「ぜってぇ、離さねぇ」
何の迷いもない、凛とした響き。
けれど、ハリーはそう言って、掴んでいた手を、そっと離した。
「…………と、言いてぇところだけど。…行けよ、今日は、歌聞いてくれただけで充分だ」
「ずいぶん、余裕やね、ハリーくん」
「ヨユーなのは、そっちじゃねーの?」
フン、と、ハリーは強い視線を向けるクリスくんに笑って見せた。
「こんな時間まで、こいつ一人にしておくなんてさ。いくら俺が連敗中でも、どう引っくり返るかわからねぇぜ?」
「あきらめ、悪いんやね」
「もう開き直りの境地だな、はっきり言って。まぁな、諦めねーよ。…そんなカンタンには諦められねぇんだ」
ほら行けと、目で促すハリーは、さっきまでとは打って変わって穏やかだった。それから、ありがとう、と言われた。
「聞いてくれて、嬉しかった」
「ハリー…私、やっぱり、こたえられないよ、何も」
「……………いいから行け」
「だから、もう……」
「言ったろ。……そんな弱い言葉じゃ、俺は止められないって」
クリスはそれ以上何も言わずに、詩穂と一緒に行った。
「……あーぁ…」
出て行く二人を見送りながら、ため息一つついて、手すりにもたれて座り込む。手のひらを、目の前に差し出した。さっきまで、詩穂の腕を掴んでいた手。
まだ、あいつの体温がそこに残っているような気がして、それを逃がしたくなくて、手のひらを握り締めた、強く。
――もうやめて。
――やっぱり、こたえられないよ、何も。
「……くっそ、マジで言うか、フツー…」
歌を聞いてくれただけで十分だなんて言ったけど。諦めない、離さないと言ったけど。
本当は、もうギリギリだ、俺も。好きだと言えばいうほど、俺はただ詩穂を苦しめるだけだ。何も出来ないし、どんな言葉も届かない。
「やっぱり、俺じゃ無理なのかな……」
もうどうしたって手遅れなのかもしれない。あいつの言うとおり「イマサラ」なのかもしれない。
一度は拒絶しておいて、でも本当はそうじゃなくて好きだったなんて、やっぱり虫が良すぎるのかもしれない。
「俺……またアイツに怒鳴って…、サイテーだ…」
この心は殺せない。俺は嘘をついてあいつを傷つけたから、もう二度と誤魔化さないって決めた。詩穂の為にも自分の為にもそれが一番良いんだと思ってた。
でも、結果苦しめることにしかならないのなら、もう意味なんてない気がする。俺は、自分のことばかり考えていたけど、それを向けられる詩穂だって辛いんだろう。
――つまりは、それが「答え」じゃないのか。
私とクリスくんは無言で歩いていた。日が落ちて、冷たい風が体を冷やす。そして頭の中も。
繋がれた手の温もりはいつも通り優しかった。そう、まるでいつも通り。こんな時ですら、この人は優しい。
歩いている間、クリスくんとの事を考えていた。屋上から絵が降ってきたこと、モデルを頼まれたこと、日曜日、色んなところに出掛けたこと、コンタクト、空中庭園、描かれたたくさんの絵。
お日さまみたいにあたたかくて、羽のようにやわらかな大切な出来事。私を護って、支えてくれたもの。そして、それを与えてくれるひと。
いつもいつも優しかった。笑ってくれた。「かわいい」って言ってくれた。嫌な事なんて、一つもされた事がない。
ただ一つ、「そばにいて」と言われた。
「クリスくん…」
「……なに?」
「私のこと、探してくれたの?」
「うん。ケータイ、メールも電話も返事ないし、どこかなって…」
「そっか。ありがとう」
「ゴミ捨て行ったまま帰って来ぇへんって、あかりちゃん心配してたで?荷物は預かってる。美術室に置いてあるから」
「うん。ありがとう」
そう言って、私は繋がれた手を握り返す。この手の温度を、よく憶えておこうと思った。
もう、これで最後だから。
美術室にはもう誰もいなかった。もう学校自体にもあまり人はいない。しんと静まりかえった美術室で、私はそれをもう一度見た。
キャンバスの中で、微笑むひと。美しく、つよいもの。私をモデルに描かれたとは、今でもまだ信じられないくらい。
「それ、めっちゃ評判よかってん。すごいたくさんの人が見にきてくれた」
「うん、良い絵だもんね」
「詩穂ちゃんも、見に来たら良かったのに」
「………クリスくん」
声が、震える。
「わたし、言わなきゃいけないことが、あるの」
「……………別に、無理して言わんでもいいよ」
「ううん、言う。……あのね、ごめんなさい」
「なんで?なんで詩穂ちゃんが謝るん?」
繋いだ手を離そうとしたら、逆に掴まれた。ダメだ、うまく話せない。
「だって、私、クリスくんに、ひどいこと、したから」
「そんなことない」
「あるよ!ハリーのこと、ずっと、ずっと言えないままだったし、今日だって…っ」
「それは…」
「今日、だって、私、ハリーのライブに、行ったんだよ。クリスくんの、ところじゃなくて、私っ…」
絶対泣いたらダメだと思っていたのに、喉が熱くなって声がうまく出せない。
「詩穂ちゃんが前に好きやって、失恋したっていうのは、ハリーくんやったんやね」
「……………うん」
「それで?ハリーくんに好きって言われたからボクと別れるって?それで、ボクを捨てて二人でハッピーエンドってこと?」
「違うよ!そんな…そんなこと」
「じゃあ、問題、無いよ」
「……だめだよ。このままじゃ、もういられない」
深く息を吸い込んで、吐く。クリスくんやハリーの事じゃない。これは、私の問題なんだ。私のせいでこんな事になってしまっている。
弱くて、優しさに甘えてばかりいたから、こんな事になったんだ。自分ばかり甘やかして、この人を傷つけた。
初めから、嘘をつきたいと思っていたわけじゃない。ハリーの事なんて忘れてしまいたかったのは本当だし、実際、そう思えた瞬間もあった。
だけど、やっぱりダメだった。私は忘れられなかったんだ。ずっとどこかで、ハリーの事を考えていた。
好きだと言われて、驚いたけど、嬉しかった。今日の、ライブで歌を聞いた時だって。嬉しかった。嬉しくて幸福だった。
ずっとずっと、ハリーの事が好きだった。
最低だ、私。
「――イヤや」
不意に、視界が暗くなる。背中に強く感じる、まわされた腕のちから。
こんなに強く、抱きしめられたのは初めてだと、ぼんやりと思った。いつも包み込むみたいに優しかったから。
それは、私を大事にしていてくれたということで、そして、それだけの想いを、私は受け取っていたということで。そう考えればじんわりと心は温かくなる。
以前の私なら、戻ろうとするかもしれない。クリスくんの傍にいる事を選んだかもしれない。今まで、してきた風に。
でも、今は出来ない。あの歌を聞いてしまって、私の心は、もう自分でもどうしようもないくらい強固なものになってしまったから。
腕の力が強い分だけ、哀しいと思う。こんな風にしか出来ない自分を呪いたくなる。
私は、今までハリーの事を逆恨みにも似た気持ちを持っていたけれど、私の方がずっとタチが悪い。
ずっと、ひどい。
「ごめんなさい…本当に。ごめんなさい」
「………謝ってくれんでもいい」
「こんな風にしか出来なくて、ごめんなさい」
「ハリーくんの事が好きでもいいって言っても?」
「そんなの……!それに、そうじゃないの。それだけじゃ、ないの」
「……そうか」
「……ごめんなさい」
壊れたみたいにそれしか言えない私に、それでもクリスくんはまだ笑ってくれた。
どうしてまだ笑ってくれるんだろう。殴られたって、文句も言えないのに。
「もう…もう優しく、しないで」
「詩穂ちゃん…」
「そんな資格……私には、ないんだから」
そう告げると、クリスくんは困ったという風に息を吐いて笑う。それは、今まで見たどんな笑顔より哀しかった。
「そう出来たらどんなにええかって、ボクも思うんやけどな」
la terrasse des audiences au clair de lune