大学の学生生活というのは、確かに高校の頃とは少し違った。何よりも大きいのは家を出て一人暮らしをしたという事だろう。
別に実家からでも通えなくはなかったけれど、私は家を出た。両親は大して反対もしないでくれたから有難かった。(一流に入った、という点は大きかったと思うけれど)
制服も無いから毎日着ていく服も考えなければいけないし、時間割も自分で決める。ごはんも自分で何とかするし、洗濯もする、掃除もする。バイトも始めた。
けれどそういう小さな出来事たちは、初めこそいちいち感謝したり感動したりする切っ掛けになったけれど、慣れてしまえば単なる生活の一部だった。
いわゆる「キャンパスライフ」というのも、私にとっては羽学か、一流大学かの違いしかなかった。大学でさえそうなのだから、日常なんてほとんど毎日が同じ事の繰り返しだ。
けれど、だからといって私は腐ったりはしなかった。そんな風に思う時間も正直なかったし、毎日が同じようであることはある意味私にとっては良い事だったのかもしれない。
(勉強をする、という意味においてだけはかなり充実していた。私は割と真面目な学生だったために)
高校を卒業してから、音楽をあまり聞かなくなった。正確には、それらは「音楽」として私には届かない。テレビなんて、本当にただの雑音を生む機械になってしまった。
そういう意味では、私はかなり慎重に生活していた。私は、「その時」を見誤るわけにはいかないのだから。
たぶん、長い人生で見れば些細な、瑣末な事だと思う。けれど、それを逃したら私はきっと一生後悔する。それだけはわかっていた。
「……これ、何ですか?」
「あれ、知らない?SUPER CHARGERってさ、すげー人気なんだぜ?」
私が聞いたのは、どうしてその人気バンドのライブのチケットが私の前にあるのですかと言う事なんだけど、と、心の中では呟いたが、向かいに座る人が余りにも得意げなので黙っておく。
そこは、大学の近くに新しく出来た<イタリアンのお店だった。雰囲気はカジュアルで、学生にも入りやすい。(裏を返せば、この立地条件からして暇を持て余している学生をターゲットにしている事は目に見えているわけだが)向かいに座っているのは二学年上の先輩だった。たまたま取った講義が同じで話をするようになった。どうして私なんかと関わりたがるのか不思議なほどに社交的な人だった。面倒見の良い人で、彼を慕う後輩は割とたくさんいる。趣味はドライブとサーフィン。好きな音楽は80年代の洋楽。タバコは吸っていたけれど今は禁煙中。
人間的にはとても良い人だけど、いつも着こんでいるイタリアンシャツだとか、身に付けているシルバーアクセサリーが、壊滅的に似合っていない人だった。けれど、いつもそういう系統の雑誌をまめにテェックしている。つまり、その辺りをうまく読み込めない人なのだった。
この人の格好を見ると、たとえば、羽学で一緒だった佐伯くんや、同じ学部の赤城くんなんかを思い出してしまう。彼らなら、きっともっとすんなりと似合うだろうにと思うのだ。(だけどきっと彼らはこんな恰好を好んではしないだろう)
「そっかー、シホちゃんはあんまりこういうの知らなさそうだもんなー」
「まぁ…あんまり聞きませんね、確かに」
私の反応の薄さに、先輩はバンドそのものを知らないのだと思ったらしく、SUPER CHARGERがいかに人気か、そしてこのチケットを取るのがどれほど困難かを熱っぽく話し始める。
私は適当に相槌を打ちながら窓の外を見ていた。今日も天気が良い。出てくるランチは見た目がカラフルで、デザートまでとっても美味しかった。いつか、あかりちゃんを誘ってみよう。
SUPER CHARGERといえば、そういえば赤城くんのカノジョが好きだって言ってた気がする。どうだったろう、忘れてしまった。まぁどうでもいいことだけど。
そこでとめどない思考を打ち切って、こっそりとため息をついた。気が付かない先輩も先輩だけど、私も私だ。こんなのってあんまりだ。
断りきれなかったとはいえ、やっぱり来るんじゃなかった。先輩から毎日送られてくるメールも、こうしてランチに誘ってくれるのも、目の前のチケットも、それがどういう意味かくらい私にだってわかっている。(一体、何だってそんな気になったのかは全くわからないけれど)
でも、やっぱり断るべきだった。こういう気持ちを、無下にするのはやっぱり良くない。今日は奢りだと言ってくれたけど、きちんと自分の分は払おう。
さて、どうやって切り上げようかと考えながら店内を目だけで見回す。とても清潔で、明るかった。クリーム色の壁に、観葉植物の緑がきれいに映える。
店内は、やはり友達同士やらカップルなんかの学生でにぎわっていた。会話の邪魔にならないボリュウムで、ラジオのFM放送がかかっている。けれどそれも、食事をしている人達の会話に埋もれて、ほとんど聞こえないくらいだった。そして、私は、その瞬間までそれがラジオ放送だったなんてちっとも気が付かなかった。
そう、だからやっぱりそれは「その時」で間違いなかったんだ。
「賭け」をしていた。「賭け」というよりも、それは決意だった。ただ、その瞬間を、自分の感覚だけで決めていたから「賭け」と言っていただけだ。
バカバカしい妄想だと言ってしまえばそこまでだけど、少なくとも私にとってそれは全てだった。もう絶対に迷わないし怯まないと、強く強く言い聞かせてきた。
「……あれ?シホちゃん、どうしたの?」
「…ごめんなさい。私、行かないと」
「え?でも、今日は4限からだから時間あるって…」
「大学じゃないんです。…これ、今日のランチ代です、ごちそうさまでした」
カバンとコートを引っ掴んで、先輩の慌てて止めようとする声にも振り返ることなく私はそのお洒落なイタリアンレストランを足早に出た。足がうまく言う事を聞いてくれなくてもつれそうになりながらも、転ぶのだけは何とか免れた。
こんなヒールの高いブーツなんて履いてくるんじゃなかった。ふわふわしたシフォン生地のスカートなんて履いてくるんじゃなかった。走りにくいったらない。
でも、行かなきゃ。泣きごと言っている場合じゃない。これでもう最後だから。
もう「終わり」だから。
――続きましては、人気急上昇中のRed Cro'zの来週発売されるファーストアルバムから一曲ご紹介します。
――この曲は、ボーカルのハリーさんのお気に入りの曲なんだそうですよー。
――思い入れもあり、アレンジも色々と迷ったけれども、この形で出そうと決めた、というのはハリーさんからのコメントなんですが。
――何でも、高校生の時から考えていらっしゃったってことでねぇー。でもついこの間の事なんですもんねー、スゴイですよねー。
――では、聴いて頂きましょう、Red Cro'zで……。
想わない日はなかった。惰性かもしれない、少なくとも前向きな気持ちとは違った。それでも、想わずにはいられなかった。それだけだ。
だから、「その時」を待っていた。それは「賭け」でもあった。頼れるのは自分の気持ちだけ。いつも空回ってた、この想いだけ。
バカバカしい妄想だと言ってしまえばそれまでだけど、少なくとも俺にとってはそれが全てだった。もう一度、信じる。絶対に間違えない。
あの場所しかなかった。そこへ行けば、全部が解決して全部が終わる。行くだけだ。
屋上は誰もいなかった。
そうは言っても、今日は思いきり平日だから授業もあっただろうしクラブ活動もあるから、関係者や学生に見つからずにここまでこれたのは奇跡とも言える。
学校に入ってからはブーツは脱いだ。ストッキングをはいているだけの足は、冷たくなりすぎてもう感覚もない。
いくら急いでいたからって、一階からここまで駆け上がってくるなんて少し無謀だったかなと収まらない息を落ち着かせながら思った。呼吸しすぎたせいなのか、肺がつめたくて痛い。
けれど、走ってきた体は火照って熱かった。髪も、手にしていたコートもカバンもぐしゃぐしゃだ。こんなに必死になって走ってくるなんて何て情熱なんだろうと、何だか可笑しくなってくる。
ああ、違うな。私は嬉しいんだ。だって、あの歌は私だって「特別」なんだもの。
あの時聞こえたイントロは間違えるわけもなくあの曲で、そして「音楽」だった。私の中に唯一流れるもの。
「……アルバムが出るだなんて、知らなかったなぁ…」
しばらく手すりにもたれて、そこに立っていた。誰も来ないことなんて初めからわかっていたことだ。それでも、何となく離れがたかった。
久しぶりに耳にした歌を、軽く口ずさんでみる。いつだったか、こっそり歌ったみたいに。
私は何も変われなかったと思っていたけれど、いざここに戻ってくると、やっぱり前までと同じではないのだと思った。
ここはもう私の居場所じゃない、制服も着れないし、誰もいない。
「好きだよ」
声を、誉めてくれたのが嬉しかった。「知らない」と言われて悲しかったこともあった。修学旅行の時におまんじゅうのお土産を買ってくれたこと、ライブに見に来てほしいと言ってくれたこと。
ずっと、好きだと言ってくれたこと。
「…私も、ハリーが好きだったよ」
今なら口に出して言える。本当に、今更だけど。もう「終わって」しまうのだけど。
卒業式の日、せめて一言くらい挨拶すれば良かった。「ありがとう」くらい、言えれば良かった。
連絡も取らないし(そもそもその手段について私は深く考えたことはなかった)、話も特別聞いたわけでもない。でも、想わない日は一日もなかった。
今、この瞬間まで、私はハリーがずっと好きだったんだ。
帰らなくちゃと思う。荷物は足元に投げ出したままだった。コートも着ていない体は、すっかり冷えている。
「おい、そこの部外者」
指先も、足も、全部が冷え切って、動かそうとしてもうまく力が入らない。それどころか、力が抜けて座り込んでしまいそうだった。
「何てカッコウで突っ立ってんだよ、風邪ひきてぇのか。つーか、聞こえてんのか?聞こえてるよな?」
振り向きたいのに、動けなかった。立っているので精一杯だ。おまけに、あまりの寒さで耳がおかしくなったらしい。
「しっかし良く入れたよなー、オマエ鈍くさそうなのにな?…まぁさすがのオレ様も若王子の姿を見かけた時はヤベぇと思ったけど」
声は、だんだん近づいてくる。やっぱり、夢じゃない。夢なんかじゃないんだ。信じられない。
「……詩穂」
耳に届く声で、世界は変わるのがわかる。信じられない。どんな顔をしていいかわからない。何て言っていいかわからない。
「…実を言うと、俺はちょっとビックリしてる。でもさ、お前がここにいるのは偶然じゃないよな?」
偶然なはずはない。でも、偶然じゃないならこれはどういう事なんだろう。奇跡?運命?
ああ、もう何でもいい。そんなの、どうでもいい。要するに、私たちは間違えなかっただけなんだと思う。同じ瞬間を、間違えなかった。
「……さむい」
「そりゃそうだろ、んなカッコでいるんだから!コート着ろ!ちゃんと!」
「うん、ありがとう……ハリー」
「あ?なんだ?」
「私、……今日、本当は午後から授業があったんだ」
「そーかよ。俺だって今度のライブのリハとかあったぜ。バイトだってまだ続けてるしよ。…全部ぶっちぎって来ちまった」
「大丈夫なの?」
「ヘーキだ!まぁ井上あたりからごちゃごちゃ言われるだろうけどな。それよりお前もいいのかよ?授業サボってこんなトコ来て」
「うん、たぶん。ヘーキ。…あのねハリー」
無理やりコートを着せられながら、私は何とか笑った。たぶん、笑うので間違ってないと思う。涙は止められないから、もう放っておく。
「なんだぁ?その顔。泣くか笑うかどっちかにしろ!」
「ごめん…。あのね、わたし、ハリーが好きだよ。今更だけど、私も、ずっと、好きだったよ」
それは、決めていたこと。
もう絶対に迷わないし怯まない。
ハリーはしばらく呆けたような顔をしていたけど、我に帰ると急に赤くなって怒り始めた。
「ば…ばーか!遅ぇよ!!遅ぇことは牛でもするんだ、知ってるか!?」
「だから、今更だけどって」
「るせぇ!そんなんどうでもいい!……ははっ、ほんと、どうでもいい」
誰もいない屋上は、風が強かった。けれど、私はちっとも寒くはなかった。
「俺のほうが好きだっての」と言ってくれたハリーも、たぶん。
"C'est une commencement?", "Oui! C'est exactement!"