていうのは、つまりクリスくんの芸術を創り出すための「素材」って意味なんだろうけど、それは確かに大変そうだ。
体力無いから、走ったりして鍛えた方がいいかな…なんてぼんやり考えてると、外していたクリスくんが戻ってくる。その間にも部員の子に声を掛けたり、あるいは掛けられたり、彼はいつも笑顔だ。
笑う。そういえば、私、最近笑ってない。何となく口元では笑えても、心から笑顔になれることって、なかった。
「あっ!詩穂ちゃんあか〜ん!」
「えっ!」
目が合った途端、突然大きな声で言われたので、思わずびくりと肩が引きつる。クリスくんは眉をハの字にして、あかんあかんと手をひらひらさせた。
「詩穂ちゃん、また肩が丸うなってるよ?ほら、楽にして、ついでに背筋しゃんとして!」
「は、はいっ」
とん、と背を軽く押され、つられて背筋がくん、と伸びる。同時に、視界が、世界が広がる感覚。頭の上で、クリスくんが微笑むのがわかった。
「……ん、やっぱそっちのがキレイ」
「でも、あんまり好きじゃない」
「なんで〜?」
ちょっと言ってみただけなのに、物凄く哀しげな声で言われて、こっちの方が焦る。なんか、クリスくんと話していると私ばっかり振り回されている気がして仕方無いんだけど。
「だって…余計大きく見えるし…」
「それ、なんかアカンの?」
「だって、目立つじゃない。目立ちたくないのに…」
「気にしすぎやと思うけどなぁ…ボクは、キレイやと思うよ」
「それは…っ」
反論しようとして彼を見上げ、けれど目の前に飛び込んできた彼の表情に何も言えなくなってしまった。
すごく、優しい顔をしてた。
(な……)
こんな顔で見られたこと、ない。
顔が熱くなっていくのを見られるのが嫌で、私は慌てて下を向いた。もちろん、背筋は伸ばしたままだったけど。
クリスくんは相変わらずいつもの調子で、ほな始めよか〜と、自分の席に移動しようとして…そのままピタリと足を止めた。
そして、すい、と私の髪を一房手に取る。
髪なんて触られることがない(特に男の子なんて!)から、びっくりして思わず首をすくめたけれど、クリスくんは少しも気にせず手の中にある私の髪をまじまじと見つめている。
「な、何?どうしたの、クリスくん」
「…これ、枝毛。先ちょっと痛んでる」
「あ、そう」
「勿体ないなぁ、キレイな髪やのに……」
うーんと、しばらく考え込んで、それからぽんと手を打つ音がした。
一体何を思いついたんだろう、また何かトンデモナイ事を言われそうな気がして、私は軽く身構える。
クリスくんは私の顔を覗き込んで、にっこり笑った。
「詩穂ちゃん、今度の日曜空いてる?」
しばらくクリスくんから離してもらえないよ。さっきの美術部員の言葉が頭のどこかで響いた。
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