時間というのは、その流れに逆らいさえしなければどんどん流れていくものなのだな、と思った。
これが、泣いても笑っても、走っても眠っても同じ一秒だなんて、私は今でも少し信じられない。

とにかく。「あれから」、驚く早さで時間は過ぎた。2年の文化祭の日。ハリーのライブを聴きに行った日、クリスくんとお別れした日。

しばらくはやっぱり抜け殻のような気持ちでいたけれど、その割には落ち込む事はなかった、少なくとも周りが思っている程には。
むしろ、楽になったと言えるかもしれない。肩が軽くなったような、少し背が伸びたような、そんな感じ。「ヒドイオンナ」という枠組みがあるならば、きっと入れるなと笑ってしまう。

私も、クリスくんも、ハリーも。まるで変わらなかった。特にクリスくんとは、あの時の事が夢だったのかと思うくらい、何も。

けれど、もちろん夢なはずはない。その証拠に、私の心にはただ一つ揺るぎない気持ちがずっとある。

進路志望は、一流大学にした。今の成績だと少し厳しいけれど、頑張れば大丈夫ですよと若王子先生が言ってくれた。
私はかなり真面目に勉強した。時々はクリスくんの勉強を手伝ったり、ついでに何故か志波くんやあかりちゃんのも手伝ったりした。二人の理解度は一見変わらないようでそのタイプが全然違うから、説明するのも一苦労だったけど、おかげで私も復習できたりして、まぁ持ちつ持たれつってヤツだなと志波くんが言ったので、そうだねと笑いあったりした。(この場合、あかりちゃんは補習組ではないので、完全に応援に回ることになる)

穏やかで、起伏のない毎日。振り返らなければ、春も夏も、大して変わらない。
気付けばあっという間に秋が過ぎて冬が来て、その冬ももう終わりかかっている。卒業が近かった。

クリスくんは、卒業したらイギリスへ行ってしまうらしい。驚いたし、やっぱり少し淋しかった。
でもそれはきちんと「友人」としての淋しさで、既にそう思える自分の現金さに、少し呆れもする。
イギリスへ遊びに行くねと言ったら、クリスくんは笑顔でもちろんと答えてから、でも一人で来たらあかんよと言った。


「どうして?」
「女の子のヒトリタビなんて危ないやんか。それに、何が起こるかわからんもん」


もちろんボクはシンシやけど、とクリスくんは微妙な(けれど真面目な)顔つきだった。どういう意味なのか、今でもよく分からない。

ハリーの話はたまに聞いた。でも、それくらいだった。3年生になってからは、端と端くらいにクラスが離れてしまったからほとんど顔を合わせる事はなかった。それでも、時々会えば私たちは一瞬だけ迷って、それから笑い合う。それはお互い許しあった証明で、けれどこれ以上は干渉しないという意志表示みたいなものだった。
私はこれ以上近づかないし、ハリーも私に近寄らない。

時間というのは、止まらずに流れる水のようなものだなと思う。何もかも流して、薄めていく。そのうち、そんなもの無かったって、思えるくらいに。
だって一年目の冬、私はこの世で一番不幸だと思うくらい悲しくて泣いたし、二年目の春には周りをうらやんで妬んでいたし、…秋にはやっぱりまた少し泣いたし。
けれど、今の私はこんなに落ち着いている。あれら全てを、莫迦げた喜劇みたいだと笑おうと思えば笑えなくもないくらいには強くて鈍くなっている。
だけどそれだけでは説明出来ない気持ちが、私の中にはやっぱりあって。それは、ただ流されて角が取れてしまってもやっぱり無くなったりはしなくて。



だから、一度だけ「賭け」をしてみようと思う。



「例えば」とか、「もしも」とか、それらはもう私の中では大した力を持たない言葉だ。だって、どんなに願ったって祈ったって、なるようにしかならない。
どうにもならない、そういう風にしかなりようがない、そこまで追い詰められなければ何一つ変わらない。それを、私は知ってしまったから。
だから、もう一度だけそれを信じるとするならば、私にとってはその「瞬間」でしかない。それはほとんど確信だけれど、やっぱり「賭け」だ。





屋上に来るのは久しぶりだった。元々冬の間は寒いからあまり行かないが、もちろん理由はそれだけじゃない。

「あれから」。詩穂とクリスは別れた。けれど二人は相変わらず仲良さそうで、俺と詩穂はというと特別進展するわけでもなかった。ただ、詩穂の中では何かが吹っ切れたのか、以前のような妙に構える態度ではなくなった。俺にとってはかなり心安らかになれる展開ではあったが、けれどもそれは例えばマイナスがゼロになるのと変わらない意味での「結果」でもあって、ある意味それ以上の「期待」は塞がれているようなものだ。
詩穂は妙にまた少し綺麗になったりしてますます周りの野郎どもを騒がせたりしていたが、本人はそれに気付く事もなく相変わらず地味な生活だったみたいだ。

遠目で見るアイツは背筋が綺麗で、とても静かに笑った。暗いわけではない。けれども、明るいというわけでもない。ただ、相変わらず俺は目が離せない。

そんなこんなで3年になるとクラスもこれでもかというくらいに離れ、それからは何でもなかったかのように時は流れた。アイツの志望校は一流らしい。あかりからそう聞いた。
俺は俺で、自分の夢の為に必死だった。無駄な時間なんて一秒もなかったし、一秒たりとも無駄には出来ない。そんな思いで過ごしていた。

詩穂とは滅多と会うことはなかったが、それでも時々はばったり会うときもあった。そういう時俺達は、いつもほんの一瞬だけ迷い、けれど結果的にはよくわからない笑顔を見せ合う。
何も無かったかのように、詩穂は笑う。けれど、もちろん何も無かったわけはない。

俺は、忘れないようにするのに必死だった。時間は残酷だと思う。少しでも気を緩めると、何もかもが時間に呑まれてぼやけていく、消えていく。
べっとりとした重みすら感じる泥水も何度も濾過すればきれいになるように、この気持ちそのものがまるできれいな「思い出」になるようで、だから必死だった。冗談じゃねぇと思った。
忘れるくらいなら、痛い方がマシだとすら思う。そしてどのみち、俺は完全に忘れることなんて無理なんだ。歌と音楽がそこに付きまとう限りは。

どんな音楽も、言葉も、俺が大切にしたいと思う全てが「それ」に触れるから、忘れるなんて出来るわけがない。
傷付けるだけかもしれない、苦しめるだけかもしれない。だけども忘れたくはない。失いたくはない、少なくとも俺は。

もう周りは待ってはくれない。俺の気持ちも、焦りも、不安も、何もかも巻き込んでただ前に進むしかない。進まなければいけない。
俺は、ずっと待っていられるならそうしたかった。いや、そうするつもりだ。意識すれば、まばたきするくらいの早さでそれを思い出せるように、手を伸ばせばすぐに取れるくらいに。
何も諦めたくない。まるで駄々をこねるガキみたいだと思わなくもない。だけど、どうしてもダメなんだ。アイツでなければダメなのだと、体全部がそう叫んでいるみたいに。



だから、俺はその「機会」を見逃せない、絶対に。



耳を澄ませて、目を見開いて、注意深く、慎重に。それは、少し音楽に似ている。だから、俺にはわかるはずだ。
わかっていなけりゃ、俺はやっぱりバカなんだろう。そこまでだ。それこそもうどうしようもない。

たぶん、そこが本当の「終わり」なんだろう。


「あれ?まだ人がおったんやなー」


振り返ると、陽にきらめく金色の髪が見えた。ふわふわして柔らかそうなそれを肩に流して、アイツは目元を緩めてにっこりと笑顔を向ける。
それは、ひどく穏やかで大人びていて、だから余計に負けたような気がして俺は慌てて振り返った首をを元に戻して前を向いた。つまり、クリスには背を向ける事になる。


「なんだ、オマエかよ。オレ様はオマエがキライなんだよ、あっち行け」
「えー?オコサマやなぁ。ボクはハリーくん嫌いちゃうよ、別に」
「ウッセェよ!オレだって、別にキライじゃねーし!ちょっと顔を合わせたくねーだけだ!オコサマなわけじゃねぇ!」
「どっちなん?……まぁ、でもサイゴは仲良くお別れしたいなぁ、思て」
「……っ、お前なぁ!そーいうのハンソクって言うんだぞ!この、ヒキョーもの!」


俺は声を荒げてそう言ったが、どのみちあまり効果が無いのはわかっていた。俺はもう、コイツの事を何とも思ってないのだから。
負けたくなかったけれど、嫌いだとか、そんな風に思った事はない。今ではむしろ妙な親近感すら持っている。悔しいから言わないだけだ。
サイゴ。最後。今は妙に胸に響く言葉だった。高校を卒業することなんか何でもない、むしろ早く卒業したいとすら思っていたのに、いざそうなるとやっぱり淋しいのは事実だった。
例え、こんなヤツに言われたとしてもつい胸が詰まりそうになるくらいには、だ。


「…ったく、よりによってオマエとしんみりなんてしたくないっつーの」
「なに?ミリン?」
「ちげーよ、何聞いてんだ!ワザとか!?ワザとなのか!?しんみりだっつの!」
「まぁまぁ、そない怒らんといて?…ボクみたいなんと話すの、ハリーくんはイヤかもしれんけど」
「……誰も、んな事言ってねぇだろ。今のはボケに対するツッコミだ。気にすんな」


ざり、と、一歩、クリスが近づくのが気配でわかった。少し強く風が吹く。たぶん、クリスの金髪は風に吹かれても綺麗なんだろうなとぼんやり思った。


「…ええの?もう」
「何がだよ」
「ボク、二人はさっさと付き合うんかと思ってた」
「アホか。世の中そんなタンジュンに出来てねーんだよ。そんな簡単なら俺も苦労しねーって」
「……そっか。そうやね。タンジュンやなくて、うまくいかへんのに、そうなってしまうんやもんね」


柔らかな声音に、何かが混ざったけれど、それが何なのかは俺にはわからない。クリスにしかわからない感情。
けれど、たぶん俺も持っているもの。
本当に、どうしてこうなってしまうんだろう。もっとタンジュンに、効率良く、傷つかずにいる事だって出来たはずなのに。

それなのに、いつだって、一番どうしようもない選択肢を選んでしまうんだよな。俺も、お前も。


「まぁ、俺もお前も、メンドクサイ女を好きになったって事だよな」
「めんどくさい?それって誉め言葉なん?」
「自分で調べろ、んなもの。めんどくせーだろうが。お前のこと好きなのに別れて、でも、俺には絶対に近寄らないんだぜ、アイツ」
「……好きなのに、か。でも、しゃあないよ。詩穂ちゃんは、ボクとは一緒にはいられへんっていうのが答えやったんやから」
「だから、それがメンドクサイんだよ。俺だってなぁ色々忙しいんだぜ?卒業したらマジでただのプーだしよ、バイトは続けるとしてもバンドもこれから本気でやらなきゃいけないし」
「うん。まぁボクもイギリス行くし」
「だろ?アイツ一人の事、思い悩んでる場合じゃねんだよ、正直。それだってのにさ……本当に、マジでメンドクサイってのに、まだ諦めてねーんだよ、俺」


言うつもりなんてなかった言葉は、弱々しく溶けて消える。ふ、と空気が揺れた気がした。クリスは笑ったらしかった。


「でも、ボクはハリーくんやったらダイジョウブやと思うよ?」
「……うるせー。全然心がこもってる気がしねぇ」
「あはは、バレた?…でも、大丈夫。ハリーくんは、詩穂ちゃんのこと、待ってあげられるから」


だから、俺はその「機会」を見逃せない。


たぶん、それは微かな、ちっぽけなことなんだ。だけど、それだけで、全部がひっくり返るようなとても大事なこと。
いつ、どんな風にあるかはわからない。気の遠くなるような話だ。
でも、俺は待てる。そして、今度は間違えない。
背中の向こうの足音が遠ざかる。俺は結局、一度も振り返る事が出来なかった。





次の日、俺達は羽ヶ崎学園を卒業した。詩穂は一度だけ見かけたけれど、声をかける事はなかった。







Tu m'a dis "au revoir", je t'ai dis "encore une fois".